結婚とはなにか【Xにちょっとずつ書いたののまとめ:完結しました】

どうせたいして伝わらないし、ぼんやりした話だからまとめて書こうとするとまとまらず、あまり書いてなかった話をぽつぽつ書いていこうかなぁ。

私が自分が結婚する前に「結婚」という制度に期待したことは、自分では贖えない「このあと何十年続く将来こうするという信用」を結婚によって貸してもらうことだったと思う。

30歳前後のころ、そういうことを考えていたと思うんだけど、当時の私は色々あってめちゃフラフラしており、3ヶ月後どうしてるかも自分でも想定できなかった。結婚するべきかと思う相手とは一緒に暮らしていた。

この先数十年、そもそもその時点で30年生きてないのに、40年とか50年とかもしかするとそれ以上とか、自分がどうするかとか信じてくれって、相手の気持ちで考えたら無理だよなと思った。ていうか、自分だって信用できない。そのためなら結婚する意味があるかなって思った。

このへんが私が自分で、自分のために考えた #結婚とはなにか の原点だと思う。

もうひとつ、上に書いてある話よりもう少し前に、私が #結婚とはなにか について考える原点になっている体験があって、それは知り合いが「専業主婦をするのはリスクが高いし、人件費が高い日本でその選択をするのは非合理的」みたいな話をしてるのを見て考えたこと。

私は特に専業主婦を指向してはないが、当時、友人(ネトゲ友達)でひとり専業主婦をしてる子がいた。彼女は子どもがおらず、旦那さんは仕事が異常に忙しく帰宅している時間が短く、でも専業主婦をしていた。

「専業主婦はリスクが高い」というのは、本人ひとりが経済的に満足のできる生活を一生するためという観点にてらせば間違ってはないだろうが、私には彼女が非合理的とは思えず、どちらかというと合目的的な行動に感じられた。

明らかに彼女は、旦那さんと可能な限り、できれば一生、一緒にいることを最優先の目的としていたと思う。外で仕事をすることや他の外出する趣味に没頭することなどすべてを、その目的に対する「リスク」として排除しているようだった。

一般的な、単純な経済合理性で考えればありえない選択かもしれないが、明快に彼女の目的が旦那さんと共に暮らし続けることであるなら、最初の知り合いのいうところの「リスクヘッジ」は目的に対する「リスク」でしかないように思えた。

たとえていうなら、収入に対して過剰な入院保険金を払い続け、そのために健康な生活ができず、結果的に入院したとして「入院保険に入っていたから、入院しても困らなくてよかったね!」となったら、愚行だろう。そういう感じがした。

「もし離婚しても困らないようにする」という話を聞くたび、私にはこのイメージがよぎる。選択的夫婦別姓推進派の人が「離婚したときに姓を戻す作業も必要なくなる」というのもそうだし、「準備がしてあれば、イヤになったら離婚すればいいんだから」という話でもそうだ。

そんなふうに考えるとすれば、では、なぜ結婚するのか?結婚ってそもそもなんなのか。 前回書いた「数十年そうするという信用を借りる」という私の結論にも、「イヤになったら離婚すればいい」は含まれない。

このへんからいよいよ、何を言ってるのかわからないとか、なんか話間違ってない?とか思われそうなところなんだけど……気にしてると永遠に書けないから書く。

昨日までのところから、色々な話を聞いたりなんだりして、結論として私が結婚に必ず必要であると思った要素は

・結婚をずっと続けるだろう(離婚しないだろう)と夫婦ふたりが互いに思っており、それを疑いない前提として予測したり、計画したり、行動すること

これだけ。

結婚の他の条件は基本的に、この要素を支えるための修飾だったり、付帯する行動だと思う。 そして、じゃあ離婚できないのかというと、離婚はどうしても必要なときはできる。 ただ、離婚できない「かのように」しておく必要がある。

つまり結婚というのは、ビジネス上の契約などとはまったく違う種類の「約束」で、その仕組みは人々の長い営みの中で伝統的に編み上げられていて、本当はこういうふうに解体しないほうがいいようなものだと思う。

