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『蛍』

 「出会い」
 
 僕は大学生のころ、とある文化系のサークルに入っていたことがある。卒業までずっと。僕はあまり運動が得意でなく、どちらかというと本を読んでいたり音楽を聴いていたりする方が好きなので、そのサークルにちゅうちょなく入った。
 そこは現代文学や古典文学の考察・議論をしたり、部員がそれぞれ好きな小説を語り合ったり、あるいは小説を書いたりするといったサークルだった。

 一年生と先輩が部室で顔合わせをして、それぞれ簡単に自己紹介をした。僕の番が終わり、椅子に座ると、突然ドアが開き、外から女の人が入ってきた。
「ごめーん、遅れちゃった」
 彼女は顔に笑顔を浮かべ、汗を額にうっすらとのぼらせていた。二年生の先輩が僕に耳打ちした。
「三年生の○○さんだ」
 あえて本名は伏せておくが、仮名として久野霧(くのきり)綾乃(あやの)さんとしておく。
 僕は息を整えている久野霧さんを見た。とてもかわいらしい人だった。ふんわりと包むような短めの髪で、尖ったところのない顔だ。屈託のない笑顔は最上の喜びを表しているようだった。
 久野霧さんが参加した時には、新入部員全員の自己紹介が終わっていた。
 すると背の高い、筋肉質の部長が立ち上がって、手をパン、と叩いた。
「よーし、久野霧も加わったところだし、今日はいっちょ行ってみるか」
 また先輩が僕に耳打ちしてくれた。
「肝試しだよ」
「肝試し?」と僕はびっくりして聞き返した。
 なんでもこのクラブはそういった心霊スポットに行って、男女の交流を深めようとする伝統的な行事があるらしい。今回はどうやら新入部員を歓迎する意味でやると。
 部員は総数二十人で、今回部室にいたのは十五人ほどだった。新入部員は少なかったし、はっきりいって肝試しなんてぜひ遠慮したかった。しかし下っ端の自分が文句を言える立場になかったので、黙って参加することにした。
 幸いなことに、まだ外はいくらか明るかった。太陽は西に沈みかけていたが、暗くなるまでにはまだ時間があるようだった。
 部長を先頭にして近くの廃病院まで向かった。そもそも大学の近くに廃病院があったなんてまったく知らなかった。あまりここ付近の地理的状況は詳しくない。僕が思っていたより、世界は複雑であるようだ。
 廃病院には十分ほどで着いた。予想していたよりも小さな病院だった。コンクリートの壁にはひどい落書きがされていた。もちろん玄関の柵は鍵が閉まっていて、中に入れない状態だった。よじ登れそうだったが、もし入ってしまうと犯罪者だ、と部長は忠告した。
 どうやら入らなくてもいいらしい。ただ病院の周りをぐるっと回ってくるだけでいい。僕は一安心した。いくらまだ明るいとはいえ、こんな気味の悪いところなんか入りたくもない。
二人一組のペアを作り、僕は新入部員の男とペアになった。できれば女子がよかったが、もちろんそんなにうまくいかない。
 余裕だと思った。しかしいざ回ってみると、病院は横に広く、裏には広い雑木林があってそこを通らなくてはならなかった。木がわずかに残る太陽の光を遮って、不気味な暗闇を作っていた。雰囲気も沈うつで、常に誰かに見られているような気がした。僕ともう一人の男子はびびりながら、半ば走って病院の前に戻った。
 全てのぺアが終わると、いよいよ日が沈んで暗くなった。部長は怯えた僕らを満足そうに眺めて、各自解散と言った。部員全員で帰路を辿ろうとするとき、突然僕の手を引く人がいた。久野霧さんだった。
「ねえ、君」
 彼女は目をぱっちりと開けて、口元に笑みを浮かべていた。部員のみんなはどんどん前に進んでいく。
「はい……?」
「ちょっといい?」
僕は意味がわからなかった。「はあ?」
「一緒に行こう、ね?」
 僕はわけのわからないまま、彼女に手を引かれて病院の前に逆戻りした。そして久野霧さんはあまり高くない鍵のかかった柵をよじ登り始めた。僕は彼女のスカートの中が見えそうになったので、慌てて顔をそらした。柵はところどころ錆びていて、なぜだか洗濯バサミが二、三個鉄の棒についていた。
 柵の向こう側に着地すると来て、と久野霧さんは言った。僕は仕方なく荷物を柵の前に置き、柵をよじ登った。
 小さな駐車場を横切って、病院の窓から中に入った。窓はガラスが割れていて、誰でも自由に出入りできるようになっていた。入ったところは診察室になっていて、銀のトレイや、ストレッチャーが放置されている。ところどころ廃れてはいたが、午前中に診察をしていたと思っていいくらい、不気味なほど整頓されていた。誰もこの部屋を荒らすなんて考えもしなかったのだろう。
 彼女はまた僕の手を引き、廊下に出た。女の人と手をつなぐなんてことは業務的なことを抜きにして初めてだった。しかしこの暗い廃病院の中で、男女関係の成立性について考慮している暇はまったくない。一刻も早く帰りたかったが、万引き犯の手を掴む万引きGメンみたいに、久野霧さんは僕の手をぎゅっと握っていた。僕は諦めて彼女について行くことにした。
久野霧先輩は小型のペンライトをポケットから取り出して、廊下を照らした。最初から彼女はここに来るつもりだったのだ。カビのじめじめとしたにおいが鼻をついた。やはり中にもかなり落書きがされていて、ひわいな文字がでたらめに書かれていたり、逆にはっと息を呑むくらい芸術的な絵もスプレーで書かれていたりした。彼女は階段を上り、三階に向かった。どこに行くのか、と僕が聞くと、
「さっきね、三階に見えたの」
「何がですか?」
「何かが」
 僕は急に怖くなった。途中階段の踊り場で空き缶を蹴飛ばし、その音でまたビビった。先輩が手を引いてくれなかったら、おそらく失禁していたと思う。
 三階の廊下に着くと、明らかに空気が違ったのがわかった。ここだけ異世界のような気がした。今でも鮮明に思い出せるのだけど、あの息が詰まるような狭い廊下は、一階よりも闇が深く、濃かった。
「もうすぐ見れるよ」と彼女は言った。「耳を澄まして。そして聞き取って。そこからやってくる何かを。これから見れるであろう音を。触れるであろう空気を」
 久野霧さんはそう言って、廊下の向こうをじっと見つめた。ペンライトは向けなかった。僕は暗すぎて何も見えなかった。あるいは見ようとしなかったのかもしれない。その時の僕は周りを忙しく見渡し、体を縮こませて彼女の背後についていた。
 いよいよ僕の精神が限界だったので、むりやりでも久野霧さんを説得しようと思った。
その時、向こうから奇妙な音が聞こえた。
乾燥した裸足で地面をすって歩くような音だった。
サア、サア。
いや、実際に誰かが歩いてきているのだ。素足で。僕はすっかり硬直した。闇の中から人が出てくる。それは白い服(白衣でもないし、寝間着でもない。抽象的で概念的な中間的衣服だとしか表しようがない)を着て、真っ白な肌をした何かが。首から上は見えない。黒い空気に隠れている。あるいは首なんてなかったのかもしれない。
「先輩」と僕は言った。しかし久野霧さんは憑りつかれたように、闇から出てくる人型の何かを凝視していた。先輩、と僕は叫ぶと、彼女は顔をこちらに向けた。僕は思わずぎょっとした。普通の目ではなかった。
「ねえ、氷室君。会いたいって。ねえ、会いたいんだって、『あれ』」
 そう言うと、久野霧さんはくすくす笑い出した。口に手を当てて、何かを漏らさないように。やがて先輩はケラケラと笑いだし、ペンライトを落とした。僕は慌ててそれを拾い、闇の中に向けようとした。
 だめだ。
 僕の直感がそう示した。あれを見てはならない。人間ではない、『あれ』を。
 僕は狂ったように笑う久野霧先輩を両手で抱きしめ、闇の中に向かって「来るな!」と怒鳴った。先輩は笑うのを止め、闇の何かは歩みを止めた。僕は足が震えていた。しかし最後の勇気を振り絞って、その闇を睨み付けてみた。先輩は僕の顔を不思議そうに眺めている。
 僕は彼女の手を引いて一目散に逃げた。後ろからあれが追ってくるのははっきりと分かった。しかし僕には振り向けなかった。
 診察室に戻り、久野霧さんを窓から出させて、僕も外に出た。そしてふらふらとしながら彼女の手を引いて柵まで走った。柵の前まで来たところで、足を止めて、後ろを向いてみた。
 先ほど僕たちがいた三階の窓にあれがいた。ほとんど夜のはずなのに、あの姿だけは妙に鮮明に目視できた。顔は闇がかかって見えなかった。しかし窓から、この僕をじっと見つめているのが分かった。
「うわああ」
僕はすっかり腰をぬかした。久野霧さんは放心状態で三階を眺めている。
その時、柵の向こうから部長の声が聞こえた。
「おい!」
 僕は涙目になりながら後ろを向いて部長の姿を確認し、また三階を見た。すでに窓には誰もいなかった。僕は空気の抜けたサッカーボールみたいに、その場にへたり込んだ。
「久野霧がいないから戻ってきたんだ」
 部長はそう言った。そして僕に状況の説明を求めた。僕はとにかくあったことを話した。部長という第三者の登場で緊張感が溶け、まくしたてるように話した。その間久野霧さんは叱られた子供のように肩をすくめていた。
 あらかた話し終えると、先輩は僕を落ち着かせるように両肩に手を置き、こくこくと頷きながら諭した。
「わかった。お前はもう帰れ。俺は久野霧を送っていくから」
 僕は言われた通りにした。そのまままっすぐ家に帰った。尻尾を巻いて。

