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『ガラス張りのトナカイ』

「君も図書館に初めて来たの?」、僕は驚きを隠せずに聞いた。
 女の子は不安げにうなずいた。
「うん……だからどうすればいいかわからなくって」
 僕たち二人は、図書館を前にして、途方にくれていた。目前にそびえ立つ、図書館という名の巨大な要塞は、とても僕たちのような高校生を受け入れてくれるようには見えなかった。見るからに大きく、立派な建物だ。それは高層ビルほどの高さもありながら、外壁は分厚く強固に造られていて、ミサイルの一本や二本が飛んできたところで、ビクともしないだろう。きっと警備も厳重で、抜かりがないに違いない。それだけ本というものは貴重で大切な存在なのだ。
「本当に入れるのかな……」
 女の子は心配そうに言った。
 僕は彼女と友だちでも、知り合いでもなかった。ついさっき、僕がここでうろうろしていると、後からやってきた彼女が話しかけてきたのだ。お互い図書館の利用は初めてで、心細かったから、すぐに仲良くなることができた。
「でも、手ぶらで帰るわけにはいかないね」
 僕はそう言って、勇気を振り絞り、その要塞の敷地に足を踏み入れた。
 しばらく歩くと、衛兵らしき大柄な男二人が、頑丈で巨大な扉の前に立っているのが見えた。
「すみません」と僕は声をかけた。「図書館を利用したいのですが」
 細い目をした右側の男が、僕たち二人をぎょろぎょろと見比べた。
「身分証明書を」と彼は言った。
 僕と女の子は保険証を差し出した。細い目の男がそれを受け取り、じっくりと吟味した。もう一人の衛兵はプラスチックのボードの上で、紙になにやらを書きつけていた。筆圧が強く、ごりごりという音が聞こえる。僕らは緊張しながら待った。
「来館の主な目的は?」、ボードを持った男が聞いてきた。
 女の子は少し硬い声で答えた。
「読書感想文を書くために、指定された本を読みたいんです……」
 衛兵はそれを紙にメモした。
「君は?」、彼はこちらを見た。
「哲学の本が読みたかったので」
 同じようにメモしている。
 細目の男が言った。
「本来ならこれで入館を許可するのだが、今日ばかりは、君たちに許可を与えられない」
 僕はびっくりして聞いた。
「なんでですか?」
「君たちのように丸腰では、図書館の利用は非常に厳しい」と細目の男が言った。
「なにしろ、最近は館内に虫がはびこっているからね」とボードの男が説明した。
「虫、ですか?」、女の子は不思議そうに尋ねた。
「ああ。本を食べる虫さ。我々も駆除にいそしんでいるのだが、まだ全部を退治できないでいる」
「人間にも危害を加えるかもしれない。まあその可能性は低いが、危険に代わりはない」
「でも、僕たちはどうしても本を読まなくてはならないんです。なんとかなりませんか」
 僕のお願いに、二人の男は顔を見合わせた。
「どうする?」とボードを持った男。「確かにここ数日は、虫の出現は報告されていないが……それに危害を加えるといっても、たいしたものではないだろう。男もいるんだし」
「しかし、万が一危険があったら……」
 男たちは真剣な顔で話し合った。僕と女の子は彼らの話の行く末をみまもった。
「いいだろう」、ボードの男がこちらに向き直った。「今回は特別に入館を許可しよう。おそらく、危険はないだろうから」
「ありがとうございます」、僕と女の子は頭を下げた。
「虫が現れたらすぐに逃げるんだ」、細目の男が言った。「ずいぶんくいしんぼうな虫だからな」
 細目の衛兵は扉の認証コードを入力し、ボードを持った衛兵と同時に、手のひらの静脈認証を行なった。ピー、という音がして、扉が解錠された。衛兵たちは二人がかりで、僕が十人いてもビクともしなさそうな扉を押し開けた。僕と女の子はおずおずと中に入り込んだ。それを確認した二人の衛兵は、また同じように、力ずくで扉を閉めた。

