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日本を動かした神秘主義結社「昭和神聖会」と出口王仁三郎/武田崇元

昭和戦前を席巻した新宗教・大本のリーダー王仁三郎は、近代的な右翼団体「昭和青年会」「昭和神聖会」のオルガナイザーでもあった。
大陸覇権を狙う軍部や急進派右翼と手を結んで驚天動地の国家改造と霊的革命をめざした知られざる日本のオカルト愛国結社の秘史をあばき、驚愕の真相を明らかにする!
(ムー 2013年12月号掲載の記事に加筆校訂)

文=武田崇元

激動の大日本帝国と霊的革命への序曲

 大正10年の第1次弾圧の痛手から立ち直った大本は、昭和になると第2期の黄金時代を迎えた。エスペラントの採用に象徴されるように、リベラルで開明的なモードが支配的になり、万教同根と世界平和に重点を置く人類愛善会の活動が中心にすえられ、その教線は遠く中国、満州、ヨーロッパ、南米、ポナペにおよび、教団内は穏やかな空気に満ちていた。
 1931年(昭和6)5月、東京で開催の日本宗教平和会議に、王仁三郎は栗原白嶺を派遣、国際連盟、軍縮会議の徹底的推進、ミリタリズムの放逐を提唱し、国家神道代表の筧克彦、沢田五郎らの日本の戦争行為はすべて聖戦であるとする意見と激しく対立した。
 ところが、同年10月の満州事変を境目に、大本はなかば公然と軍部と交流する急進右翼勢力へと変貌をとげ、昭和9年には出口王仁三郎を統官、伝統右翼の巨頭で「泣く子も黙る」といわれた、黒龍会の内田良平を副統官とする昭和神聖会を結成するにいたる。
 このような変貌の背後にはいったい何があったのだろうか。王仁三郎は宗教を彼岸の世界のもののみとは考えていなかった。『霊界物語』のなかで「キリスト神を楯として麺麭を説き、マルクス麺麭もて神を説く」と詠んだように、王仁三郎の念願にはつねに現実社会で苦しむ民衆の救済があり、それは「立て替え立て直し」という出口なおの筆先の言葉で表象された。

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戦前日本を席巻した新宗教・大本を率いた出口王仁三郎。まさにカリスマの持ち主だ。

農務村恐慌と急進ナショナリズム

 1930年代の日本は、明治以降の急速な近代化によるさまざまな矛盾がいっきょに噴出し、大きな曲がり角にさしかかっていた。それは国内的には農村危機としてあらわれた。1920年代前半、日本農業の主軸は米と繭(生糸)で、生糸は総輸出金額の30~40%におよんでいたが、20年代後半には、朝鮮産の米の流入で米価が下落、アメリカの生糸相場の下落で農村の不況は常態化する事態となった。
 1929年(昭和4)10月のニューヨーク市場の株価暴落に始まる世界恐慌の波は、浜口内閣の金本位制復帰と緊縮財政で増幅され、日本を直撃。1930年(昭和5)の輸出額は前年比5割に落ちこみ、300万人以上の失業者がでる事態となる。輸出の激減で繭価は暴落し、豊作で米価は大暴落し、「キャベツ50個で敷島タバコひとつ」といわれる状態になる。さらに翌昭和6年には東北地方は深刻な冷害に見舞われ、飢餓水準の窮乏に陥る。

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