 後日、部長に詳しい話を聞くと、久野霧さんはそういったオカルトにものすごく敏感ならしい。そして病的なほどにそれが好きなのだと言う。
「お前もそういうのが好きなのか?」と部長は僕に聞いた。
「いいえ」と僕は答えた。冗談じゃない。「で、なんで僕が誘われたんですか?」
 部長は首を振った。
「さあな」
「ええー」と僕はがっかりした。
「とにかく気を付けた方がいいぞ。あいつと関わってロクなことはない」
 

 これが僕の体験した奇妙な話だ。
 今思い返してみても、不思議な体験だった。僕はこのとき、このサークルから離れるべきだったのだ。興味本位で首を突っ込むべきではなかったのだ。でも、僕は大学に入ったばかりで、何もかもが新鮮で、面白く思えてしまった。そして、久野霧さんに出会ってしまった。
 これがすべての始まりだったのだ。

 そして、これを書いているうちに分かったのだけど、久野霧さんが病院の三階で僕に言ったあの言葉。
「ねえ、氷室君。会いたいって。ねえ、会いたいんだって、『あれ』」
 なぜ、彼女は僕の名前が氷室と分かったのだろう。彼女は僕が自己紹介した後に部室に来たのに。


 「部長」

 部長は一時期久野霧さんと付き合ったことがあるらしい。僕はそれを聞いてかなり驚いた。しかもその話を聞いたのは部長本人からだった。彼は僕が久野霧さんに選ばれたことで気の毒に思い、かなりよくしてくれた。多くの大柄でスポーツマンタイプの人間がそうであるように、彼はいい人で実に面倒見がいいのだ。しかし彼は今年の三月に事故死した。
「あいつはな、ときどきあいつ自身でも抑えられなくなるくらい、強い好奇心に襲われるんだ。かわいそうにな、ああいうのを病気っていうんだ」
「部長もひどい目に遭わされたんですか?」
「ああ。何度もな」
 どうやら僕よりずっと経験が豊富らしかった。
「部長は……幽霊を信じますか?」
 僕がある時そう尋ねると、部長はため息をついた。
「今までは信じなかったさ。でもあいつと会ってからは……信じざるを得なくなったね」
 彼はやれやれと言ったように首を振った。
「あいつはいい文章も書くし、実際とってもかわいい。でも、久野霧は普通じゃないぜ。なんていうかな、ときどきあいつは狂うんだ。まるで枝がぽきっと折れるみたいにね。そしてあいつは自分が狂うこと自体を楽しんでいる。久野霧はきっとまた心霊スポットめぐりなんかするだろうが、いつかあいつの身に何かが起こるだろう。この前行ったあの病院だって、久野霧によれば『大丈夫』なところだったと。しかしなぜか今回ばかりは違った。もし教訓があるとすれば、いつ何が起こって、どうなって終わるかなんて、誰にもわからない、ということだな」
 どうなって終わるか? 
「まさか霊に殺されるなんてこと、ないっすよね?」と僕は恐る恐る聞いてみた。
 部長は突然来ていたTシャツを脱ぎ始めた。アッー! な展開になるのかと思ったが、違ったようだ。彼は後ろを向き、僕に背中を見せた。僕は息を呑んだ。
 彼の背中にはひどいひっかき傷があった。三本の鋭い線が、みみずばれとなって部長の皮膚を走っている。大きく、長かった。
「これ……どうしたんですか?」
 部長はTシャツを着た。そして僕と向き直った。
「これでまだよかった、と思っているよ」と彼は僕の質問を無視して言った。教えるつもりはないらしい。「俺も昔は霊感があった。でもこれがきっかけで、ある日唐突に途切れてしまった。『干上がってしまったんだよ』。だから久野霧は俺と付き合うのをやめた。俺は体(てい)のいいパートナーだったわけだ。霊感がなくなってよかったと思う。色んな意味でな」

 僕はすっかり大人になった今でも、部長のことが頭から離れられなかった。彼は常識があり、後輩思いだった。彼が事故死したのを知った時は心から悲しんだ。
 部長は卒業する前、僕に忠告するようにこう言った。彼は人に忠告するのが好きなのだ。その人に自分と同じ過ちを犯してほしくないから。
「恐怖と戦うなんて考えるな。恐怖はお前自身だ。自分に勝てる奴なんてどこにいる? ただし自分から逃げることはできる。いずれ追いつかれるとしても、それまでは生きていられるから」


 「トンネル」

 僕は久野霧さんに弱みを握られ、しばらく彼女に従う毎日を送った。弱みの内容はとてもここには書けないけど、少なくとも僕が輝かしいキャンパスライフを十分に送れなくなるくらいの弱みだった。彼女はとんでもなく頭がキレるのだ。
 彼女はある日の休日、僕を誘って心霊スポットに行こうと言い出した。僕はいやいや約束した場所で待った。すると車に乗って彼女は現れた。運転しているのは元部員で、今は税理士として働いている木島という爽やかな男だった。彼もどうやら久野霧さんの面倒を見ていたことがあるらしく、それ以来オカルト関係にどっぷり浸かってしまったらしい。
「こいつはね、特別なんだよ」と彼は我が娘を自慢する父親のように言った。「ただ見えるっていうわけじゃなくて、それを他の人と共有しようとするんだ。おかげで僕もずいぶん怖い体験をしたけど、そういうのは一種のゲームだと思ってしまえば、かなり楽しくなるんだよね」
 その時はとても信じられない言葉だったが、今では僕もそういった人間になりつつあるので少しは理解できる。
「楽しいことはね、みんなで分かち合わなきゃだめなんだよ?」と先輩は木島さんの横で言ったが僕は無視した。
 これから僕たちが行こうとしているのは町と町の狭間にあるトンネルで、普段そこはあまり使われないと木島さんは言う。大規模な道路工事が行われる前は、町民たちに頻繁に利用されたが、数年前にあった長期的な雨によって、近くの山が土砂崩れの危機に瀕した。山のふもとに住む人々にとっては一大事だ。トンネルが使えなくなっては、外界に出られない。だからそれをきっかけにきちんとした道路開発が始まったらしい。完成した道路の存在で利用者が圧倒的に減った。今もなおそのトンネルを使う者と言えば、土地をよく知っていてショートカットに使うドライバーや、怖いもの見たさにやってくるオカルトマニアくらいだった。もちろんこのトンネルでは人が死んでいる。首吊りだった。
「なんでこんな辺鄙(へんぴ)なところで自殺するのかねぇ?」と木島さんは言った。「だってさ、あまりにも中途半端じゃない。山奥ってわけでもないし、かと言って人が多く通るってとこでもないし」
「トンネルの、どこで自殺したんですか?」と僕は聞くと、どうやら入り口の隣にある木で首を吊ったらしい。トンネルが近づくと、僕は怖くてシートの陰に隠れた。しかし久野霧さんと木島さんはトンネルの横を凝視していた。
「木はないねぇ」と木島さんは残念そうに言って、久野霧先輩もうーん、と頷いた。どうやらすでに木は切り倒されたらしい。
「よかった」と僕が安心すると、さあ、と久野霧さんは言った。
「氷室君、君の隣、気を付けてね?」
「は?」
「あいつら、座ってくるから」
 僕は鼻水を吹き出しそうになった。パニックになっていると、先輩からカメラを渡された。これで撮れ、ということらしい。トンネルの中はカーブになっていて、走行中は出口が見えない。車はライトをつけ、どんどん進んでいった。僕はドアに背中をくっつけ、怯えながらデジタルカメラを構えていた。来るよ、と久野霧さんは言うと、さすがに車内の空気が張りつめた感じになった。すると、
「こらぁ!」
 木島さんが急にぶちぎれた。彼は窓を開けて顔を出し、何やら大声で叫んでいる。僕は不安になり、がたがた震えていると、
「氷室君、後ろ!」と久野霧さんが叫んだ。
 その直後、僕の背後に冷たい気配を感じた。後ろはドアのはずなのに、確かな吐息と存在感を僕は感知した。全身の毛穴から汗が吹き出し、内臓がぐっと重力に引っ張られたような重苦しさを覚えた。
僕は隣の席に飛び移り、目をつぶって僕がさっきまで座っていた座席にシャッターを押しまくった。
 気が付くとトンネルを出ていた。

 後日現像された写真を見てみると、僕がやたらめったらに撮ったため、ほとんど何も映っていなかった。それを不満に思った彼らは、もう一度トンネル内に入ろうと言い出したが、僕が泣きついたので事なきを得た。
 意味のない写真をぱらぱらと見ていると、一枚の写真に鬼の形相をしている木島さんが映っていた。そして彼の視線の先には疲れた顔をした中年の男が、写真の端に映りこんでいた。彼は絶望的な表情を浮かべ、助けを求めるような視線を送っている。

