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『失われた兎たち』


 私は兎(うさぎ)が大好きだ。あの愛くるしい見た目がたまらない。目はくりっとしていて純粋だし、あの寡黙さは私の心を癒してくれる。犬とか猫といった獣どもとは比べようもないほど大切な存在だ。あの姿を思い浮かべるだけで心が温かくなる。
 でも、私は兎を飼ったことがない。お母さんがそれを許してくれなかったのだ。お母さんは兎をとても憎んでいた。理由はわからない。私が兎の話をすると、彼女は私の顔をキッとにらみつけた。テレビに兎が出てくると、母は無言でチャンネルを変えた。だから、私はいつしか兎の話を彼女にしなくなった。母はたくさんのものを憎んでいた。政治家、お金持ち、努力しない者たち、そして繁栄を謳歌する者たち。そういった中で、どうして兎を憎んでいたのか、私にはわからない。そしてお父さんはこの世のあらゆることに興味がなかった。飛行機がビルに突っ込んだときも、地震で多くの人が亡くなったときも、父親は顔色一つ変えなかった。地下鉄に毒ガスがまかれたときも、幼い女の子たちが暴力を受けた末に殺されたときも、そうだった。まるでこの世界には絶望が当然のように蔓延していて、今更そんなことを気にしても仕方ないんだ、というように。だから私の家で兎を飼うなんてことは到底考えられなかった。私は写真の中でしか兎と親しめなかった。大人になり、一人暮らしをするようになった今でも、兎のことが好きなままだけれど、兎を飼ってはいない。欲しかったものがずっと手に入らないと、いざそれを手に入れることができそうになっても、なかなか実感が湧かないものだ。むしろ、本当にそれを手に入れてしまっていいのだろうか、とさえ思ってしまうのだ。
 私の心の中にはいつも兎がいた。辛いことがあったときや、人生に希望を持てなくなったときは、私は兎のことを思った。すると心が軽くなり、救われたような気がした。いつしか私にとって、兎という存在は尊く清らかで、大切な存在になっていた。それでも、私は兎に触れたことはおろか、直接見たこともないのだった。それでもかまわなかった。

 大学卒業後、私は地元の広告会社に入社し、そこで働いていた。世の中は好景気で、地方の企業も次々と広告を依頼してきた。企業の人たちは、広告さえ作って世の中に宣伝できれば、それでいいようだった。その中身なんてこだわりがないようだし、とにかくそれで商品が売れれば彼らはかまわないようだった。だから、私は命じられるままに彼らのための広告を作成した。わかりやすく目を引きやすいキャッチコピーを考え、時に地方では有名な芸能人(過去に全国版のテレビに出演した人たちだ)を起用した。宣伝がうまくいき、クライアントのイメージが良くなると、依頼人たちは上機嫌で会社にやってきた。あなたたちのおかげですよ、と。御社が作ってくれた広告のおかげで、わが社は消費者たちから愛され、このように売り上げ増加につながったのですよ、と。ありがとうございます、と彼らは言った。私も、こちらこそみなさんの事業にこのような形で参画でき、まことに嬉しく思います、と笑顔で言った。全てが予定調和のような気がした。
 でも、こういったことが続くのは、景気が良いときだけだ。景気が悪くなれば、企業は人員を削減したり、宣伝費を削ろうとしたりする。彼らは余分なものとそうでないものを熟知しているからだ。そして自分たちの身を守るために躍起になるのだ。経済がうまく循環し、人々が潤えば、世界は偽善と演技に満ちた輝きを放つ。でも、何かがうまくいかなくなって、モノが売れなくなれば、人々は本性を見せる。途端に攻撃的になり、好景気のときよりもずっと欲を露わにする。私にはそれがわかっていた。私はいずれくるであろうそのときのために、今のうちに感情を押し殺して備えていた。いざというとき、頼れるのは自分しかいないのだから。いざというとき、人は必ず独りぼっちなのだから。

