口数は少ないけれど、しゃべる音は多い東北の人
釜石で暮らしていて、ときどき言葉が聞き取れないことがある。
わたしが移住者だと知ってる人は、
標準語っていうのもおかしいけど、
なまりのない言葉でしゃべってくれる。
(これってテレビの影響なんだろうかといまさら不思議に思う)
だけど、わたしも釜石の人だと思って、というか、
そんなこと気にしない場での会話では、
ドドドドドドドドーーーっと、
あるいは、ドドド、ドド、ドドド、ドド、ドドドドドドドド、
みたいな感じで言葉が飛んできて、
その多くの言葉を理解できていない。
どこで暮らしていても、方言っていうのは聞き取りづらいものだけれども、
いままでそれは「単語」が違うからと思っていた。
もしかすると、「音」の多さが違うから、かもしれない。
東北の言葉には、古語の風韻が残っているという。
日本の言葉は、奈良京都を中心に、同心円状に広がっていった、
という学説もある。
柳田国男の「方言周圏論」だ。
いま、日本語は「50音」でまとめられているけれども、
むかしむかしはもっとたくさんの音が日本語にはあって、
『古事記』は88音、『万葉集』は87音が確認されている。
旧仮名遣いで考えてみればわかりやすいかも。
たとえば、「ゆー」という発音で、どんな意味(もの、こと)を想像するか。
「勇気」は「ゆーき」と発音し、現代仮名遣いでは「ゆうき」、旧仮名遣いでも「ゆうき」。
「夕方」は「ゆーがた」、「ゆうがた」だけど、旧仮名遣いでは「ゆふがた」。
「郵便」は「ゆーびん」、「ゆうびん」だけど、「いうびん」。
「言う」も「ゆー」、「いう」で「いふ」。
「ゆー」が「ゆう」と「いう」になり、
「ゆう」は「ゆう」「ゆふ」「いう」「いふ」になる。
むかしは音が多かった。
秋田弁は68音あるらしい。岩手弁はどのくらいあるんだろうか。
(『いま、「東北」の歴史を考える』高山宗東 総和社 2011)
東北の言葉はズーズーいってわかりにくい、だけじゃなくて、
音がたくさんあって言葉が豊かだから、50音に慣れた怠惰な耳では聞き取りにくい、のかもしれないなあ、と思った。