悲しみに勝つ祈り【第十九話】
いつしか人は立ち直るときが来るのだろうか。色々なことで人は立ち止まるけど、その度になんとか立ち上がり再び歩き出そうとする。またどこかで立ち止まるかもしれないが、それでもまた立ち上がるのだ。人間はそうしてしつこく止まって歩いてを繰り返す。
その時に、誰かが側にいるというのはとても心強いもので、杖の役割をしてくれるのだ。止まろうとしたら声をかけ、止まったら背中を押してくれる。そんな存在を誰しもが探し求める。というよりも、そういう存在を探すために歩き続けていると言ってもいいのかもしれない。
私にとって綾香はそういう存在だった。そして綾香が死んで、先輩がそういう存在に取って代わったのだろう。先輩に支えられていたという事に関しては、本当は気づいていたのかもしれない。なんというか恥ずかしさから知らないふりをしていたところもある。でも、今はもう素直に「ありがとう」と言えるし、ある程度の心を見せることもできる。(もっとも彼は勝手に見透かしていたみたいだけれど)
何はともあれ、私は前に進むことができるようになったのだ。少なくとも一年前よりは。
名目上なのか真実なのか。それは置いといても、私と先輩が恋人同士となったのは、あの日、布団のセールスが来た雨の日の夜だ。私は先輩と、先輩に託した綾香の心を受け入れた。人は誰かに寄りかかられたり寄りかかったりしないと生きていけないからだ。
お互いの抱える影を取り払うかのように、強く抱きしめ合いながら夜を過ごし、私はその時、自分が激しく昂ぶっているのを知ってショックを覚えた。私はレズビアンではなくバイセクシャルでだったらしい。そして彼も同じように激しい昂りの果てに射精した自分に、ショックを隠しきれなかったようだった。
何はともあれ、その夜以降、私達はそういう関係になった。お互いにお互いの足りない部分を補って、そして歩いていこうと。これを恋人というのか、それとも「パートナー」というのか分からないが、恐らくは同意語なんだと思う。
☆
2017年1月1日
地元
☆
人が多く混雑する神社で、私は嫌な顔をして手を合わせていた。何が嫌かと聞かれれば、お賽銭をなげるという行為そのものだ。神様への感謝を表すためのお賽銭なのに、そのお金を投げるなどどういう神経なのだろうか。勝手にやってきてお金を投げつけ、一方的な願い事を押し付け、何か買食いして帰るのだ。そういうのはお参りとは言わない。人間の勝手極まりない行為だ。だから私はお賽銭もしないし手も合わせないし願い事もしない。願い事など意味を成さない。
「帰りましょうよ」
私がそう言っても、いつまでも先輩はいくつかの出店を物色し、ウロウロしていた。本当に買い物に時間がかかる、女のような人だ。
「まぁ待てよ。そんなに急がなくてもいいだろ」
私は仕方なく先輩の後ろをついて歩いた。嫁の長い買い物に付き合わされた挙げ句に荷物持ちをさせられる夫の気持ちがよくわかる。
今日、私達は二人して東京郊外にある神社へ朝からやってきた。神社に疎い私はここが何という神社かも知らないし、もちろんご利益なんてもってのほか知らない。(前提としてそういうのは信じていないのだが)
皆はネックウォーマーやらマフラーやらで口元まで隠し、何かから身を守るようにして歩いている。風がたまに吹くと体の芯から冷えるような寒さだった。
あれこれと物色し終わった先輩を追って境内から出た。先輩の手には何もなかった。
「あれだけ時間かけて何も買わなかったんですか?」
「買うのが目的じゃないからな。何か買ってほしかったのか?」
「違いますよ」
私達はそんな他愛もない話をしながら神社の階段を降りていく。何組もの家族や恋人達とすれ違うと、私達もそんな風に見えているんだろうと思った。
階段の下からは境内で感じるよりも鋭く冷たい風が吹き上げ、私のコートの裾をはためかせながら侵入してくる。裾を押さえ髪を押さえ、乾燥から目を守るために細めた。目からはなんとなく涙が出た。
「寒いか?」
「暖かくはないですね」
そりゃそうだ、と言って先輩は自分の巻いているマフラーを私に巻いてくれた。
「いいですよ」私は焦ってマフラーを取ろうとした。「先輩が風邪を引きますよ」
「大丈夫だから、巻いとけよ」
そう言ってまた巻かれた。先輩の温かみが残るマフラーは、普段巻いているマフラーより温かく感じた。
☆
私の自宅に戻ると、温かいココアを飲んだ。じっとりと体に温かさが染み渡り、張り付いた寒さが落ちていった。エアコンは寒さを取るために一生懸命温風を吐き出そうとしていたが、あまりの寒さにいつまで経っても冷風が出ていた。
「寒い」
先輩はココアのカップを持って、体を小さくした。
「寒すぎです」
私はコートを掛けながらそう言った。本当に寒いのだ。朝露が未だに窓ガラスを濡らし、その背景を白く濁らせる程に。
吸い寄せられるように窓の外へ視線をやると、遠くから聞こえるクラクションが聞こえた。見たのに聞こえた。これは不思議な体験だった。トラックの音や子どもたちの話し声、全ては耳と目で認識しているときがある。
「なぁ」先輩は緩やかに声を出した。「俺は今年で卒業なんだよ」
「そうですね」
「お前を一人残すわけだが、大丈夫か?」
「何を心配してるんですか?」
「いろいろさ」
先輩の心配はなんとなくわかる。私には友達と呼べる人がいないのだ。講義を受けていても私は一人で受けていたし、実際に私の側にいたのは先輩だけだった。私の卒業は最短であと三年残っている。その間に友達ができる可能性は低いのだ。高校だって綾香しかまともな友達はいなかったのだから。
「まぁ、なんとかなりますよ。先輩いなくなっても会えなくなるわけじゃないですから」
「お前がそう言うなら、それでいいけど。やろうと思えばもう一年、俺は行けるんだ」
「意図的留年? 計画的留年?」
先輩は少し考えた。
「忖度的留年、かな」
「なんですか、それ」私はため息をついて、先輩の正面に座った。「そんな事しなくていいですよ。私だって一人でなんとか出来るようにならないと、いつまでも先輩におんぶに抱っこでは、綾香が安心できません。というか、就職も何もかも決まっているのに、今更そんな事できるわけないじゃないですか。予定は予定通りに進めて下さい」
「なるほど、確かにな。まぁ、いつでも来るし、うちに来てもいい。俺はいつでもお前を待ってるよ」
そう言ってココアを飲んだ。そういえばこの人はいつもココアを飲んでいる。
夜の帳が降りると、私は布団の中で眠った。先輩は用事があると言って今日は帰ったので、一人で眠る。
仰向けになり天井を見上げてじっとしていると、外が静かなことに気がついた。こっそりと布団を抜け出して和室には大きすぎる窓を開けると、雪が積もり始めていた。降雪も多い。恐らくは明日の朝には銀世界になっているだろう。車も渋滞するだろうし、電車も止まるかもしれない。空に飛行機も飛ばないかもしれない。
でも、冬季休暇の私にはなんの関係もない話だった。
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