 調べてみたらそのトンネルで自殺したのは女性だった。
 なぜ写真に男が映ったのか、僕にはわからない。ここで死んだのは一人だけだと言うが。


「職業的食事について」

 僕には二年生の親しい先輩がいる。最初部室で自己紹介した時に、いろいろ僕に耳打ちしてくれた人だ。彼とはよく遊びに行ったりした。優しいが、どことなく臆病で、いざというときは僕を置いて逃げてしまうような男だった。そして彼は久野霧さんほどではないが、霊感があり、狂っていた。
 サークルに入ってから久野霧さんに振り回されっぱなしで一か月が過ぎた。ある日、その二年生の先輩が僕の家に遊びに来たので、二人でゲームをやっていた。休憩中にテレビのニュースを見ながら(確か小泉内閣発足についてのニュースだったと思う)、彼はふと僕に話しかけてきた。
「なあ、氷室。お前はカニバリズム(cannibalism)って知ってるか?」
「カバリズム?」
「違うよ、カニバリズム。人食いのことだ」
 僕は手で口を押えて、眉をひそめた。「なんですか、急に」
 カニバリズムとは、スペイン語のカニバルが語源で、西インド諸島に住むカリブ族が食人を行っていたことが信じられていたのが由来だ。実はそのカリブ族の食人が、パイレーツ・オブ・カリビアンのデッドマンズ・チェストで登場した。その中で食人を行う邪悪な種族があるのだが、それはカリブ族のことらしい。もちろん差別だとかディズニー映画がカリブ族を食人族ととらえている、といった批判や議論が飛び交った。過去に僕の会社が発行している雑誌にそういった記事が書かれたことがあったのだ。
 お前は食人のことをどう思う、と先輩は聞いてきた。
「俺は食べたくもないし、食べられたくもないですね」と僕は言葉を選びながら言った。
「食人は罪だと思うか?」
「国の法律によりますね」
「一般論だなぁ、お前」と先輩はあきれたように言った。これは一般論でなく、客観的に見た視線である。
 僕はだんだん気分が悪くなってきた。
「ねえ、もうこんな話やめません? 俺夕飯食えなくなっちゃいますよ」
 しかし先輩は細い目をしながら、テレビの中にいる小泉首相を眺めていた。
「食べられた人の霊を見たことがある」
 僕の背筋が凍りついた。
「どこで、ですか?」と僕は反射的に質問した。
 彼はその場所を僕に教えた。郊外にある小さな田舎町だった。どうしてそんなところに行ったのですか? と僕は聞いてみた。
「その霊を見に行くためさ」
 一年前に久野霧さんと一緒に行ったらしい。
「あれはね、ひどいもんだよ。胃の中が締めつけられるような怨念だかがそこに満ちていた。そこはね、罪人を食すことによって、汚れた魂を閉じ込めるといったことが信じられていたんだ。食べる人はいつも決まっていて、その人は確かな収入を約束されていた。遠い昔の風習だ」
 昔の日本ならありがちな話だった。しかし僕はふと疑問に思ったことがあった。
「でも、その魂っていうのは、食べた人によって閉じ込められていたんじゃないんですか? だったら先輩たちはその霊を見れないわけでしょ?」
 先輩は急に真剣な顔をして、僕を見つめた。
「確かに弱い霊なら封じ込められる。しかし食べる人より、ずっと強い怨念を持った魂だったら?」
 僕は口にすべき言葉を失った。
「凄まじい憎しみによって封じ込めが失敗し、自分を食べた(実際は全て食べたわけではなく、体のほんの一部らしい)人にずっと付きまとう。そいつを殺すために」
 でも、と先輩は続けた。
 子孫は今でも生きていたよ。
「その子孫の人に会って来たんだ、俺たち二人で。俺と久野霧さんが一番びっくりしたのは、その家族におびただしい――それも吐き気を催すくらい――数の霊が引っ付いていて、しかもその家族たち自身は、何の異変もなく、幸せに暮らしていたことなんだ。俺はね、氷室。人間っていうのは、歯が砕けるくらい相手を憎んでいても、それが時には全くなんの効果も持たないと思うんだ。罪深い人を食った罪深い人。彼らは後ろで睨み付ける霊のことなんか知らないで、これからも幸せに生き続けるんだ」
 僕は無意識のうちに自分の後ろを見た。僕を恨む人が後ろにいるかどうか、確認したのだ。もちろん僕には見えなかった。
「サークルを辞めるなら今のうちだぜ、氷室」と先輩は言った。「続けるかどうかはお前の勝手だ。だがな、続けていると、厄介なものを背負い込んでしまう」
 先輩は自らの背後に指をさした。そこには僕の漫画が並べられた本棚があるだけだ。何も見えない、と僕は言うと、彼はにやりと笑った。
「そのほうがいいんだ」

 「人形」

 二年生の先輩(面倒なので、仮名として椎名、としておく)と部室でトランプをして遊んでいた時に、バン、という音がしてドアが開いた。そこには木箱を抱えた久野霧さんが立っていた。
「氷室君、椎名君、いいのが手に入ったよ」と彼女は敵軍の機密情報を入手した諜報部員みたいに誇らしげに言った。
「何すかそれ?」と椎名先輩は聞いた。僕は何となく予想できたので、その場から逃げ出したくなったが、久野霧さんが出口に堂々と立ちはだかっているから不可能だった。
「近くの神社に昔お世話になったお坊さんがいてね。その人からもらったんだ、これ」
 彼女はそう言うと、木箱のフタを開けた。中には市松人形が入っていた。
「うわ」と僕は短く悲鳴を上げて、ドン引きした。あまりにも唐突だったのでかなりびっくりしてしまった。しかし椎名先輩は目を見開いて、小さくおお、と歓声を上げた。
「ずいぶん保存状態がいいじゃないすか」と彼は興奮した様子で言った。
 聞く話によると、どうやら久野霧さんは神社にお祓いを申し込まれている人形をもらってきたらしい。それは他人の所有物じゃないんですか? と僕が尋ねると、どうやら持ち主はお祓いと同時に処分も神社側に依頼していたと。つまりあとはこれを捨てるだけだというわけだ。
「あのう、これってお祓いは……?」と僕は念のため聞いてみた。
「もちろん」と久野霧さんはうなずいた。「してないよ」
 冗談じゃなかった。
「ねえ、危ないですよ、それ」と僕は素早く言った。
「だいじょーぶ」
 久野霧さんは部室の椅子に座り、テーブル上に木箱を置いた。小さなおかっぱ頭の市松人形が部室の天井を見つめていた。あまりにも不気味だった。
「なあ、氷室」と椎名先輩は僕に言った。彼は真剣な目で市松人形を凝視していた。「こういう人形が、知らない間に髪が伸びてる、ってよく言うだろ」
 定番中の定番だ。
「それ、実はちゃんとした理由があるんだよ」
「科学的な、ですか?」
「ああ、そんな感じかな」
 椎名先輩はテーブルの上に鉛筆で薄く一本の線を書き始めた。その線はU字型に曲がっていて、その折り返し部分を横切るように垂直な直線を一本足した。
「人形の髪の毛ってのは、一本一本地道に植えているわけじゃないんだ。頭皮の部分に一本入れ込んで、中でくるっと折り返して、また頭皮から出すんだ。つまり一本が二本分の役割をしているわけだ」
「なるほど」と僕と久野霧先輩が言った。
「それが時間とともに、その場の環境によって少しずつ出てくる。だからあれは伸びているってわけじゃなくて、端の方が縮んで、そのもう端がその分だけ出てくるわけだ。髪の量は減るが、それだけ長くなる。今ぐらいになれば、技術が発達してもうそんなことにはならないだろうけど、昔の人形はそうやって作っていたから、よく人は誤解したらしい」
 僕と久野霧さんは感心してその話を聞いていた。椎名先輩は口角を吊り上げてぽつりと言った。
「で、何でこれはさっき見た時より髪が伸びてんの?」
 僕はそれを聞いて椅子からずり落ちそうになった。僕はいちいちリアクションが大きいのだ。今の僕と違って。久野霧さんは身を乗り出して木箱の中を覗き込んだ。
「ほんとだ! さっき見た時より二,三センチ伸びてる」と久野霧さんは言った。
「やべえ、これ本物ですよ」椎名先輩はすっかり目を奪われていた。
 僕は正直言って見たくなかった。そしてどうしてこの二人は、嬉々としてそんなものを見ていられるのだろうと思った。さっきより髪が伸びていたなんて普通ではないのに。
 久野霧先輩に促されて、いやいやながらも木箱を覗いてみた。
 先輩の言った通り、先ほど見た時より人形の髪が数センチ近くも伸びていた。人形の無機質な視線が僕の顔をとらえている。
「その、こんな短時間で、髪が伸びるなんてこと、あるんですか?」
「科学的な考え方では、まずない」と先輩は断言した。「そんな短い間に伸びるわけがないだろう」
「かなり『あれ』な人形みたいだねー」と久野霧さんが能天気な様子で言った。
 記念写真を撮ろう。
「あなた馬鹿ですか?」と僕は椎名先輩に言った。
「いつまでもここに置いておくわけにもいかないだろ。だったら今のうちに写真を撮っておくんだ」
「じゃあ氷室君その人形持って、笑って」
 椎名先輩はインスタントカメラを持っている。
 僕は古い遊園地の壊れたロボットみたいに両手をぶるぶると震わせて、やっとの思いで人形を持ち上げた。そして出来るだけ腕を伸ばして、カメラに突き付けるように持った。これ以上僕の体に近寄らせたくなかった。
「違うよ、もっと可愛がるように」
 今でも思うのだが、久野霧先輩はいくらかSっ気があった。
 僕はぎこちない微笑み(ダムが決壊したような笑みだった)を浮かべ、人形を我が子のように抱き、カメラに向いた。いくよー、と久野霧先輩は言った。その直後、人形の首がぽろりと落ちて、部室の床に固い音が響いた。
 僕は頭のない人形を、勢い余って椎名先輩の顔面に向かって投げつけた。