なんというか、ゲーム理論的になんかありそうな気もするけど、お互いに裏切らないという前提があってそう行動するときに、瞬間的な個々の損益は色々になるが、長期のコミュニティの利益が最大になる、なんかそういうマジカルな感じだと思うんだよね。 しかもその証明は後払い。

で、これが正しいという証明はたぶんできないんだけど、これを使わないときや過剰な条件をつけたとき、色々不具合が起きることは予想できるような気がするんだ。

私が「本当はこういうふうに解体しないほうがいいようなものだと思う。」と言いながらもこの説明をしてるのは、私が「結婚を破壊するもの」と感じるものの基準を書き表してみたくなったから。 ここでいう結婚は、個々の結婚ではなく、社会が持っている概念や機能としての結婚。

さっき書いた結婚に必須と思う要素は言い換えれば「この結婚がずっと続くと相互に信じる」ことだけど、「信じる」のが一番強くなるのは、それが当たり前のことのとき、自明と思うとき、疑う余地を感じないときだ。 理由を考えたり条件を考えるのは基本的に信心を弱めると思う。

でも、私が生まれる前にすでに社会での結婚に対する信心は相当に破壊されていたと思う。 私はバキバキのリベラル家庭で生まれ育ったし、宗教もはっきりとは持たず、単に精神的自立に伴い、リベラルから離れていった。私はたまたま小林よしのりも嫌韓もネトウヨも経由せずにリベラルから離れた。

だから、私はかなりシンプルにほぼ自分ひとりで「結婚とはなにか」を再構築するハメになった。 しなくてすむならしないほうがいい行為だと思う。 でも今これを読んでくれてる人はわりと「結婚を破壊するもの」に疑念を感じてる人ではないかと思って、これを書いてる。

「結婚とはなにか」を、一般的な結婚にありそうな事象を結婚に必須のものと仮定して並べていくと、途端に理屈が破綻していく。どれもが例外を含んでいるから。 でもそれは実は必然で、「結婚はずっと続く」という要素の要請からそうなっているんだと思う。

例えば、同居しているか。基本的には同居してることが多いだろうけど、では単身赴任で別居していたら結婚たりえないかといったらそうでもない。 家計を一にしていれば別居していても結婚なのか?これもそうでもない。共働きで家計を一にしない夫婦でも、結婚ではあるだろう。

愛があれば結婚なのか。愛がないけど結婚が始まる夫婦も続ける夫婦もいるし、愛があるだけなら恋人でもいい。 性交渉がなければ結婚ではないのか。これも必須ではなく、むしろ一生続く結婚の間にはあるときはあり、ないときはないのが普通なのではないか。合意さえあれば。

これを「同居しない結婚もある、家計を一にしない結婚もある、結婚の形はいろいろ」というとちょっと見誤ると思う。これ、その瞬間の結婚の状態、スナップショットで見てるからそうなるだけで、本当は「長い長い結婚期間には色んな状態がある」ということだと思う。

「この結婚がずっと続くと相互に信じる」を続けるためには、お互いに夫婦(家族)の生活がずっと続くよう努力する必要がある。どちらかがまったく努力していなければ、不安が生じて信用が損なわれていく。しかし、家族の状況はそれぞれの家族で違うのはもちろん、家族の時期でも大きく違う。

つまり、そのときの夫婦(家族)にとってベストと互いに考える方法を選ぼうとしていたり、長い間にはベストとは言えないような行動しかできなかったり、そういう状態でもこれからも続けるという前提があれば結婚、というだけのことなのだと思う。

このへんの機微をすっとばして「結婚には色々な形があっていい」と切り取り、それを拡張していくことは結婚の中心的要素に大きな問題を起こすと思う。それは、外部から「この結婚がずっと続く」と信じる信用を借りてくることが難しくなることだ。

