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祝「真・女神転生」オンラインライブ2021~オンガクのコトワリ~開催直前! 創世の夜のコトワリを考察/藤川Q・ムー通

ゲーム雑誌「ファミ通」とのコラボで、ムー民にこそ遊んでいただきたいゲームをお届けする“ムー通”。奇しくも今回は『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』の関連楽曲も楽しめるライブイベント開催を目前に、”創世の夜”のコトワリについて語ります。

文=藤川Q #ムー通

“創世”という神の御業をシミュレートする

「ムー」が人間を探求する“スーパーミステリーマガジン”である、との視座から、あらためて『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』で描かれる人間と宗教、そして哲学思想について深堀りしてみたいと思う。なぜならば、『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』は、“悪の権化を打倒して平和をもたらす”といった巷のRPG作品にあふれかえるような英雄譚的構造を持った作品ではなく――その旅路を通じて、プレイヤーは“創世”という神の御業をシミュレートすることとなる特異な作品でもあるからである。生まれる世界には、プレイヤー自身の思想が反映されたものになるだろう

 余談だが、来る2021年3月20日には、作品の楽曲などをはじめとしたシリーズの名曲による音楽LIVE“「真・女神転生」オンラインライブ2021 ~オンガクのコトワリ~”も公演される。
 ということで、今回は創世のための重要な要素でもある“コトワリ”について、そのイメージから浮かび上がってくる言葉とともに逍遥してみたい。

LIVEはオンラインで視聴可能。詳細は上記のリンク先にて。

世界の姿を決めるコトワリ

 神と悪魔に翻弄される人間存在を描くRPG『真・女神転生』シリーズ。『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』は“創世”をテーマとし、プレイヤーは世界の創造に関わることとなる。その際に必要になるのが、コトワリ。次に生まれてくる世界の姿を決定するものであり、どんな世界を望むのか――という思想が純化され、具現化したもの。
 作中では、人間だけがコトワリを示現することができるとされ、物語の中で、3人の人物がそれぞれ3様のコトワリを拓き、それに沿って世界創造の御業が行われることとなる。

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 本作をプレイしたあなたは、この3つのコトワリについて、どのように感じたことだろう。ちなみに、作中にはさらなるほかの世界創造の可能性も存在しているが、それには追って触れていくことにして、本稿ではあくまでも3人の人間による3つのコトワリについてこだわってみたい。
 各コトワリは、まるで人類が宗教や哲学を通じて思い描いてきた究極の思想のようであり、プレイヤーがそのどれを選ぶか――繰り返しになるが、その結果は、あたかも鏡のようにあなたが理想とする世界の姿をも映し出すはずだ。

シジマとニヒリズム

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 静かで、穏やかに明滅する世界と一体となる。そこに在るのは、永遠の平穏。“シジマ”のコトワリが描くのは、変化の存在しない完全なる均衡が得られた無窮の世界だ。

 これは、まさしく涅槃の境地――仏教思想が目指す道の果てにある世界と言えるだろう。

 シジマのコトワリを拓く人物は、燃え盛る煩悩を否定する。阿弥陀仏が極楽から人間へ向けて、涅槃寂静の世界へと生まれ出ることを説くように、シジマの思想はすべての人々が欲望の縁起を見定め、究極的な概念である“空”と一体となる。――悟りの境地なのである。

 西洋思想的な視点からシジマが目指す涅槃の境地を眺めやると、そこに横たわるのは“ニヒリズム”である。奇しくもシジマを掲げる組織の名は“ニヒロ機構”だが、これはラテン語で虚無を意味する、ニヒルという語に由来するネーミングであることは間違いないだろう。

 哲学者ニーチェは、ニヒリズムに着目し、能動的なニヒリズムと、受動的なニヒリズムというふたつの姿勢を指摘している。シジマの思想は、“世界に絶望したことから、世界のありかたそのものに身を任せて流れていく”という、“受動的なニヒリズム”に軸足を置いているように感じられるものだ。
 本作には、3つのコトワリに拠らない、さらなる創世の可能性が存在しており、そちらは“能動的なニヒリズム”と関連するイメージを内包するが、これに関しては別稿にて紹介を予定しているため本稿では取り扱わない。

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 ゾロアスター教の悪神アンリ・マンユは、経典『アヴェスター』の第Ⅳ部“ウィーデーウダード”の第一章で描かれる“諸国の創造”のくだりにて、善神アフラ・マズダーの創造行為と対照的な“反”創造を行う様子が克明に記されている。アーリマンことアンリ・マンユ=虚無の神といった構図は、ポジティブな創造行為とは相反する、反物質的な“アンチ=虚数”存在の神としての顕現なのであろう。