 僕は初めて入った図書館の中を、ぐるりと見渡した。とても広いし、入り組んでいる。ここはロビーだが、すでに視界にはいくつもの扉と、廊下がどこまでも伸びているのが見えた。そして、とても静かだ。人の気配はない。司書も、他の利用者も見当たらなかった。他の階にいるのかもしれないが、耳を澄ましても物音一つ聞こえなかった。
 階段の横に、各階の説明書きが張られていた。女の子と一緒にそれを読んだ。どうやらこの図書館は10階まであるらしい。外から見たとおり、大きな建物なのだ。
「僕の場合、8階まで行かないといけないなぁ」と僕は言った。
「あ、私もそうみたい」、女の子はほっと息を吐いた。「同じ階でよかった。一人で行く勇気はなかったもの」
「僕も同じさ」
 階段の反対側にエレベーターがあったので、僕たちはそれに乗って八階へ昇った。エレベーターはとてもゆっくりと動いたので、上に向かっている間にたくさん話ができた。短く自己紹介して、自分の通っている高校のことを話した。彼女とは初めて会ってまだ間もないのに、ずいぶん話が弾んで楽しかった。
 八階に到着するまでの時間が、やけに短く感じられた。僕らはエレベーターから降りて、廊下を歩いた。それぞれの部屋のドアには、本の分類が書かれていた。僕らはエレベーターから4つ目の部屋の前で立ち止まった。
「僕はこの部屋で本を探すよ。目当ての本がありそうだからね」と僕は言った。「君は?」
 女の子は言いにくそうに言った。「私はこの部屋じゃないけど、一緒に本を探すわ」
「本当に? 時間がかかるかもしれないよ」
「いいの。私、一人だと怖いし」
 それは僕も同意見だった。虫だの何だの言われて、気持ちよく本を探せるわけがない。
「ありがとう」
 僕はそう言って、ドアの引手に手をかけた。一度深呼吸してから、思い切って扉を開けた。

――――――――――――――――――――――――――――――――

 僕らは呆然と立ち尽くしていた。
 室内には、数十匹はいようかというウサギが飛び跳ねていたのだ。
「まさか……あれが本?」、彼女は恐る恐る聞いてきた。
 あたりを見まわしたが、ウサギ以外に本に相当するものはなかった。部屋の隅には、ウサギ用の水飲み場とトイレ、そしてウサギの寝床らしきワラが積まれた囲いがあった。それらを見る限り、ここはただのウサギの飼育室にしか思えなかった。
 しかしよく見ると、ウサギの背中には、本のタイトルらしき文字が、黒い模様として浮かんでいた。
『自省録(マルクス=アウレーリウス』
『実存主義とは何か(サルトル)』
などなど。
「あのウサギは本当に本なのかな」と僕は言った。
「わからない。私は一度も本を読んだことがないもの」
「僕もさ」
 僕は試しに、近くを飛び跳ねていたウサギを一匹捕まえてみた。ウサギは腕の中に収まるとおとなしくなった。ふわふわとしていて温かく、心休まる感触をしていた。僕が抱いているのも含め、部屋にいるのはみんな白いウサギだったが、背中の部分だけに黒い毛が生えていた。それは文字として読み取ることができた。このウサギには『自由論(ミル)』という文字が浮かんでいた。どうやらこれはジョン=スチュアート=ミルの『自由論』を表しているらしい。
「これって、どうやって読むのかな」、僕はウサギの顔をまじまじと見て言った。ウサギもじっと僕の顔を見つめ返してきた。「まさか、食べるのかな」
「本当に?」、女の子の顔が青ざめた。
「嘘だよ。ごめんね」、僕は慌てて謝った。なかば本気で言ったのだけれど。
 僕はおもむろに、ウサギの頭に自分のおでこをくっつけてみた。何か目的があってやったわけではない。ただなんとなく、こういう動物を相手にすると、やってしまうのだ。犬とか猫にもやったことがある。
 すると、僕の頭の中に、無数の文字が流れ込んでくるではないか。ほんの少し触れただけなのに、おびただしい量の文章がウサギの中から溢れてきた。
 僕はびっくりしておでこを離した。
「どうしたの?」
「……今、文字が頭に浮かんできたよ」と僕は言った。