この信用を借りてくるとき、大きな要素が3つあると思っていて、ひとつは宗教、もうひとつは行政(法律、あるいは国家)、もうひとつは世間だ。これは、人によって全て使えるときもあれば、使えないときもあるだろうが、少なければ少ないほど借りてこられる信用も少なくなり、結婚が不安定になりやすいと思う。

もちろん、それらすべてを凌駕するほど強く「この結婚を続けられる」という信念が個人的にある夫婦もいるだろうが、それを全ての結婚しようとする人間に期待するのは無謀だ。少子化まっしぐらとしか思えない。

ついでに触れておくが、その「信用を借りてくる先」である3つも、元々、人々から集めた信心があり、それらが集めている信心が少なくなれば、借りてこられる信心も少なくなると思う。今のところ、どれも(少なくとも日本では)信心を減らし続けているように見える。

日本は多分世界的に見るとちょっと変わっていて、宗教による結婚の支えが昔からあまり機能してないと思う。だから宗教についての話は割愛するが、ひとつだけ触れておくと、同性婚はキリスト教との対立が基本だと思うので日本人的にはちょっとポーンってなる話が多いよなと思っている。

結婚を続けられる信用を借りてくる先としてあとふたつ、行政と世間と書いたが、このうち「行政」は法律や国家(の権威)という意味を漠然と含んでいるつもりで書いた。「法律」のほうがわかりやすい気がしたので、ここからは法律と書く。 法律と世間は、異なるが互いに相関すると思う。

法律には結婚の概念の一部が明文化されているが、それを見て世間の結婚の概念は変わるし、世間の結婚の概念が変わって法律を変えようという意見が強くなれば法律が変わるだろう。このふたつの結婚の概念には、政治とメディア(情報)が強い影響力を持つと思う。

法律も世間も、結婚の概念の源泉は(ここでは日本の)人々の意識や感覚にあるはず。だから、実際に人々の生活実態が変化して、結婚の概念が変わるのはある意味当然のことだ。例えば、核家族化に関しては、先に法律が変わる経緯はあったとて、高度経済成長に伴い実際に核家族化が進行した。

だから(狭い意味での)家族の概念が核家族を表すものになっているのは、特に不自然ではないと思うが、その流れに戸籍の編成が核家族を表す形になっているのはやはり一定程度の影響を与えているのではないかとは思う。現在の日本で、家制度がそれほど強い影響を持っているとは私は思えない。

このへんで選択的夫婦別姓の話をしたいのだが、その準備として、私が人々の生活実態を超える形で結婚の概念を侵食していると考えているふたつの思想(または概念)について話したいと思う。そのふたつは「個人主義」と「ビジネス脳」(語意は後述)である。

先に言っておくが、私は特段個人主義について学術的な意味で勉強したことなどはなく、単に世間で一般的に広まっている考えを眺めての感想となる。個人の意志が尊重されるべきとか、個人単位で独立した行動ができたほうがいいとか、なんかそういうふわっとしたものの話をしている。

「ビジネス脳」は、夫命名だが、功利主義の亜種みたいな感じで、ビジネス以外のこともビジネスのような理論で判断してしまっている考えを指している。投資とリターンとか、コストとかリスクとか、目的設定とかマイルストーンとかプロジェクトとか……まあそういう感じの考え方のこと。

「ビジネス脳」という命名自体にかなり侮蔑的なニュアンスがこめられてしまっているので使うかちょっと迷ったが、家族(夫婦)の概念への侵食について話す際には否定的な文脈で話すのには違いないのでいったん採用しておく。 夫と結婚する前後(15年以上前)からしばらく夫と話してたテーマでもある。

このふたつの考え方は、いっけん多くのことをうまく説明したり道筋を示すので、それですべて解決できると考えがちなのだが、どうも夫婦(家族)という非常に小さく特殊な共同体の原理としては相性が悪いように思う。