 ある日のことだった。私は仕事を終え、自分のアパートに向かっていた。職場は家の近くにあるので、いつも歩いて行き来しているのだ。それが地方で就職することの良い部分だった。家賃が安いので会社の近くに住むことができる。
 雨が静かに降っていた。気をつけないと、その音さえ聞き逃してしまうほど、穏やかな降り方だった。道は雨のせいで黒く塗れ、いつもより暗い雰囲気が漂っていた。湿ったコンクリートの臭いが鼻に上ってきた。それでも、雨雲の間から夕陽がわずかに差し込んでいたおかげで、家々の屋根は紅く照らされていた。不思議な雨の日だった。
 私は傘を持ちながら、ヒールの音をこつこつと鳴らしつつ、道を歩いていた。このまま家に帰れば、ありあわせの食材で夕食を作り、ビールを飲んで、味気のない数時間を過ごすことになるだろう。就職してもう三年が経つが、私の毎日はだいたいそんな感じだった。私は基本的に前向きに生き続けていて、いちいち立ち止ったりしなかった。立ち止らなくてはならないほど思い悩んだこともないし、人生について真剣に考えることがなかったからだ。仕方がないからという理由で日々を過ごしていた。
 車が時折、私の左側を通過していった。タイヤが道路に溜まった水を跳ねさせる音が聞こえた。私はうつむき加減にいつもの道を進んでいた。視界に入るのは代わり映えのないものばかりだった。それらは私の頭を素通りしていった。昨日と同じように、あるいは一昨日と同じように。
 しかし、私はハッとして立ち止った。何かが視界に映ったのだ。私は顔を上げて、それを注意深く見た。向こうの電柱の横に、何かがうずくまっていたのが見えた。
 それは雨に打たれながら、じっと濡れるのに耐えていた。
 兎だ。私は思わず息を呑んだ。そんなはずがなかった。まさか、本物の兎がこんなところにいるなんて。しかし、何度見直しても、それは兎に他ならなかった。私がかつて心から愛していた存在だ。私が唯一信じたものだ。
 その出会いはあまりに唐突だったため、胸が一気に高まるのを感じた。それは喜びとも、興奮とも区別できない感情だった。私は深く息をして、冷静になろうとしたが、無駄だった。
 私はゆっくりと、兎に近づいていった。それは電柱の下で体を小さくさせ、雨から少しでも逃れようとしていた。確かに雨の粒は小さく、その勢いは緩やかではあったが、兎の体を確実に濡らしていた。きっと冷え切っているに違いない。
 私が電柱にたどり着くと、兎はゆっくりと顔をあげ、私の顔を見た。その目はやはり限りなく純粋で、澄んだ川の水のように透明だった。まるでその目を見ていると、自分自身も透き通った何かになれそうな気がするほどだった。その瞳はまっすぐ私に向けられていた。それを直接受けて、私は何も言うことができなかった。心を打たれたのだ。
 いつか兎と触れ合える機会を得られたなら、私はきっと感動するだろうと思っていた。それはいつも心にある、尊く清らかな存在であったから。しかし、今こうして、本物の兎を前にすると、もはや私の心は根底から大きく揺るがされていた。それは私という人間の深いところに手を伸ばし、そこにある何かに触れようとしていたのだ。
 私がなぜそこまで、この兎に心を打たれているのか。それは彼が何者かによって、無情にも打ち捨てられていたからだ。だから私は言葉を失っていた。なんて言えばいいかわからなかったし、どんなことを思えばいいかわからなかった。私は平静を失っていたのだ。兎は雨に打たれつつ、そんな私を静かに見上げていた。
 彼は口を開いた。
「お姉さん」
 彼の声は小さかったが、美しく繊細な声だった。それは静かに雨が降る中で、まるで穏やかな風の音色のように聞こえた。彼は表情を変えずに、淡々とその言葉を言った。それなのに、私の心はどうしようもないほどに切なくなり、彼の声が頭の中で何回も繰り返されていた。
 彼は続けた。
「ぼくを拾ってください」
 私はしばらく唇をぎゅっと結び、その場に立っていた。傘の下で、兎を見下ろしていた。兎はまっすぐな目を私に向けていた。その視線の交差は、実際にはわずかな時間なのだろうけど、私にはとても長く続いたような気がした。
 やがて私は兎に歩み寄り、しゃがんで自らの傘の中に彼を入れた。彼はもう雨に濡れなくなった。迷いはなかった。
 私はこの子を家に連れていくことに決めた。