「本はそうやって読むものなのね」、女の子は納得したように言った。「不思議なのね」
「まさか、ウサギが本だとはね」
 僕は『自由論(ミル)』のウサギを逃がしてやり、他のウサギを探した。目当てのウサギが見つかり、捕まえようとすると、そのウサギは素早く逃げた。しばらく一生懸命追いかけたけど、あまりにも逃げ足が早すぎて、手の中からするりと抜け出してしまうのだ。代わりに女の子がそのウサギに手を伸ばすと、おとなしく彼女の腕の中に収まった。
「人を選ぶウサギみたいだ。いや、本か」、僕はうんざりして言った。女の子は楽しそうに笑った。
 そのときだった。
 僕は変な音を聞いた。それはウサギの跳びはねる音でも、女の子の小さな笑い声でもなかった。静まり返った館内で、それはやけに大きく聞こえた。
 女の子も聞こえたようだった。彼女は腕の中のウサギを静かに下ろした。
「何かしら、今の音は?」
 僕は首を降った。「水っぽい音だったね。僕らの他に誰かいるのかも」
「あの人たちの言っていた虫かしら?」
 僕にはわからなかった。とにかく、僕らは静かにその部屋を出た。廊下では音がよりはっきりと聞こえた。水っぽい音と、何かを砕くような音だ。不安を感じながら、僕は興味を覚えて、その音を辿ってみることにした。後ろに女の子がぴったりとついてきた。
 廊下を奥に進むと、ドアの開いた部屋が見えた。音はそこから聞こえてくるようだった。僕らは忍び足でその部屋に近づき、中を覗き込んだ。部屋は先ほどの部屋と同じ構造だが、ウサギの他に、何かがいた。
 それは見たこともない、ぶよぶよとした緑の怪物だった。人間でも、虫でもなかった。高さは僕の背丈と同じくらい。体は台形で濃い緑色だった。足はないが、体の左右から長い触手を伸ばし、それを手のように扱っていた。触手は逃げ惑うウサギの足をさっとつかみ、手際よくぱっくりと開いた大きな口に運んだ。口の中にはおびただしい数の歯があり、ボリボリと骨を砕く音が聞こえた。肉を噛み切る音が聞こえた。ウサギたちのかすかな悲鳴が聞こえた。辺りにはウサギたちの血が飛び散り、食い残した手足が散らばっていた。
 隣で女の子が息を飲んだ。僕は心臓が強く鼓動しているのを感じた。これが衛兵たちの言っていた虫なのか? と僕は思った。いったいこいつのどこが虫なんだ? 得体の知れない怪物じゃないか。
「行こう」
 僕はとても静かな声で言った。これだけあいつと離れているのだから、僕の声が聞こえるはずがない。しかし、唐突に、あの怪物はぐるりとこちらを向いた。僕たちの体は固まった。
怪物は大きな目をしていた。それはどことなく、穏やかで、優しげな瞳だった。しかし、その口は大きく、石のようなごつごつとした歯が見えた。そこにはウサギの血がこびりついていた。
『知識を食って太るんだ』
 低い男の声だった。
 その声は、隣から聞こえたかのように、大きな音で、しっかりと、僕らの耳に届いた。
『もぉっと大きくなるぞ。新しい靴を買わなくては。ガラス張りのトナカイと同じような涙を流しているのだ』
怪物は楽しげにそう言った。
 僕は女の子の手を引いて、部屋から走り出した。すぐ近くにあった階段を無我夢中で駆け下りた。ここから逃げなくては。
 しかし、背後から、粘着質のものが床を這うような音が聞こえた。べちょべちょ、ぐっちょん。その水っぽい音は天井や壁に響いていて、怪物がすぐ近くまで来ているように思えた。信じられないことだけど、さっきの化け物が僕たちを追いかけているのだ。それも、ものすごいスピードで、粘液をまき散らせながら。
 衛兵たちが虫といっていたあの怪物は、今まさに僕たちを襲おうとしているのだ。そして僕と女の子を食べようとしているのだ。
このままでは追いつかれてしまう、と僕は思った。とても逃げ切れる気がしない。捕まってしまえば、僕と女の子はあいつに喰われてしまうのだ。あの暗い口の中に押し込まれ、骨や内臓を食いちぎられながら、絶望の中で殺されてしまうのだ。
「エレベーターだ!」と僕は叫んだ。女の子は何も言わずに、僕の手に引かれて一緒に走ってくれた。
