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高級中華じゃなくて町中華のホトケさまたち

運慶や快慶が彫ったド迫力の像でもなく、
金色に輝く端正な仏像でもなく、
木でできた、くすんでひび割れた仏さまなのか神さまなのか、
どっちとも取れるような仏神像。

お寺の本堂の脇や端っこに置かれていたり、
村の小さな祠の中に祀られていたりして、
形もばらばら、作り方も雑。

しかも笑った顔の像が多い。

民間仏」というらしい。
高級中華じゃなくて、町中華ってところか。

『みちのく いとしい仏たち』
岩手県立美術館に見に行った。

9月に京都、12月に東京でも

先月上野の東京国立博物館でみた『東福寺』特別展の厳かさ、
とは真反対の、にぎやかで微笑ましい雰囲気。

たとえば、東福寺という立派なお寺に有名な仏師が彫った仏さま、
それを「町の仏」とするならば、
大工さんが仕事の傍らでつくった、
その地域の人だけに価値を感じられる「村のホトケ」。

監修者の須藤弘敏さん(弘前大学名誉教授)さんは、

村の人々が純朴だから村のホトケは純朴で純粋だ、というようなことはありません。これしか造れないという状況が否応なく簡素な造形を生んだのです。村のホトケが粗末な用材や稚拙な表現でしかないのは、それを必要とした人々が「これでいいのだ」と認めたからです。

図録『みちのく いとしい仏たち』 p17

仏像は如来や菩薩の場合、厳しい表情か、見た目はつんとすまあした無表情がほとんどで、そのほうがありがたく威厳もありそうです。ところが民間仏はそんな格好つけと無縁です。悩みや悲しみを訴える対象に笑みを求めて何が悪いんでしょう。泣いて怒って、生きるつらさをつぶやく人に「いいんだあ、いっぺ泣いでいけ」とニコニコ語る仏像は宗教造形としてまちがっているのでしょうか。(略)笑顔の像ならみちのくの得意です。母や姉のような象たちがみちのくの「慈悲」なのです。

図録『みちのく いとしい仏たち』P57

そうした微笑みの像が大半だけど、
2体だけ、せつない様子の仏像があった。

赤ちゃんを抱いた子安観音で、
生まれてすぐに亡くした子への思い、
母子ともに失った悲しみ、
水子として送らなければならなかった悔恨、
そうした思いが込められていいる。

はじめてお目にかかります
でも夢ではきっと会ってます
おばあyたんが言ったはず
村にはほとけさまがいるんだよ
だまって何でもうんうんと
聞いてくれるほとけさま
まるいお顔に小さな目
思い出したでしょう
くやしくて眠れなかった夜
自分がいやになった夜
泣けばいいよと言ったのは
わたしたち
これからもずっとあなたの
そばにいて
ふふふと笑って見ています

図録『みちのく いとしい仏たち』トビラ




図録『みちのく いとしい仏たち』2023年