 兎を自分のアパートに連れていくと、私は彼の濡れた服をすべて脱がせた。彼の肌は絹のように繊細で白かった。傷跡一つない、本当にきれいな肌だ。強く触れてしまえば簡単にあざさえできてしまいそうだった。彼を裸にしてしまうと、私も服を脱ぎ、一緒にシャワーを浴びた。シャワー室の中は狭かったので、私たちはほとんど抱き合うようにそこにいた。
 長い間雨に打たれていたせいで、少年の身体は冷え切っていたし、ところどころ泥やほこりで汚れていた。彼は目をつむり、じっとしていた。一言も発さなかった。でも、その顔から緊張がなくなっていくのがわかった。私はボディーソープをたっぷりとつけたタオルで、彼の足や背中、そして少年の性器さえ優しく洗った。
 兎は私より身長が低く、華奢な体付きだった。体には余分な肉はなく、とてもほっそりとしていた。一見すると、彼は普通の十三歳の男の子とまるで違いがなかった。髪は雪のように真っ白で、少年の顔を包み込むように伸びていた。顔立ちは天使のように美しい。多少憂いを伴った目をしていて、瞳はいつもやや下の方に向けられていた。雨の中で見つめ合った後は、一度も目を合わせていない。それはこの兎が他人と心を通わせられないからだろう。そう考えると、私の心は刺されるような痛みを感じた。
 シャワーを終えると、今度はバスタオルで少年の体を拭いた。その繊細な皮膚を傷つけないようにとても気を遣った。水気を拭き切ってしまうと、私は自分のパジャマを彼に着させた。サイズはあまり合っていなかったが、一応問題なく着ることができた。兎をリビングに連れて行くと、ソファーに座らせた。少年はちらちらと私の部屋の中を見回したが、何も言わなかった。女性の部屋に来るのは初めてなのかもしれない。
 私は彼のために夕食を作ってやった。と言っても、十分な材料がなかったから、大したものは用意できなかった。ベーコンとキャベツの入った温かいスープ、クルトンと新鮮なレタスのサラダ、さっぱりと焼いた鶏のもも肉といった程度だ。私が料理を持っていくと、兎はまず、スープから飲んだ。恐る恐るスプーンを手にして、スープをすくい、口に運んだ。彼の表情は大きくは変わらなかったが、その目に光が宿るのが見えた。食欲が沸いたらしく、兎は黙ってご飯を食べていった。けっこうな量があったから、全部を食べきることはできなかった。それでも、食事が終わるころには、少年は満足そうな表情をしていた。わずかに頬が緩み、落ち着いたような様子が見受けられた。
 食器を片付けた後、私は兎に尋ねた。
「おいしかった?」
 少年は目も合わせずに、わずかにうなずいた。彼はテーブルの前に座り、うつむいていた。私は彼のとなりに座り、顔を近づけた。少年の髪からシャンプーの匂いがした。
「ねえ」と私は言った。「あなたは兎なんでしょう?」
 少年はゆっくりと顔を上げて、私の顔を見た。少年と視線が交わると、私の心が揺れ動くのを感じた。しかし私はそれを表情に出すまいと努めた。今までやってきたのと同じように。感情を殺し、平然と生きてきた父のように。
 少年は何も言わなかった。じっと私の目を見ていた。それはすべてを見透かす目だった。この子は私の心を見抜いているのだ。なぜならこの少年は兎なのだから。
 私は震える声で聞いた。「何があったの?」
 少年はゆっくりと視線を下ろしていった。彼は口をつぐんでいた。しゃべりたくないようだった。何があったのかを。どうして自分が打ち捨てられていたのかを。この兎は寡黙だった。世の中の饒舌な連中とは対称的だった。自分のことを語りたがる低俗な者たち。そして、尊い存在でありながら、言葉を飲み込む美しい少年。私は首を振った。この世の中は残酷すぎる。
 しかし、兎はぽつりと言った。
「お姉さん」
 私はかすかに微笑んだ。「なあに?」
「お姉さんの心は凍り付いている」
 彼はそう言った。まるで文字を読み上げるように。
 私は深く息を吐いて、尋ねた。
「私の心が?」
 兎はうなずいた。
「それは、どうして?」と私は聞いた。
「あなたが凍らせた。自分の手で」
「……あの時ね?」
「お姉さんは生き残ってしまった。他の人たちは逃げ遅れてしまったけど」
 私は目をつむって、兎を抱きしめた。私の中で言葉が形をなそうとしていた。私はそれを食い止めたかった。私はそれらの言葉を、まだ柔らかいうちに、光が照らされる前に、ずっと自分の中の奥深くにしまい込んだのだ。でも、今それが、白日の下にさらけ出されようとしていた。


 その夜に、私と兎は一つのベッドの中で一緒に寝た。私の腕の中で、少年は静かな寝息を立てて、深く眠っていた。表情の乏しかった彼の顔も、今や少年特有のあどけない寝顔になっていた。その顔は安心に満ちていて、とても平和そうだった。この子はまだ子供なのだ。まだ十三歳の、繊細でか弱い少年なのだ。いったい誰がこの子をないがしろにしたのか。
 私は涙を流さずにはいられなかった。この世の中は残酷だ。多くの人が苦しんだ末に死ぬ。生きている人も、他の生きている人を激しく憎んで過ごしている。暴力と狂気に満ちた世界だ。だから当然のように兎たちは捨てられる。この子たちが唯一の希望であるというのに。
 どうしてこうなってしまったのだろう? 母はかつて心優しい一人の女性だったはずだ。父は誰よりも子供を愛し、私たちのためなら命だって捨ててくれた。それはとても温もりに満ちた世界だった。私は家族の一員であることを実感していたし、自分がこの世の中に含まれているという感覚をもっていた。でも、いつの間にか、私たちは独りぼっちになってしまった。我々は何にすがって生きればいいのだろう。どんな物語を背景に歩いて行けばいいのか。そんなこと、誰も教えてくれなかった。
 私は腕の中の兎をぎゅっと抱きしめた。この子を守らなくては、と私は思った。この子はとてもか弱い。誰かが守ってあげないといけないのだ。もう人々は保護してくれない。彼らは自分たちのことで精一杯だからだ。そして、何が本当に大事なのかを見失っているからだ。でも、私にはわかっていた。一番大事なものを知っていた。しかし、そのことは誰にも教えるつもりはない。教えてしまえば、連中は獣のように群がり、欲望のままむさぼるだろう。だから、私も口をつぐみ続けなくては。
 私の涙はしばらく止まらなかったが、それでも時間が経つとようやく涸れた。目を閉じて、ゆっくりと呼吸すると、心の波はしだいに穏やかになっていった。眠りがゆっくりと闇の中からやってきた。私は少年の髪の匂いを嗅ぎながら、眠りについた。

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