この合わなさを説明するのは難しいのだが、私の感じていることを書くと「モデルと系がかみ合ってない」という感じがする。本当に伝わらなさそうな単語で恐縮だが……。ここでいう「系」というのは、太陽系とか慣性系とか、英語だとsystemとかframe、相互作用がある注目している場とかのこと。

ということで選択的夫婦別姓の話に進むが、たとえば選択的夫婦別姓で姓を婚姻後も変更しないでおきたい、というのは、色々……本当に色々な理由が言われているが(というか全く違う指向の人が無理やり同じ箱に入っているような感じがするが)基本的なもののひとつは「個人を表す名前だから」という。

あえてここを取り上げるのは、これが本心に一番近い人が多そう、と私が思っているからなのだが、しかしじゃあ実際に今世間で姓が個人を表すものなのかというと、普通に考えたら違うでしょう。姓は核家族を表す名前、というのが、おそらく世間での実態だと思う。

この「個人を表す名前だ」というのを多分「本心で」思っていそう、というあたりが、個人主義が実態を侵食していると私が思うような部分になる。 ここがむしろ危うさを感じるところで、これくらいのスケールで実際に人々が感じていることは、そのあと行動に反映して実態に変わるだろうなと予感する。

もしここで、「姓は個人を表す名前」という感覚を認める形で法律に夫婦別姓を導入するとなると、これは現在の実態的な世間の感覚を超えた個人主義を先に法律に書く、ということになると思う。それは多分、世間が結婚を個人主義的に捉える動きを加速するだろう。

では、結婚という概念に個人主義をこういう形で持ち込むことが、結婚にとってよいことなのか。 すでに冒頭で多少書いている気もするが、私は結婚に個人主義を持ち込むと「では、なぜ結婚するのか」という迷宮に入り込むと思っていて、よくないと考えている。

個人主義は、非常に大きな対象(権威的な大きな集団、たとえば国家のような)と個人間の原理を説明する場合には比較的よく説明できると思う。これは、個人の動きが対峙する「非常に大きな対象」にほとんど影響しないという前提を非明示的に持っていると感じる。

だが、もっと小さなコミュニティ、中間共同体においては、個人の行動が共同体に大きな影響を与えすぎて、あまりうまく機能しないと思う。一番うまく機能しないのは、一番小さなコミュニティである夫婦(家族)であろう。なんせ、1対1である。

片方の自由な行動は、そっくりそのまま、片方の不自由に直結する。 ここで、なんかそれでうまくいきそうに結婚前に感じてしまう錯誤として、結婚前は(特に恋愛結婚において)夫婦という2人のユニットを一体の「個人」としてみなすことでなんとなく辻褄が合ってしまうように感じることがある気がする。

また、この個人主義の対峙する「非常に大きな対象」は、クラシカルなリベラルは「国家」をイメージするだろうが、現在の日本の感覚でいうと「自由市場」と対峙すると捉えるのがとても相性がいい。相性がいいので「ビジネス脳」と「個人主義」でなんか、解決しそうに見えてしまう。

夫婦ふたりをひとつのユニットしてそれを拡張した「個人」と考えて個人主義を使うのは、ラブラブの恋人同士が「あなたの言葉は私の言葉、ふたりはいつも一緒、あなたの望みが私の望み」とナチュラルに考えてる間はまあよかろうが、残念ながら夫婦の生活はそういうもんでもなく、しかもずっと続く。

そして個人主義を結婚に持ち込むと、たぶん絶対に解決できない致命的な命題があって、それは「配偶者でない相手を好きになって、その相手と一緒に暮らしたくなったらどうするのか」である。 この命題を、個人主義を尊重した上で、結婚を続ける方法があるのか。私には思いつかない。

先に結論を書いておくが、私が考えた場合にこの「個人主義」と「ビジネス脳」を組み合わせて、最初に書いている結婚に必須の要素「この結婚がずっと続くと相互に信じる」を達成しようとしたとき、どの道を行っても行き止まりだと思う。パッチを当てても当てても本道には戻れない感じがする。