 それから数日間、僕はその人形の霊に憑りつかれてしまった。いや、その霊なのか実際のところ椎名先輩も久野霧さんもわからなかったらしい。僕にはもちろん見えない。ただ講義を聞いている時や帰りに歩いている時に、居心地が悪くなるくらい視線を感じたり、あるいは背後に気配があったりした。それで僕はかなりナーバスになった。部長に、お前ちゃんと栄養摂っているか? と聞かれたりもした。
そこで部長に事情を説明すると、それは久野霧と椎名のせいだから、俺が何とかするように言っておく、と頼もしい約束をしてくれた。
 その次の日、電車の中でまた何かの視線を感じたので眉をひそめていると、となりの座席に座っていた老婆が、僕に顔を向けた。
「だいぶ疲れているようだねぇ」
 僕はなぜだかよく老人に話しかけられるので、とくに驚きもせず、ええ、まあと答えておいた。
「どれ、もういいんじゃないかい? そんなに気張ったところで何にもならないんだし、そろそろ休んだらどうだね」
 僕が返答に迷っていると、すっと肩の力が抜けたような気がした。おまけに誰かに見られているような視線も感じなくなった。まるで今の言葉で、すっぽりと何かが抜け出てしまったようだった。
 電車が駅に停まり、老婆が降りていった。僕は唖然としてその老婆を眺めていた。背の曲がった老婆だった。

「あれ、いなくなってるねー」と久野霧さんがびっくりしたように目を見開いて言った。「どこで落としてきたの?」
 僕は老婆の話をした。
「じゃあそのおばあさんが、氷室君の代わりに霊を引き受けてくれたんだよ」
「引き受ける?」と僕は聞き返した。
「霊がそのばあさんに入り込んだってわけさ」と椎名先輩が言った。彼はどことなく残念そうな顔だった。「もったいない」
 その老婆とは電車でもう二度と会わなかった。

 

「這うもの」

 町は完全に夜の姿になった。僕は帰り道を歩いていた。リュックサックを右肩に背負い、両手をポケットに突っこんで、軽い歩調で帰路を辿っていた。辺りに人はいない。右に道路があり、左手に見える楕円状の公園に沿ってカーブするように歩道が続いていた。僕はそこを歩いている。人気のない寂しいところだ。
 歩いていると、ふと何かが僕の意識をかすめた。それは疑問だった(あるいはそれに近い感覚)。なぜ? どうして? そういった感情だった。僕はそのわけのわからない自分の感情に戸惑いながら歩みを進めた。
 それから耳鳴りがした。
間違いない、近くに何かいる。
 僕は周りを見渡した。とくに何もない。左前方に、公園に沿った歩道の終りが見えてきた。しかしまだ距離はある。街灯に照らされた地面のアスファルトが、淡い白みを放っていた。
 歩調を早めようとすると、僕の精神を直接揺さぶるような強い震えを感じた。まるで肩をぐっとつかんで引っ張るみたいに、乱暴さと悪意があった。僕は普通の歩調に戻った。
 やばい。本能がそう告げている。半端じゃない。僕はマジで命の危険を感じている。
それは思ったより軽く、ひしひしと伝わってきた。死が身近に迫った時、人は思いのほか率直にそれを受け止められる。僕は初めてそれを実感した。
 僕は周りを見渡した、と書いた。しかしそれは間違いだった。まだ後ろを見ていない。怖いのだ。そこに確実に、本当に、疑いの余地なく、いるから、怖くて見れないのだ。僕は逃避していた。
 恐怖を振り払うみたいに勢いよく振り向いた。最初そこには誰もいないと思った。しかしそれは地面を這っていたため、気付くのに一秒はかかった。
 女だ。いや、女の形をした『化け物』だ。服は着ていなくて、体の所々が赤く変色していた。長い髪をだらんと垂らし、手足を地面に押し付けていた。まるでは虫類のように、手慣れた様子で手足を交互に動かし、スムーズな歩みを進めていた。
 僕はそれを見た時、感じたのは恐怖ではなく、むしろ吐き気だった。邪悪という言葉が最も当てはまるだろうか。賭けてもいい。この『化け物』は悪だ。少なくとも正義寄りでもないし、中間でもない。あまりに極端な邪悪さを解き放ち、僕にめまいを起こさせるほどの不快感を与えていたのだ。
 僕は前を向き、歩みを続けた。走ったら終わりだ。追いつかれても終わりだ。思わず不自然な歩き方になった。後ろではさっきまで聞こえなかった息遣いが聞こえる。まるで呼吸そのものが苦しみのような息の吐き方だった。そこから聞き取れる声は女の声ではなかった。あまりに苦痛に満ちた息遣いのため、喉がうまく振動できないのだ。
 僕の頭がフル回転している。どうすればいい? 先ほどふと感じた謎の感情だった。どうすれば僕は生き残れる? 走ればいいのか? それとも……。


「ああああああああああああああああああ」
 

 後ろで『化け物』が叫び声を上げた。今『あ』と表記したが、実際には『う』と『あ』の間のような発音だった。衝撃を必死に耐えているうちに、きゅっと結んでいたはずの口から音が漏れ出てしまった、といった感じだった。声音から憎悪と憤怒が感じられた。
 僕は走った。とにかく走りまくった。そうするほかなかったのだ。『化け物』が追いかけてきた。犬のような呼吸音が僕の鼓膜に届いた。その音が小さく、あるいは大きく聞こえたりするので、おそらく頭を狂ったように振り回して走っているのだろう。べたん、べたんと手足がコンクリートに接触する音が聞こえた。それは知能の低い猿がかんしゃくを起こしている様子を連想させた。
 追いつかれる。これだけ全速力で走っても、あの『化け物』には簡単に追いつかれてしまうのだ。僕の息は切れていたし、すでに恐怖がつま先まで浸透していて、これ以上スピードは出せなかった。
 『化け物』が僕の足をつかんだ。僕の心臓が諦めたように硬直した。右足首に冷たい、しかしびっくりするくらいの強い力を感じる。僕は転び、アスファルトに体を打ちつけた。
「うぐっ……」
うつ伏せになって痛みに耐えていると、『化け物』は僕の足に、ロープをたぐり寄せるみたいに這って上り、僕の背中に馬乗りになった。
「うわああ!」と僕は我慢できなくなって叫んだ。
 その時、僕の中で爆発的な力を感じた。表現しにくいのだけど、生命のほとばしりのような感じだ。それはちょうど初めて久野霧さんと出会い、病院で霊を見た時のような、恐怖を覆いかぶさるくらい巨大な力だった。
 僕は首を曲げ、後ろを見た。奴が僕の背中に乗っている。『化け物』の長い髪が顔を隠していた。しかしその隙間から、鋭い眼光が見えた。その光は一点に収まらず、ぐるぐると不規則に回っている。そこからは限りない狂気を感じた。
 僕は『化け物』を睨み付けた。
 ひっ、と息を呑む音が『化け物』から聞こえた。奴は頭を後ろに引き、僕から離れようとした。僕はその一瞬の隙を狙って、『化け物』を振り払い、背中を地面につけた状態で蹴り上げた。奴はごろごろと転がり、動かなくなった。死んだのだろうか。いや、と僕は自分で否定する。こいつはもはや生とか死といった次元のものじゃない。誰もこいつを消すことはできないし、あるいは救ってやることもできない。自然消滅するか、永遠に残り続けるかのどちらかだろう。
僕は素早く立ち上がった。するとすでに『化け物』はいなくなっていた。唐突な消え方だった。本人もまさかこうなるとは思っていなかったのかもしれない。だが少なくとも奴は消滅した。断言できる。吐き気を催すような邪悪さはこの空間から完全に消えていた。

「ここでそいつに襲われたの?」
 久野霧さんは僕にそう訊ねた。
「はい」と僕は言った。「めちゃくちゃ怖かったです」
 椎名先輩もいた。彼は気難しそうに右手で顎を触り、目を細めて歩道を眺めていた。僕があの『化け物』に襲われた場所。カーブの道。
 オカルトの先輩方二人はいつもと違って真剣そのものだった。まるで人が変わってしまったみたいだ。椎名先輩はともかく、久野霧さんまでこうなると、さすがに不安になってきた。いつもの能天気さはどこへ行ったのか。
「あのう」
 僕は沈黙と不安に耐えきれず、二人に話しかけた。
「昨日の奴は……その、妖怪とか悪魔だったんでしょうか」
 椎名先輩は首を振った。
「妖怪や悪魔は存在しない。それは絵空事だ。フィクション」
 霊もそれに類するものだと思っていたが。
「じゃあなんなんすか?」と僕は聞いてみた。
「ねえ、氷室君」と久野霧さんは言った。「君が昨日会ったそれは、たぶん強烈な思念の集合体だと思う」
「思念の集合体?」と僕は聞き返した。難しい話になりそうだ。
「うん。似通った感情が集合し、一つになり、形を作って現実に出現すること。これは一般では宗教と似ているかもしれない。ある同一の観念を多数の人間によって思考され、感情が込められるうちに、それが形となってその人たちの前に現れる」
「そいつらにしてみれば、それは神に見えるかもしれないし、悪魔に見えるかもしれない」と椎名先輩がまとめた。
「まさか僕を襲ったあいつが神だなんて言うわけじゃないですよね?」と僕は訝しがりながら聞いた。
 椎名先輩がため息をついた。久野霧さんは難しそうに顔を軽くしかめている。
「極端で複雑でない感情ほど、集合しやすい。昨夜の『化け物』は大勢の人間による極端な負の感情によって構成された思念体だと推測される」と椎名先輩は持論を述べた。
「つまり?」と僕。
 久野霧さんは単純明快な答えを言った。
「一言で言うと、かなりやばい、ってことだね」


 「心の水」
 
 水場に霊は集まりやすい。
 わりとよく知られている事実だ。霊は水を好む。その理由はよくわからない。僕は霊ではないから。でも久野霧さんの話によると、幽霊というのは鏡には映らないらしい。それは僕たちから見て、というわけだけではなく、霊自体も、自らを鏡に投影できないのだ。