僕らは5階で階段を下りるのをやめて、その階のエレベーターへ向かった。もうそこにしか逃げ道はない。二人ともすでに息が切れていて、これ以上走ることもできなさそうだった。でも、エレベーターの中に入って下に降りれば、命は助かるかもしれない。僕らは最後の力を振り絞って走った。足がもつれそうになり、彼女との手が離れそうになっても、決して止まらなかった。
 エレベーターにたどり着いた。すぐに降りるボタンを押す。しかし、エレベーターはこの階に来てはいなかった。僕たちのいた8階で停まっていたのだ。ここまで下りてくるのに時間がかかる。
 僕は後ろを向いた。階段のところから、あの怪物が這い出てくるのが見えた。僕は叫びたくなる気持ちをなんとか抑えた。女の子は震える体を僕に押し付けてきた。二人は背中をエレベーターの扉にくっつけて、開くのを願った。
 緑の化け物が迫りくる中、先にエレベーターが到着した。扉が開くのと同時に、僕らは体を滑り込ませるように中へ入った。僕はすぐに閉じるためのボタンと、1階へのボタンを押した。ややあって、扉が閉まりだした。
助かった、と僕は思った。彼女の手を離し、額の汗をぬぐった。閉まろうとする扉の向こうでは、少し離れたところに緑色の怪物が見えた。あいつは不思議な笑みを浮かべていた。それは人間のような笑いだった。僕はぞっとした。やつはおそらく、怪物でありながら、人に近しい化け物だったのだ。
「きゃあ!」
女の子が悲鳴をあげた。
 僕はぎょっとした。隣にいる女の子の足に、緑色の触手がからまっているのだ。それは気が付かないうちに素早く伸びてきて、扉の隙間から入り込んでいたのだった。
 触手は縮んでいき、彼女の体はエレベーターから引きずり出された。閉まりかけていた扉がまた開いてしまった。女の子は暴れていたが、どうしようもなかった。触手の力はすさまじく、彼女では抵抗できるはずがなかった。
 そのとき、僕は彼女の名前を呼ぼうとした。さっき、八階に行くときにエレベーターの中で聞いたばかりの、あの子の名前を。しかし、唐突に、僕は彼女の名前を忘れてしまった。それはすでに僕の頭の中から消え失せてしまっていた。
 僕は言葉を失ったまま、その場に凍り付いていた。
 扉は再び閉まろうとしていた。その間から、怪物が女の子に襲い掛かろうとしたのが見えた。大きな口がぱっくりと開いた。上あごが天井を向き、頭が背中にのけぞるくらいまで。化け物は彼女を頭からかぶりつこうとしているのだ。
 女の子の激しい叫び声が聞こえた。それは僕が今まで聞いたことのないような、とてつもない叫びだった。死に恐怖し我を失う人間の声だった。その声は僕の耳にしっかりと聞こえた。
 怪物の口が閉じる瞬間に、エレベーターの扉が完全に閉まった。もう女の子と怪物は見えなくなった。それと同時に、女の子の絶叫は唐突に途絶えた。それはまるで何かの電源を急に断ち切ったみたいだった。
僕を乗せたエレベーターは、静かに1階へと下り始めた。その中はとても静かだった。僕はその場にしゃがみ込み、頭を抱えた。体が震え、歯がカタカタと鳴った。女の子の悲鳴はもう聞こえなかったが、頭の中にそれはいつまでも響いていた。その音は僕の耳にこびりついて離れなかった。
 僕は扉が閉まりかけたとき、ホッとしてしまったのだ。だから手を離してしまった。それが隙になったのだ。まだあの怪物との距離があったから、もう大丈夫だと、安心してしまったのだ。しかし、あいつは長い触手を伸ばして、彼女の足に絡みつき、その体を自らの元へ引き寄せたのだ。
 僕は激しい後悔と罪悪感に襲われた。息がつまるほどの感情が僕に押し寄せた。自分がどうにかなってしまいそうだった。彼女は激しい絶望の中、頭から噛み千切られ、死んでしまったのだ。喉を裂くほどの叫び声をあげて、助けを求めていたのに、無残にも食い殺されてしまったのだ。僕が手を離さなければ、油断しなければ、女の子は死ななかったのだ。

