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ドブネズミみたいに美しくなりたい
リンダリンダ。ボクが生まれる前にリリースされた曲だ。
シンプルで覚えやすい曲とは裏腹に、歌詞を調べると興味深い。そんな訳で考えてみようと思う。
リンダリンダとの出会い
ブルーハーツさんには怒られそうだが、リンダリンダとの出会いは、学生時代の飲み会だ。当然パロディだが、お酒を飲む際のコールとして使っていた。一見するとただの変態で異様であることには変わりない。しかし、恐ろしいほど皆が一体となり、さらに初見であっても簡単に覚えられる印象深いものだった。
では、ドブネズミみたいに美しくなるとは
ドブネズミは漢字で書くと「溝鼠」であるように、下水に生息する不潔で汚い生き物だ。加えて、病原菌は持ってくるわ、家の中のものが食い荒らされるわ、まさに忌避したい生物であることに間違いない。
そんな汚い生き物なのに、そのように美しくなりたいとは一体どういうことなのだろうか。
そこで、次のフレーズである"写真には写らない美しさがあるから"を基に考えてみる。
ドブネズミは私たちが表で目にする光景は汚い生き物だが、実は賢く、泳ぎもできる。
本当に美しいものとは、見えないところにあるんだよ
というメッセージなのかもしれない。
それは、星の王子様にも出てくる
”いちばんたいせつなことは目に見えない"
ことと類似している。
だから日本語を大事に使いたい
ボクは、マイペースで協調性がない、打たれ弱いとマイナス印象がある、ゆとり世代だ。そんな自分であってもだ。ここ最近、おかしな日本語(もどきと言った方が合っているか)やカタカナ語がメディアを通じて出回っている。
誤解がないように言えば、新しい言葉を考え出して使ってみること自体は、それはそれでいいことだと思う。
しかし、どんな意味や影響があるのか、どういった状況で使うべきなのか本当に考えて使われているのか甚だ疑問に感じる。
次から次へと新しいもの、新しいものと振り回されてしまっては本末転倒だ。だからこそ、これまで伝統的に大切にしている価値観を振り返って活かしていきたいのである。
「ドブネズミみたいに美しくなりたい」
言葉を大切にして、目に見えないものほどよく観察する姿勢でありたい。
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