 僕と部長、椎名先輩に久野霧さんの四人は夏祭りに出かけていた。いたるところに屋台が出ていて、大勢の人が道を歩いていた。ときどき花火がうち上がり、その場を違った色で明るくさせた。
「きれいだね」と浴衣を着た久野霧さんは言ったが、僕と椎名先輩は射的で競っていたので、そんな言葉を聞いている暇はなかった。部長は両手いっぱいに食べ物をさげ、順々にその片づけを済ませていった。
 コンビニで缶ビールを購入し、近くの河川敷の土手に行って四人でそれを飲んだ。僕は買っておいた焼きそばをもそもそと食べた。やぼったくて、大雑把な屋台特有の味だったが、酒にぴったりだった。椎名先輩は大の字になって寝そべっている。部長は黙々と飲酒を続けていった。彼は何かを摂取し続けることによって、幸福を得るタイプの人間なのだ。たとえそれが自らの身に危害を加えることになろうとも。
「あれ、見て」
 久野霧さんは僕に声をかけて、川の方を指さした。僕はしばらくそこをじっと見つめていた。すると向こう岸に何十人もの人影が見えた。その人々は川を前に、綺麗に一列に並んでうつむいていた。そして不思議なことに、彼らは花火の光によって場が照らされるたびに姿を消した。まるで強力な光を顔に向けられ、あまりの眩しさに視界が歪むのと同じように、その無数の人影もぼんやりと薄くなった。花火と花火の間に出来る間接的な闇にだけ姿を現しているのだ。向こう岸はわずかな街灯と月明かりでやっと見える程度なのに。
 その何十人もの人影は、川の水面をじっと覗きこんでいた。ぴくりとしもしなかった。あまりにも動かないので、銅像かと思ったくらいだった。しかしもちろん川岸にそんな銅像を建てる必要性なんかどこにもないし、第一見ていてかなり不気味だった。僕は唖然としていると、かすかに耳鳴りがした。――キィィィィ――キィィィ――。
「ねえ、なんで幽霊って水が好きなのか、分かる?」
 わからない、と僕は言った。
「それはね、水っていうのは昔から神聖なものとして扱われてきたからなんだよ。清めの水。命の源。実際人のカラダは七十パーセントが水って言うし。それに古来は、水は鏡として代用されてきたんだ」
 久野霧さんは後ろで束ねた髪に手をやり、優しく撫でた。淡い水色の浴衣の袖が、風によって少しそよいだ。
 花火が打ち上げられる。炎色反応によって色とりどりの光を放つ花火は、夜の町いっぱいに広がった。四人が口を開けてそれを眺めた。
久野霧さんは続けた。「水の鏡は自分本来の姿を映し出すって言われてきた。そこに移った自分は、どんなに醜かろうとそれが自分だ。否定はできない。かといって肯定もない。それはもはやイエス、ノーを超えた、絶対的な真実なんだよ」
「それが霊とどんな関係が?」と僕は質問した。
「霊は自分を確認するために、水を見る」
「確認?」
「そう、かくにん」と彼女はゆっくり言った。「霊は鏡に映らない。だけど水には映る。霊の中には死んだことすらわかっていない霊もいる。そういう人たちはいつも通りの生活を送ろうとするの。でもね、ある時異変に気付く。あれ、おかしいぞ、って。俺はもしかして、死んでいるんじゃないか? だから水を見る。もはや蛇口をひねって水を溜めるなんてことは思いつかないんだよね。本能的に川へやってくる。そしてそこに映る自分の顔を見て、自らが死んでいることを確認し、絶望する」
 僕は川を覗いて驚愕の表情を浮かべているサラリーマン風の幽霊を想像した。
 絶望した後は、どうなるんですか? と僕は聞いた。
「消えるか、残るか、かな」
「消える?」
「成仏するってことだよ」と先輩は真顔で言った。どうやって、と聞こうとする僕を見越したように久野霧さんは続けた。
「三途の川と水はリンクしているみたいなんだよね」
 三途の川?
「まあ本当に三途の川があるのかもわからないし、そもそも人が死んだらどうなるかなんて誰も知らない。でも人の心に三途の川という抜け道的なものがあったら、それと水辺は繋がるんだよ。最終的に人はそこへ行く。つまり成仏。まあ『成仏』って言う言葉も便宜的に使っているだけなんだけどね」
 僕は久野霧さんの言葉のイントネーションが少しずつ怪しくなってきたのを感じた。アルコールが回ってきたのかもしれない。気が付くと彼女の周りには三本の缶ビールが転がっていた。
「ほうら、見て。吸い込まれてく」
 彼女はまた向こう岸を指さした。何十人もの整列した霊のうち、一人がゆっくりと、川の中に倒れていった。まるで柔らかい壁に手を優しく押し付けるように、全てにおいて余計な力はなく、全ておいて静かで、全てにおいて神聖だった。体が水に吸い込まれても、水しぶきはあがらなかった。
 その一人をきっかけに、次々と人が倒れていき、水の中に入り込んでいった。ドミノくずしみたいだ。端から端まで、例外なく川へ沈んでいった。僕はこの行為が常識を超えたある意味での神事に思えた。やがて最後の一人が川に入ってしまうと、僕たちの周りから重い空気がすーっと逃げていった。川辺の湿った夜風が僕たちを横切る。気が付くと花火は終わっていた。
「成仏って、全員ができるものなんですか?」と僕は聞いてみた。
 久野霧さんは両膝を抱え、その上に自分の頬をのせて川を見つめていた。口はわずかに開いており、僕の質問に対する答えを模索しているようだ。
「その人の心に、帰るべき水があるならば」
 久野霧さんはそう言った。

――――――――――――――――――――――――――――――――――
 帰るべき水、と僕は思う。
 大学生のころ、とあるサークルに入っていた。一見すると無害な文化系のサークルだが、そこにはオカルトに関心のある不思議な人たちが集まっていた。
 あれから数年が経過した。
 僕は就職し、文学やオカルトとは無縁の組織に加わった。働くことは苦ではない。社会に属することの対価として相応のものが支払われるのだから。でも、僕は思い出す。あの大学時代のこと。危険で、恐ろしくて、気が狂ってしまいそうな日々のことを。僕は懐かしくなってしまうのだ。
 その日も、僕は会社帰りに、車を運転して帰路を辿っていた。辺りはすっかり暗くなっていて、道路には帰宅しようとする社会人たちの自家用車であふれていた。
 信号が赤になり、車が停止した。道路が混雑している。ちょうど帰宅ラッシュに巻き込まれてしまったらしい。早く家に帰ってシャワーを浴びたいというのに。僕はうんざりしながら、窓の外を見た。
 薄暗い歩道に、誰かが立っていた。
 彼は直立し、顔をこちらに向けていた。しかし、肝心の顔立ちはわからない。それは歪んだ映像のように、粗くブレていた。鼻や目があるのはなんとなくわかるのだけど、それが本来あるべき場所に収まっていないのだ。彼は両手を腰にぴったりとつけて、モザイクがかった顔をまっすぐ僕に向けていた。
 彼の横には通常の通行人が、何事もないように歩いていた。彼の存在には気付いていないようだった。
 あの男は、僕を見ているんだ。
 でも、僕は何とも思わなかった。まるで遠くの風景でも眺めるように、その男を見ていた。なんてことはないのだ。この世界は歪みで満ちている。
「あの人はね、氷室君に会いたがっているんだよ」
 助手席に座っている久野霧さんが明るい声で言った。
「だろうね」と僕は返事した。
「会ってあげないの?」
「久野霧さん」、僕は優しい声で言った。「今日はもう疲れている。早く家に帰りたいんだ。それに、あんなやつ相手にしたって、なんの得もないからね」
 久野霧さんは何も言わず、どこか寂し気な表情で歩道の男を見た。ほどなくして、信号が青になり、車が発進した。サイドミラーでさっきの場所をみたが、あの男は立っていなかった。
 助手席をちらりと見た。久野霧さんが目をつむって、座っていた。彼女はあのときと変わらず、美しく、かわいかった。彼女を僕の隣に座らせるために、僕は今まで多くの代償を支払ってきた。そのことに後悔はない。ただ、ときどき考えるのだ。
 僕は正しいことをしてきたのだろうか?