だから、結婚の概念はできる限り(実態とあまりに大きく乖離しない限り)は「個人主義」と「ビジネス脳」から距離をおいて保存して、「この結婚がずっと続くという信用」を借りることができる概念として保存しておくべきだろう、というのが今のところの私の主張だ。

結論を先に書いちゃったけど、これだけだといったい私がどんな「結婚を破壊するもの」に疑念を抱いているかはよくわからないと思うので、このあとはそういうものをぱらぱら書いて行こうと思う。

ここまで、結婚について書いているのに、子供について書いていない。正直、私が実際に自分のことで結婚とはなにかと考え始めたとき、かなり序盤で「まあ子供ができたら結婚するだろうけどなあ」と考えていた。子供ができて一緒に育てるなら結婚が必要、というのも、現在の日本でほぼ共通の認識だろう。

でも、まとめとしては子供を結婚とはなにかの中心に置かなかったのは、ひとつには真面目に考える人ほど

・子供を作るなら、安定した環境を整えてからでないといけない
・子供がいないなら、結婚する理由が見つからない

で、ロックしてしまうだろうと思うからだ。

もちろん、ナチュラルに「絶対に子供はほしい」と思っている人ならこのロックにはかからないのだが、実際問題、私自身が子供ができる前は特に子供がほしいと思っていない人間だった。……一応付言しておくと、今現在、実際にいる自分の子供はかわいいし責任をちゃんと感じている。

子供がほしいと思わないのは、個人的な資質や経験の問題もあろうが、私としてはリベラル(個人主義)は「まだ存在していない人間」を取り扱うすべがないのだと思う。本人の意志を尊重する、というテーゼは、まだ産まれていない(予定もない)子供には適応できないと思う。

また、まだ存在していない人間には、好悪を感じるかどうかも確信が持てない。よく「若いうちから他の赤ん坊に触れてないから、赤ん坊の面倒を見る慣習があれば自然と生みたくなる」とかいう話も聞くが、実は私は年の離れた弟がいて「お姉ちゃんだから面倒見れるわね」にうんざりしていたので否定的だ。

余談だが、このへんのリベラル生まれ育ちの自分の感覚からすると、反出生主義がリベラルの成れの果てなのは大変良く理解できる。でも好きじゃないから、あんまり見てないけど……。そこに行っても出口ないでしょう、という気持ちである。

ということで、個人主義(リベラル)に寄せると、子供を作る理屈を立てるのが難しくなる、というのは私が実体験的に感じているのだが、実際に今現在の私に子供がいるのは、ひとつ一番大きいのは夫がふつうに子供はほしいでしょ、という人だったこと。

もうひとつは、これは自分ひとりで結婚について考えたときに考えたことだが、子供がほしいとは思わなかったものの、結婚して何十年という先を想像したとき、自分が子供を持たなかった(それも持てたのに持たない行動をした)ことを後悔しないだろうという確信が持てなかったこと。超消極的である。

だからその時点では、一応子供を持つ方向で考えよう、でも、そうならなかったら無理せずあきらめよう、みたいな感じだった。諦める準備だけが万端だった。なんとなく自分には32までに初産ができないと体力的に無理っぽいなって思って、32歳までには出産……とライフプランに書いた。(当時20代最後)

結果的に全然思ってたのとは違う感じで32歳になる直前に初産を果たしたが、この経験から考えても、まず結婚(というか長期的な関係を結ぶ約束をする覚悟)をしないと、相手と話し合いがそもそもできず、話し合わなければやっぱり本当には子供については決められない。

昔だったら、そもそも結婚しなければ公然とは性交渉できず、性交渉しなければ子供もできない。だから、結婚→出産、の流れが不可避的に決まっていただろうが、今はかなり確度の高い避妊と中絶があるので、やはり結婚が先に必要だと思う。妊娠後の覚悟にも結婚は対応しているが、それを前提にはしない。