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 1階に着いた。
 ふらふらとエレベーターから降りると、図書館の出口の前に誰かが立っているのが見えた。そこには三人いて、一人はあの女の子だった。
 おかしい。
 なぜあの子がここにいるんだ。
 怪物に食われてしまったはずなのに。
 僕の心臓は恐怖で固くこわばった。
 女の子の横には二人の衛兵もいた。僕らを中に入れてくれた男たちだ。彼らは彼女と話をしていた。二人とも真剣に話し込んでいて、僕に気付いてはいなかった。
 突然、女の子が手を上げて、僕を指差した。まるで最初から僕がいることをわかっていたかのように。衛兵たちはさっと振り返り、僕の姿を認めると、こちらに駆け寄ってきた。二人の表情はこわばっていて、余裕を失っていた。彼らは僕に事情の説明を求めた。
 僕は震える声で、衛兵たちに例の虫が出たことを言った。ウサギをむさぼり、言葉を話し、僕らを追いかけてきた虫のことを話した。しかし、女の子のことは話さなかった。彼女が怪物に襲われ、食べられてしまったことは言わなかった。話すことが怖かったから。話してしまうと、恐ろしいことが起こると思ったから。
 衛兵たちは険しい顔をした。何か不自然でありえないことが起こっているようだった。彼らは加えて、僕にいくつかの質問をした。虫はどれくらいの大きさで、どの部屋にいて、何をしゃべっていたのか。僕はそれに一つ一つ答えていった。
「ガラス張りのトナカイとか、なんとか言っていました」と僕は言った。
 僕が彼らの問いに答えている間、女の子は一言もしゃべらなかった。彼女の様子は明らかに異様だった。その姿かたちは、あの子そのものなのに、僕は強い違和感を覚えていた。どうしてかはわからない。そして、衛兵たちはその異様さに気付いていないようだった。彼女は、何か楽しいことがあったかのように、淡く笑みを浮かべて、僕を見ていた。彼女と目が合うと、僕はすぐに視線を逸らした。
「わかった」と一人の衛兵が言った。その声には緊張が混じっていた。「もういい。お前たちは、もう帰れ」
 僕の話を聞き終わった衛兵たちは、僕らをむりやり図書館の外へ出した。早く帰るように、とだけ言い残して、門がバタンと閉まった。彼らは何も説明してくれなかった。あるいは、彼らにも説明できないようなことが起こっていたのかもしれない。
 僕は門の前で立ち尽くしていた。いったい何が起こっているのか全くわからなかった。隣で女の子はうっすらと微笑み、僕を見ていた。
「ねえ」、僕は恐怖を押し殺した声でたずねた。「ほんとうに、君なの?」 
 女の子は首を振った。はっきりと、否定するように。
「いいのよ、行きましょう」
 女の子は手を差し出した。僕はそれを恐る恐る握った。その手はあまりにも冷たかった。あまりにも無機質だった。まるで鉄を触っているようだ。しばらく二人で道を歩いた。僕にはそれが耐えがたかった。悪寒が背中を走り、汗が止まなかった。僕は狂気と隣合わせに歩いていた。
「ウサギがたくさんいたわね」、女の子は何気なく言った。
「そうだね」、僕はなんとか声を出した。
 二人は、顔を合わせることなく、前を向いて歩いていた。
 女の子は僕にたずねた。
「知ってる? ウサギの目が赤い理由を」
 どうしてそんなことを聞くんだ。
 僕は女の子の顔を見た。
「どうして?」
「涙を流さないもの」
 奇妙な沈黙が生まれた。
 僕は我慢できず、ついにその手を離して、駆け出した。後ろからけたたましい笑い声が聞こえた。それは低い男の声だった。愉快でたまらないという笑いだった。そこにははてしない悪意の念が込められていた。
 僕は必死に走った。だが、無駄だった。後ろから伸びてきた緑の触手に足をとらえられてしまった。僕は転び、腹の底から叫び声を上げた。誰かに助けを求めた。でも、その叫びは誰の耳にも届かなかった。

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