――――――――――――――――――――――――――――――

 「痛みについて、椎名先輩の解釈」

 僕と椎名先輩は部室でテレビを観ていた。ちょうど夜のゴールデンタイムだったから、当たり障りのないバラエティ番組が放送されていた。飢餓で困っている世界中の子供たちを救えないタイプの番組だ。僕たちはただぼーっとそれを視界の中心にとらえていた。ときどきどちらかが乾いた笑い声をあげた。静かで意味のない夜だった。
 テレビでは二人の芸人が長いゴムを咥えていた。口を開けばどちらかに戻って当たる、というお決まりの芸だ。今回もやはり一人の顔面に直撃し、顔を赤くさせて痛がっていた。
「痛そー」と椎名先輩が言った。僕はそうっすね、とすぐに同意した。
「痛いと言えば」
 先輩は思い出したように軽く目を見開いた。
「昔っていろいろむごい拷問とかあったろ」
 僕はいやな予感がした。先輩がそんな話題を持ち出すときはロクなことがない。
「日本もやばかったけど、中国、ヨーロッパはマジでむごかったらしいぜ。拷問の歴史資料とか見てみると、文章を読んでるだけで気持ち悪くなる。たとえば――」
「お黙りなさい」と僕は素早く言った。「やめてくださいよ、メシ食ったばかりなんですから」
「そう言うなって」と先輩は言って薄く笑って、咳払いをした。「とにかく、俺が言いたいことは、昔の拷問や死刑は、苦痛を伴うのが多かったってこと」
「現代だって拷問は世界でもあるじゃないですか。どっちにしたって痛いのには変わりがないですよ」と僕は反論した。
 先輩は小さく首を振った。どうやら僕の言葉は的外れだったらしい。そもそも僕が述べる意見や質問は石ころ並に小さく愚かなのだ。最近ようやくそれに気づいた。
 先輩は講義を始めた。
「痛みとは、人によって軽減されたり増加されたりするものだ。その人の性格や価値観、または精神状態などによって大きく上下する。男であるか、女であるか? 若者であるか、老人であるか? 体は丈夫? 喫煙経験は? 酒は? 女は? ストレスは? 生きていて、楽しいか?」
 僕はううん、とうなった。
 先輩は続けた。
「環境、時代は?」
「時代?」と僕は聞き返した。
「中世ヨーロッパの生活水準は、今に比べるともちろん低かった。衛生状態、伝染病、医療の未発達、王の御乱心、そして――魔女狩り」
 僕ははっとした。椎名先輩はそんな僕を見て人差し指を天井に向けた。
「そう。その時代は多くの罪なき者が死んでいった。多くは女性。男と違って体力はなく、また家事や育児、そして地位の低さから酷使された。――魔女狩り――」
 僕は焼かれていく一人の女性を想像した。
「周りで、しかも目の前で多くの人が苦しみ抜いて死んでいったら、じきに人はそれに慣れてしまい、痛みの度合いが低くなるんじゃないかな。だから現代に生きる俺たちと当時の人々とは感じる苦痛のレベルが違うんだよ」
 右手を出して目をつぶれ、と先輩は僕に命令した。僕はしぶしぶ言われた通りにした。
「これから一分おきにお前の手のひらを軽く指で叩く。本当に軽くだから怯えなくていいよ。でも目をつぶることによって感覚がむき出しになり、いつもより痛く感じるかもしれないが、慣れればすぐに普通に戻る。なあに、ちょっとした実験だよ」
 実験が始まった。
 まぶたを閉じて一分経った頃、右手に強い衝撃を感じた。僕はあまりにもびっくりして肩をびくっと震わせた。
「くくくく」
椎名先輩の抑えた笑い声が聞こえた。僕はちょっとムッとした。誰だって目をつむってこんなことをさせられたら驚く。
 しかし先輩の言った通り、暗闇の中で急に手を叩かれると、普段にも増して倍近くの衝撃を感じた。何も見えないという状況下では、人間の本能的危機回避能力が働いて、一気に体中に血液が駆け巡り、筋肉をいつでも使用できるようにしたのだ。そして皮膚の神経感度を最大にして、ほんの小さな力でも見逃すまいとしている。だからその作用として感覚が最大限まで研ぎ澄まされた。
 二度目もぱちんとはたかれ、衝撃を感じたが、一回目とは比べものにならないくらい軽かった。三度目に関しては昼間のおばけみたいに気が抜けていた。そしてそこで初めて気づいたのだが、先輩は僕の手のひらに、真上から自分の手を垂直に下ろしているだけなのだ。そんなものに普段ならば痛みを感じるだろうか? もしそうならば、人は廊下を歩くだけで足の裏に激痛を感じるだろう。
 五度目を待つ一分間の間、例の耳鳴りがした。――ィィ――キィィ――。
「目を開けるな」と先輩は小さな声で言った。「心配しなくていい。大丈夫だ。何も気にするな」
 部室の空気が変わったのを感じた。耳鳴りは止まず、体が重くなった気がした。薄い空気の層が何重も僕に覆いかぶさったみたいでひどく不安になったが、椎名先輩の言葉でいくらか落ち着いた。
 しばらくして右手の人差し指に、わずかな感触があった。それほど鋭利でないもので軽くつついたのだろう。考えられるのは先輩の爪だった。やはり痛くはなく、むしろ安心感があった。
「目、開けていいぞ」と先輩は言った。
 僕は目を開けた。すると耳鳴りは止み、体が元の重さを取り戻した。僕はため息をつき、先輩はニヤつきながら僕を見ていた。
「さっき、耳鳴りがしました」と僕は報告した。
「霊がお前に乗り移ったんだよ」と先輩はにやにやしながら言った。
 霊が僕に乗り移った?
「ちょっと、そうならそうと言ってくださいよ」と僕はキレ気味に言った。
「大丈夫だ。もう消えたよ」
「何の霊だったんすか?」と僕は尋ねた。
 先輩は首を振った。「知らない」
 イラッときた。なんて無責任なやつなんだろう。
「ちなみに、お前が感じた指の感触だが」と先輩は言って、手のひらに乗せた物を僕に見せた。
 針だった。裁縫用の針だ。それは先端が赤くなっていて、蛍光灯の光を鋭く反射させていた。
「これでお前の指を刺した。悪かったな」
 僕はとっさに右手の人差し指を見た。指の腹からぷつんと丸く出血していた。おかしい、と僕は思った。痛みなんて感じなかったのに。
「お前に乗り移った霊は、その程度じゃあ痛みだととらえてなかったらしい」
 椎名先輩は絆(ばん)創(そう)膏(こう)を手渡しながらそう言った。僕はいまだに信じられず、もらった絆創膏をすぐに使わないで、飽きもしないで自分の指を眺めていた。そして先ほど、針で刺されたときに感じたことを思い出した。
 やはり痛みはなく、むしろ安心感があった。
「痛みとは屈折し、伸縮するものである。そしてその不確定さは類を見ない」
椎名先輩はそう言った。


 「廃工場」

 僕は久野霧さんに連れられて、とある廃工場に行った。久野霧さんは車を運転できないので、運転手は部長になった。彼は僕が久野霧さんに拉致されるところを見て助け船を出してくれた。彼の存在のおかげで寿命が五年は伸びそうだ。
 僕たちが向かったのは十五年前まで稼働していたという工場で、会社が倒産してからは解体するにも金がかかるというので(そういったところは前行った病院と同じ事情だ)そのまま放置しているわけだった。そこは山に沿った道路の脇にあった。想像した通りそこ一帯はものすごく寂れていて、どこか世界の終わりを想起させた。道路さえ車が行き来していなければ、一世紀ほど前から使用されていないと言われても、不思議ではなかった。
 背の高い草をかき分けて、立ち入り禁止の柵を乗り越え、やっとの思いで工場に着いた。開けっ放しになっているドアをくぐり、半円形上の建物に入る。明かりはもちろんなかったが、壊れた天井の隙間から天然の日光が染み込んできて、中を見渡すには十分だった。
「すごーい」と久野霧さんは目を輝かせて言った。僕と部長も思わず目を見張った。その工場は一種の芸術として成り立っていたのだ。植物がまんべんなく建物に絡みつき、屋内はすでに人の活動できるスペースを残していなかった。ソファーはぐちゃぐちゃになっていて、錯乱状態の連続殺人鬼が暴れたみたいに跡形もなかった。落ちていたボルトやらナットやらの部品は完璧に錆びていて、見ていて気持ちが悪くなった。
 僕は小学校の頃、定期的に教室にやって来て、本を朗読する児童の母親がいたのだが、彼女はよく(というか好んで)戦争関係の本を読んだ。僕はそれがひどく嫌だった。戦争の本を読むことで、その母親は僕たちを痛烈に批判しているような気がしたのだ。彼女の話を聞きながら、横で満足そうにうなずいていた教師も嫌いだった。……話を戻すと、その本の中では頻繁に『防空壕』という言葉が出てきた。僕は最初、防空壕という言葉の雰囲気からして、こういったドーム状の長い工場を想像した。立っているこの工場こそ、まさに当時の僕が想像した防空壕と全く同じイメージだった。奥に広く、縦に長い。完璧だ。寒気がする。
「よくもまあここまで廃れちゃって」
 先輩は両手をポケットに突っ込みながら、錆びている折りたたみ椅子を軽く蹴った。情けないくらい乾いた音がした。
「ねえ、向こうも行ってみようよ」
 久野霧さんの言葉に、僕と部長は止まっていた足を再び動かそうとした。しかし一周だが二人の視界の端に影が写った。何かが高速で移動するような感じだった。僕は部長とほとんど同時に振り向いた。しかし向けた視線の先に影はなかった。四畳半ほどの大きさの書類室しかなかった。書類室は四角く区切られたスペースで、スティールの壁と屋根で出来ていた。室中は紙が散乱していて、小さな扇風機と黄ばんだ魔法瓶がテーブルの上に置かれていた。おそらく稼働していた時は、工場長や班長がここに集まり、作業の進行速度や効率について議論していたのだろう。
「なんか見えたな?」と部長が僕に聞いた。彼は珍しく緊張した面持ちになっている。
「ええ」
「だが霊じゃない」
「霊ではないです」と僕は確認するように言った。理由はあった。耳鳴りがしなかったのだ。「大丈夫でしょうか?」
「わからん」部長は首を振った。「おーい、久野霧」
向こうに行きかけていた久野霧さんが戻ってきた。「なあに?」
「この近くに霊はいるか?」
「もちろんいるよ」と彼女はあっさり答えた。
「……危険な霊は?」と部長は質問を変えた。
「いない」
 でも、と久野霧さんは続けた。
「記憶の具現体みたいなのはある」
「記憶の具現体?」
 僕の言葉に久野霧さんはこっくりとうなずいた。
「うん。この工場そのものが記憶している、人間の映像。仕事中の男の人たち。そういった流れがこの中に渦巻いている」
「やばいのか?」と部長は聞いた。
「たぶん大丈夫だと思う」
「すいません」と僕は割って入った。「記憶の具現体なんて初めて聞いたんですけど」
「それほど珍しいものじゃないよ」彼女は実にさっぱりと言い切った。「日常でもよく見かけるよ。たとえば地下鉄で身を投げた人の映像が繰り返し駅で流れていたり、飛び降り自殺した死体が何度も地面に打ち付けられたり。建物ってね、案外そういうことを記憶しているんだよ。そして暇さえあれば、見える人に何度もそれを再生させて見せる」
 僕はあまりにも凄惨な事実に思わず言葉を失った。
「俺たちは幸運な方なんだよ」と部長は言ったが、まさにその通りだった。