まあ私は、結婚前の自分がどリベラル+周囲がみんなビジネス脳、の中で、こんな風にたまたま、本当にたまたま難しい道筋を突っ切って出産に至ったのだが、体験的にも理屈的にも、結婚を個人主義に寄せすぎると出産が難しくなる、という意見になる。

ついでにもう少し書いておくと、私みたいな骨の髄まで、感覚レベルでリベラルな(リベラルだった、と過去形かも)人間ってそんなにいないと思っている。たいていの人は、理論武装としてリベラルを羽織ってるだけ。だから、結婚をリベラルから引き離して保存することは、ちゃんと意味があるだろう。

考えたら書けないなと思って構成を決めないで書き始めたので、結果的に、ここまでは「リベラルとビジネス脳の中にいた私がいかにして実際に結婚し出産できたか」の話になった。ここからは、私が実際に結婚・出産してから「いや、それダメだろう」とやる前に思って行かなかった道の話になりそう。

ここまで、道徳とか倫理とかを一切登場させてないのだが、道徳とか倫理は「離婚できない「かのように」しておく」ために結局どうしても必要だと思うものだ。このあたりで、リベラルとかビジネス脳とかと結婚は完全に手を切ることになる気がする。

別に個人主義(リベラル)の人とかビジネス脳の人とかが道徳や倫理をまったく感じてないわけではないと思う。思うが、そもそもそれらは「古く無意味な慣習を打破して効率的(←ビジネス脳側)、自己実現的(←個人主義側)に行動することこそ善」というテーゼがかなり強く織り込まれている。

ベースの思想から遊離した状態で「なんかこれについてはそう思うから」みたいなお気持ちだけで道徳や倫理を使うと、味方には倫理や道徳をもって接するが、敵にはそんなもの必要ない、みたいな態度に簡単に落ちる。

個人主義にしてもビジネス脳にしても「自らの利害と反するが善なるもの」に対する処理をまったく持ってないわけではない。持ってないわけではないが、これらを結婚に適用するとなんかもうひどいことになるよな、全然ダメだろう、というのが、私の感想だ。

リベラルは、伝統的な倫理や道徳のかわりに「平等」を持ち込むと思う。平等であるべきだから、貧しい人には富める者が資産を分け与えなくてはいけないし、男女は平等であるべきだし、人種間で扱いが変わってはいけないし、性的指向が異なるからといって結婚の権利がないのは許されない、となる。

ビジネス脳は、法と契約を持ち込むと思う。法的にアウトなことはしてはいけないし、契約を結んだら守らなければいけないが、守らない場合には違約金を支払う。ビジネス脳の場合、法的にアウトなことを「してはいけない」だけでなく「して罰則を受けた場合のコストがリターンに見合わない」かを見る。

リベラルは人間の私的な欲望に対してかなり無防備に設計されているし、ビジネス脳は私的な欲望は当然あるものとして、その私的な欲望が社会を壊さないように法や契約を作るべきという思想に立っていると思う。この組み合わせがもう最悪だ。

そもそもリベラルが根源的に抱える問題として、特定の人間(配偶者や子供、血縁関係にあるもの)に特別な扱いをすること自体が「平等」のテーゼに反している。子供は守られるべき存在、というのはリベラルに「子供は弱者」という形でインストールされているが、血縁を特別視する理論はない。

この理論に沿って家族を解体する試みは実際に行われ、失敗していたようだが私はそんなに詳しくは知らない。まあ、私にはいいものとは感じられないし、いいと思ったとて人間には無理なんじゃないかなと思う。

実際私自身が、リベラルから離れていく過程の中で、ひとつひとつ自分が感じることを吟味した結果、自分はリベラルよりコミュニタリアンのほうが近いな、と思うに至ったときがあった。自分がいるコミュニティをより大切にしたいという素直な気持ちは否定したくない。

でもその「自分がいるコミュニティをより大切にしたい」という気持ちは拡大するとナショナリズムになるので、きっちりリベラルをやるとどこかで衝突するんだよね。私はリベラルとは離別するしかないかなと思ったが、リベラルやってる人はどう解決してるのかは謎。