 僕らはその後三十分ほど工場内を見て回った。僕は久野霧さんに言われた通り終始カメラで写真を撮った。後日現像してみてわかったのだが、工場は写真に撮られた方がより美しくなっていた。空間を切り取ることで、廃工場が持つ独特の雰囲気を永遠にしたのだ。
 僕は写真を撮っているうちに、工場長室に迷い込んだ。そこは立派なデスクと巨大な本棚が置かれており、他の業務的な部屋と違って、威厳と重みが感じられた。
 僕は無意識の内にシャッターを押していった。パシャ、パシャ、という軽い音が室内に響いた。本棚、花のない花瓶、椅子、埃かぶったメモ帳。とにかく余すことなく写真に切り取る。それが僕の仕事だ。
 ふと足元に誰かいることに気付いた。下を見てみると、そこには五歳くらいの女の子が立っていた。口をぎゅっと結び、今にも泣きそうな目で工場長のデスクを見つめている。ピンク色のスカートをはいて、髪を後ろで結んでいた。女の子は僕のズボンを左手で握りしめていた。
 恐怖はなかった。僕はゆっくりと顔を上げ、デスクを見た。そこには五十代後半といったところの男が座っていた。机上に両肘を置き、手を組み合わせて、困ったような表情で女の子に視線を送っている。彼は薄い青の作業服を着ていた。髪は短い。
 男が何かをしゃべった。しかし声は聞こえなかった。口が動いただけで、音は発していない。しかし口の形で予想するに、こう言っていたのだと思う。
〈何が不満なんだ?〉
 僕は女の子の顔を見た。
〈日曜日〉と彼女は言った。今にも涙がこぼれそうだ。
 父親はため息をついた。短く、余分なところのないため息だ。
〈――しなさい〉だめだ、わからない。
 そこで二人の姿は消えた。男はいなくなり、少女は見えなくなった。
 後は工場室に沈黙だけが浮遊していた。

 工場を出て背後を振り向くと、そこには悲しげな建造物が孤独にそびえたっていた。


 「箱」

 久野霧さんが神社から箱を持ってきた。
 その箱は金属製の四角い箱で、鍵がかかっていた。かなり頑丈のようだが、長い間放っておかれていたためかかなり薄汚れていた。
「供養のために神社に預けられていたの」と久野霧さんは説明した。
 この箱はとある家族が所有していたらしく、物置の隅に布をかぶせて放置していたと言う。たまたま家族の誰かが掃除をしている時にそれが見つかり、開けて中を確認しようとも鍵がないので開錠できなかった。そして何だか眺めているうちに、腹の奥から湧き上がってくるような不気味さを感じ取った。だから神社に預け、除霊と処分を一度に任せた。
「じゃーん」
 彼女はそう言って、僕と椎名先輩に鍵を見せた。
「これってもしかして?」と椎名先輩が恐る恐る聞いた。
「うん。この箱の鍵」
 久野霧さんの話によると、この箱を見つけだした後、その家族は一週間ほど経って再び掃除を始めた。どうやらよほど掃除に関しては執着心が強い家族らしい。そこで片づけを続けているうちに、箱の鍵を見つけた。
「それでその鍵もまた神社に差し出した」と僕が最後を繋げた。
「その通り」と久野霧さん。「さっそく開けてみてよう」
「いやしかし――」
「俺も氷室と同じで、開ける気にはならないっす」
 珍しく椎名先輩が僕に同意してくれた。
「どーして?」と久野霧さんはびっくりしたように目を丸くして尋ねた。
「これ、相当やばいっすよ」
「分かってるよ」と彼女は胸を張った。「だから開けるんじゃない」
「俺が言っているのは、そういうことじゃないっす」
 椎名先輩は珍しく語気を強めた。
「この箱を持っていた人は、明らかに開けられることを拒んでいた。しかし捨てるわけにもいかない。『その人は、捨てることが無意味だということが分かっていたに違いないんです』。だから家の物置にひっそりと隠してあった。鍵も見つからないようなところに隠して」
 鍵の居場所は壊れた冷蔵庫の裏に、セロテープで貼ってあったらしい。それを見つけたのはまさに奇跡(そうではないかもしれないが)と言えるだろう。
 
 この箱の持ち主は依頼者である家族の祖父にあたる人物だった。彼は青年のときに戦争へ行った。ノモンハン事件だ(一九三九年に勃発した満州国及び日本、対するソ連及びモンゴル人民共和国における、モンゴルの国境線を巡った国境紛争である)。その時の戦争で耳を悪くし、負傷兵として日本に帰ってきた。この箱はその時に持ち帰ってきた物らしい。彼はこの箱の話を、自分の息子にしか話さなかった。いいか、あの箱は絶対に開けるな。鍵は失くしたが(もちろん実際にはあったのだけど)開けようと思うなよ。お前はずっとそれを持っているだけでいい。
 その祖父が死んでからは、箱の存在も完璧に忘れられた。息子は父親の言葉を守るよりも、箱が放つ独特の雰囲気に耐えられなかった。
僕が想像するに、この箱は現地に残ることになった日本兵が彼に託したのだろう。戦地でこんな金属の箱がどうして手に入ったのかはわからない。だが当時にしてみれば、こういったものは貴重であったはずだ。そんなものを負傷兵に預けるのだから、どう考えても平穏な話ではないはずだ。
「今回ばかりは、このまま神社に返した方がいいと思われます」と椎名先輩は進言した。「あまりに危険です」
「えー」と久野霧さんは口を尖らせた。「怖いのー?」
「ええ。めちゃくちゃ」と先輩は答えた。
 彼はいつもと違った表情をしていた。オカルト関係を目にする時みたいな、狂った瞳ではない。それは彼が心底怯えた時に見せる、無防備で無抵抗な小動物のような覇気のない目だった。僕もそれに乗じる。
「椎名先輩の言うとおりですよ、久野霧さん。いくらなんでも危険ですし、それに面白半分で見るのは不謹慎ですよ」
 今さら不謹慎と言う言葉がどこまで通じるのだろうか。
「うーん」
 彼女は顔をしかめて腕を組んだ。どうやら相当迷っているみたいだ。彼女の病的な好奇心と、ビスケットのかけらほどの道徳心がせめぎ合っているのだ。もちろん最初は好奇心が優勢だったが、椎名先輩と僕の説得により、道徳心が最後の馬鹿力を見せつけている。いい兆候だ。
「やっぱり開ける」
 彼女は散々迷ったあとそう言った。
「出ようぜ、氷室」
 椎名先輩は部室の出口に向かった。僕もそれについて行こうと思った。しかし何かが僕を押し止めた。それは唐突に僕の思考に絡みつき、腕を引っ張った。
「氷室……?」
 椎名先輩が僕を見ている。反対に僕は久野霧さんに目を向けた。彼女は気難しそうに箱を見つめている。そんな彼女を見ていると、僕はだんだん久野霧さんが不安定な存在に思えてきたのだ。あまりに微弱で、あまりに儚い。そんな女性を一人にできるわけがない。
「久野霧さん」と僕は声をかけた。「本当に開けるんですか?」
「うん」彼女は頑固そうにうなずいた。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ僕もここにいます」と僕は諦めて言った。
「ほんとっ?」彼女は折りたたみ椅子から立ち上がった。
「ええ。でも危なくなったらすぐ逃げますよ」
 椎名先輩は目を細めて僕を見た。
「そのほうがいい」
 彼はそう言って部室から出て行った。

 僕は久野霧さんの向かいの椅子に座った。二人の間に箱がある。僕は緊張してきた。心臓が高ぶった固い音を立てて鼓動している。まがまがしい。空気が重い。
「開けるよ」
 彼女はそう言って、鍵を差し込み、左手で箱を押さえながら、ゆっくりと鍵を右に回した。かちり、という音がした。久野霧さんは鍵を抜いて、箱の横に置いた。
 両手を使って、箱のふた部分を押さえる。僕は両手を膝の上に置いて、唇を軽く噛みながら待っていた。すでに久野霧さんの表情は、あの病院の時みたいになっていた。狂っていて、壊れそう。儚い。そう、これだ。これが彼女の弱さなのだ。

 フタを開けた。
 
空気が変わった。
 
 激しい耳鳴り。

「だめっ」
 久野霧さんの表情が普通に戻った。僕は彼女から箱をもぎ取った。すぐにフタを閉めようとしたが、中身が見えてしまった。
 大量の髪の毛だった。嫌なにおいを放っている。それと汚い字で書かれた札のような紙。これは筆者のうまい下手の問題ではない。怒りや憎しみ、恐怖、悲しさ。なんて書かれていたのかはわからない。本当だ、誓ってもいい。僕には読めなかった。
「うえ……」と久野霧さんは両手で口を押えた。僕はもう我慢できなくなってフタを閉めた。ばたん、という音を出してそれは閉じられた。しかし何も終わってない。むしろこれで延長された。そんな気がした。
 部屋に何かいる。
 部室の隅。影が見えた。人の形をしている。それは流水のようにうごめいていた。黒い塊が流れとなって、輪郭の中をぐるぐると回っている。激しい感情のうねり。とっさにそう感じ取った。
 何だあれは?
 耳鳴りが激しい。うるさい。頭痛でおかしくなりそうだった。久野霧さんは逃げるように部室から出て行った。僕とその影だけが部屋にいる。影はじっと僕を見つめ、僕もまた影を見つめていた。僕は持っていた金属の箱を落とした。力が入らなかったのだ。
 僕は最後の力を振り絞ってその影を睨み付けたが、何の効果もなかった。影はタコのように身をくねらせ、ときどき左右に枝のような影を伸ばしながら、僕に近づいてきた。救いのないくらい不完全な形だった。見ているとテレビの砂嵐に近い。不均一な感情を元に動いているのだ。
 ここぉん。謎の音が影から聞こえる。ここぉん。意味のない音。だが奴にとってこれは意味がある。ここぉん。
ふと脳裏に、いくつもの死体が映った。荒れた大地の上に、規則正しく並んでいる日本兵の死体。顔にはヘルメットが被せられている。その光景は瞳というカメラを通して僕に届けられている。続けざまに二回、一瞬だが映像が暗転する。まばたきだ。死体への視線はずっとそのままだ。
 
 ここぉん。ここぉん。

 そして僕の視界が閉じられる。


 気を失っている僕を、部長が背負って部室から出してくれた。彼の話によると部長が入った時には、室内には僕以外に誰もいなかったらしい。
 その箱は椎名先輩が何とかした。彼は首吊り自殺に実際使われたというロープを持ってきた。樹海で拾ってきたらしい。先輩はそれを箱に巻き付け、これでもかというくらい頑丈にぐるぐると巻いた。その後、僕と部長と先輩の三人で、海に持っていき、捨てた。もはやマナーとか言っている場合ではなかった。
 久野霧さんはしばらく部室に顔を見せなかった。大学にも来なかった。しかしある日突然やってきた。まるで腹を空かした猫が、夕方には飼い主の家に帰るみたいに。いくらか元気はなかったようだが、普段通りの彼女だった。

 影、と僕は思う。
背後を見てみるといい。
 いるはずだから。
影は。


――――――――――――――――――――――――――――――

 仕事が終わり、僕は車でホテルに戻った。
 ホテルでは一足先に、久野霧さんが待っているはずだ。取材が長引くかもしれないとあらかじめ言ってある。彼女は日中、図書館やカフェに行って文章を書いたり、メールを返信したり、電話で仕事の話をしたりして過ごしている。もうこんな時間だから、夕ご飯を食べて、ホテルの部屋でくつろいでいるのだろう。今回は僕の取材の関係で、地方都市に滞在することになったのだ。
 僕は部屋の鍵を開けて、中に入った。部屋の中は暗かった。そこは奇妙なほどしんとしていて、死を思わせるような冷たさがあった。僕は入口のところで立ち止り、耳を澄ませた。音は聞こえなかった。
「久野霧さん?」と僕は声をかけた。
 返事はなかった。僕は後ろ手でゆっくりとドアを閉めた。そして、手探りで電気のスイッチを探し当て、電気をつけた。
 部屋に灯りが灯る。そこには、僕と久野霧さんのキャリーバッグや、そこから取り出した着替え、彼女の化粧品などが置かれてあった。散らかった形跡もない。久野霧さんはどこに行ってしまったんだろう?
「久野霧さん」と僕はもう一度声をかけた。
 そのとき、僕の耳に何かが聞こえた。それは誰かの呼吸音だった。浅く、早い息の音だった。まるで怯えた子供のような音だ。
 部屋の隅に、身を丸めて、シーツをかぶる久野霧さんがいた。
 その姿を認めると、僕はゆっくりと深く息を吐いた。
「久野霧さん」と僕は声をかけた。
 しかし、彼女は反応しなかった。凍えるようにシーツをまとって床に座っている。目は正面を凝視し、呼吸は正常でない様子だった。
 僕は静かに彼女の前に立ち、しゃがみこんだ。彼女と視線を合わせる。しかし、それでも久野霧さんは僕の存在をうまく捉えていないようだった。
「どうしたの?」、僕は穏やかな声で尋ねた。
 久野霧さんは何も言わなかった。彼女はひどく怯えて、声も出ないようだった。
 しばらくして、彼女はようやく口をひらいた。
「そこ」
 ある一点を指差した。振り向くと、そこはバスルームだった。ドアは開け放たれている。電気がついておらず、その中は暗かった。
「あそこがどうかしたの?」と僕は聞いた。
「いるの。あそこに」
 僕は立ち上がり、バスルームの電気をつけ、中を覗いた。何もなかった。ごく普通の浴室だ。シャワーヘッドと、湯船があるだけだ。何も変なところはない。霊もいない。
 ため息をついて、久野霧さんのところに戻った。
「なにもいなかったよ」と僕は言った。
「嘘」、彼女は揺るぎようもない声で言った。「絶対いる。本当」
「大丈夫だよ。恐ろしいものは何もない」
「本当だよ。私さっき見たの。あそこにいた」
「久野霧さん。僕は――」


「信じて! お願い!」

 僕は押し黙った。彼女は荒く息をして、鋭い目で僕を睨んでいた。その表情はまるで獣のようだった。怯え、逃げ道をなくした動物のようだった。
 僕は振り返り、シャワー室の方に目を向けた。力強く、しっかりと見つめた。そこにあるものを暴き出そうとした。闇に紛れるもの、救いがたいもの、歪んだもの、それらを明らかにしようとした。
 でも、そんなものはいなかった。僕はわかっていた。久野霧さんの言っていることが真実でないことを。あの場所には何もいないのだ。僕は初めから知っていた。
 しかし、久野霧さんはそんな僕を見て、安心したようだった。前に向き直ると、正気を失った彼女の表情が、徐々に安堵のそれに変わっていくのがわかった。
「ありがとう、氷室君」と彼女は言った。その声には、もはや張り詰めたような感じはなかった。
「うん」と僕は言った。
「氷室君は、私のヒーローだね」
「うん」
「すごく怖かったんだよ、私。バラバラになっちゃうところだった」
「うん」
「みんなが、私を殺そうとするの」
 彼女はくすくすと笑い始めた。楽しいことを思い出した少女のように。肩を揺らして笑った。
 久野霧さんは、か弱い少女そのものだった。
 僕はしっかりと、彼女を抱きしめた。シーツ越しに、久野霧さんの温かみを感じた。息遣いと、肌の柔らかさを感じた。この人はまだ生きているんだ。身体には血が流れ、瞳には生気が浮かんでいるのだ。
 誰にも殺させやしない、と僕は誓った。仮に何か邪悪な存在が彼女に近寄ろうとしたのなら、僕は命を賭けてでも彼女を守る。彼女がおかしくなってしまっても、僕はそこから絶対に離れない。そのために、僕は多くの代償を支払ってきたのだから。
「氷室君」
 腕の中で、久野霧さんは囁くように言った。
「なんだい?」
「いつか私を殺して」

―――――――――――――――――――――――――――――――――

 「蛍」

 僕は大学の仲間内で始めたコンパを終え、よろよろとした足取りで帰路を辿っていた。街はネオンの光で不自然に光っている。人々は思い悩むような表情で道を歩んでいた。あるいは現代人はみなそう言う顔をしているのかもしれない。
 ふと道端に座り込んでいる若い酔っぱらいに目が止まった。彼はあぐらをかいて、ガードレールに背中を預けて眠っていた。
 木島さんだった。
 お決まりの通り、僕は木島さんに肩を貸して、彼のアパートまで連れて行ってやった。彼は終始僕に『僕に構うな』と言っていた。しかしちゃっかり僕から腕を離さない。典型的酔っ払いだ。
 彼のうちは思っていたよりも遠かった。途中、疲れたから橋の上で休憩した。僕の体からはすっかりアルコールが抜けていた。俺は何をやっているんだろう、と僕は無意味な自問をする。答えは出なかった。
 木島さんは弁護士を目指していた。爽やかな笑顔にすらりと伸びた背。まさに弁護士といった男が、今ではべろべろになって歩道に伸びている。僕はあきれて彼を眺めた。こんな奴が六法全書を扱えるのか?
 考えてみれば、この男とはそんな頻繁に接触していない。久野霧さんとトンネル探索に行ってからは、二,三度ほど顔を合わせた。それだけだ。しかも軽い世間話程度の会話だった。しかしこの男は、どこかしら人を惹きつける力があった。とくに魅力的な才能は持ち合わせていないはずなのだが、それがより一層、彼に対する警戒心を鈍らせた。
「蛍」
 木島さんは小さな声でそう言った。
「はい?」と僕は聞き返す。
「橋の下の川。蛍」
 まるでスパイ同士の暗号だ、と思いながら橋の下を覗いてみた。確かに蛍が見えた。淡く弱い光がたくさん空中を浮遊している。それは不規則に漂い、夏の夜風とともに揺れた。
「あれは命を運んでいるんだよ」と木島さんは言った。
「命、ですか?」
「ああ。蛍の光は命の灯。死んだ人間の魂を運ぶ利口なお使いだ。奴らはそれを水辺に持っていき、そこで離す。魂はそこで解放される」
 それは久野霧さんと持論が似ていた。水辺で解放される魂。それは彼女の受け売りなのだろうか。
 僕がそれを尋ねようと思った時、木島さんはすっと立ち上がった。そして僕の横に来て、手すりに肘を起き、同じように下を覗いた。
「人が救われるのは、夏のある時期だけだ。そこで初めてこの世を去ることができる。救いの季節なんだよ、夏は」
 木島さんは前に少し手を伸ばし、空中にある見えない何かを掴んだ。彼はゆっくりとそれを持ってきて、手を開いた。
 何もない。
 木島さんは自嘲気味に笑った。
「どうやら僕には命を運ぶ資格がないみたいだ」
 彼は首を振り、空を見上げた。
 頭上に狂ったような数の星が見えた。あれも命なのだろうか。

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