なんの話かわからなくなりがちだが(予想通りでもあるが……)とにかく、個人主義だと結婚する理論的支柱があんまりないと思う。好きな人ができる、恋人になる、一緒に暮らす、このままずっと一緒に暮らしたい、までは個人主義で全然行ける。だって自己実現的だし、今自分がしたいことに忠実だし。

でも「結婚」する理由は個人主義からは出てこない。でもそのままだと不安だし、子供もほしいかもしれない。そこにビジネス脳が「どうせ一緒に暮らすなら、結婚していたほうが経済合理的」とささやく。賃貸でふたりで住む部屋を借りたほうが家賃は別々より合計額は安い、とか色々。

ビジネス脳で考えたら、結婚は契約になる。契約条項は婚姻届に明示的に示されてはいないが、民法に示された夫婦の義務と、離婚裁判時の離婚を認められる条件から逆算できるので、ビジネス脳ならそれで契約内容とみなせる。違約金も離婚時のことを考えれば想定できる。

結婚した場合と結婚しないで同居した場合のメリット・デメリットを比較し、コストとリスクを考え……メリットがデメリットを上回れば結婚できるだろうけども。 でもこの発想で(この考えを継続して)結婚したら、全然離婚を止めることができないと思う。だから高確率で離婚するだろう。

そもそも、結婚期間は長い。何が起きるかわからない。というか思ってもないことが起きるのが「普通」だと思う。そして「こんな人だと思わなかった」のも「普通」だと思う。今までない状況に遭遇したときの振る舞いなど、自分でだってわからないこともある。

しかも、結婚するときは「ふたり一緒」の場合のメリットとデメリットを比較するだろうが「自分のほうが相手より損してるのではないか」とは、結婚前は考えなくても、離婚したくなるときは考えよう。 「自分にとってはデメリットのほうが大きい」と考えるときがいつかやってくるのは、ほとんど必然。

しかも、個人主義だと「自分の自由がない」ことのデメリットをすごく大きく感じてしまうだろう。でも、結婚ってそもそも、自由を失うタイプの約束なんだけどね……。メリット・デメリット比較で結婚してしまうと、あんまりそこに注目できないと思う。

これ、ビジネス脳じゃなくて、倫理とか道徳とか誓約として「結婚」していれば、損とか得じゃなくて、とりあえず限界まで続けるしかないな、って考えられる。相手もそう簡単に離婚とかしないと思っていればこそ、思い切ったことも言えるし、自分の行動を変えてみる意味もある。

5年10年という時間があれば、努力で変わることもあるし、思ったところが変わらなくても、状況が変わって、何も変わってなくても全然気にならないとか関係なくなることもある。ずっと問題なこともあるだろうけど、けっこう思ったより多くのことが時間で変わるものだ。

ビジネス脳や個人主義には、こういう時間に委ねる、長い時間を経る感覚がない。仮に30歳で結婚したとして、80歳まで生きれば50年間結婚は続く。この時間スケールに対応し、かつ何代もの経験を積み上げる感覚がない。

かわりに機会損失、一度きりの人生、世界は広くてもっと自分に合った相手がいる、選択肢は多いほうがいい、などなど、離婚して新しいことを始めることを賛美する概念は溢れかえっている。苦しいままの状態でいることは愚かとさえ言われる。そりゃ離婚するだろう。

でも、実際人類の多くは結婚してきたわけで、それはやっぱり、いつか結婚が死によって終わるとき「やっぱり一緒にいてよかった」とか「あのときは本当に大変だったけど、なんとかなったよね」とか、思う人が多かったから続いてきたのではないのか。むしろ、そう信じる人が多かったから。

だから私はそっちを信じることにした。それは「伝統」と呼ばれるものだと思うけど、私が自分の感覚から再構築した「結婚」の概念でもある。これが私にとっての「結婚とはなにか」。

なんかいい感じになったので、今回はここで終わります!ずっと読んでくれた人、ありがとうございました。

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