 ちなみに、現代宇宙物理学においては、膨張する宇宙はやがてすべての場所が同一の温度=絶対零度となり、世界が停止する日が来ることを予言している。
 静寂を意味する語である“シジマ”のコトワリを抱くには、そうした世界の到来を見据え、世界の終わりがもたらす涅槃の静寂と一体となれるだけの精神性が必要なのかもしれない。

ムスビとエゴイズム

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 ムスビのコトワリがもたらすのは、各々が、閉じて守られたひとつの卵のような完全世界を持ち――互いに一切干渉せずに、独立して存在する世界。

 ラテン語で“私”を意味するエゴという言葉は、哲学における、自己や自我を示す概念。いつの世も、人類は哲学を通じて「自分とは何か」という問いの答えを求めて懸想し続けてきた。
 ドイツの哲学者マックス・シュティルナーは、どのような人間とも交感できない自我=エゴ以外のすべての存在は空虚な概念であるとして排斥し、エゴの支配下にあるものだけに価値があるといった“エゴイズム”を論じた。この思想はのちにマルクスやエンゲルスなどの社会思想家や、自我を超克せんとしたニーチェが提唱する、超人思想にも影響を与えたという。
 哲学者キルケゴールも、ただ一人であり、ただ一人で生き抜くことができ、ただ一人で生きることで満たされたものこそが、“単独者”=“哲学の主人公”であると定義している。

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 聖書で語られる、神の憤怒と洪水で滅びゆく世界で箱舟を建造そ、生き残った漂流者ノア。他者を顧みず、世界と自己のみを保存した者の物語でもある。このノアの箱舟のイメージは、神の創世の御業を再現せんと“哲学の卵”=フラスコをのぞき込み、神の創世の御業を再現して神と合一せんとした、中世は錬金術師の孤独に見立てることもできるかもしれない。
 どちらにせよ、漂流する世界は自分自身のインナースペースだ。

 いまや量子力学は我々に、完全な“客観”などは概念にすぎず、観測されうる世界はすべてが誰か個人の“主観”であると認めざるを得ない状況を突き付けているが、完結した終わりを意味する、ムスビという語を冠するコトワリがもたらすのは、世界の果てまで拡大された自我で自己完結した無数の平行世界。

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 昨今、SNSなどのソーシャルメディアのつながりの中で、自己の承認への欲求も肥大化しつつあるようだ。世界規模のコロナ禍の中、人類は断絶したリアルなコミュニケーションの代替えとして、ネットワークを介したテレワークで日々の業務に従事することも多くなっている。
 そんな中――アマラ経絡というネットワーク状の空間で、他者と接することを否定しながらさまよう中で拓かれたムスビのコトワリの先にある世界には、他者の承認などは一片も存在し得ない。もちろん、他者の承認を望む自分だけの世界を持てばその限りではないのだろうけれども、やはりそれは自分自身の顔とのみ、正面から向き合い、ユートピストたることだけを要請するだろう。

ヨスガと縁起

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 美しく強靭で叡智を兼ね備えたものたちだけの楽園。ヨスガのコトワリは、天国の如く、醜く弱く愚かなものたちの入場は許されない、劣るものは淘汰され尽くした完全な世界をもたらす。

 かつて心理学者のユングは、“最大の価値”について、東洋思想においては自己の内部に存在しているが、西洋思想でそれは自己の外部に存在していると指摘した。仏教では、仏像を拝む行為を通じて自己の内面に坐す仏を観想するが、キリスト教では神の概念は自己の外側に十字架として存在している最大の価値を崇拝するのだと。ヨスガの思想にはキリスト教の天使たちの多くが賛同しているが、それは美や力といった“外部”とのかかわりの中で可視化されるものに拠っているためなのか。

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 平安時代はおたふく顔が美男美女だとされたように、美しさの概念は、時代とともに変化していくもの。また強さや弱さも、自己の外部に存在している、“他者との比較”を前提とした基準で成立している。

 ヨスガという言葉もまさに、“拠り所となる”という意味や、縁――つながりを示すもの。つまり、美しく、強く優れた他者との連携に文字通り“拠った”共同体としてひとつになった世界の到来を予感させる思想だ。だがそれは同時に、弱く劣った存在も優劣の拠り所となるという意も含むものであるはずだ。

 かつてプラトンが目指して断念した哲人政治のイデア=理想形――すべての存在が哲人王であるかのようなものであると同時に、長らく西洋社会が求め続けてきた帝国や国家のイデオロギーの究極形にほかならない。劣って愚かなものが存在しないのだから、決して社会が腐敗することはない、完全なるコミュニティ。

 ヨスガの思想のもうひとつの拠り所となったのは、イケブクロを拠点とした力を至上とする集団“マントラ軍”。マントラは密教における真言で、力ある祈祷の言葉だとされているもの。このマントラ軍の頂点に君臨するのは、ゴズテンノウと呼ばれる巨大な彫像だ。ゴズテンノウこと牛頭天王は、謎の多い神とされるが、記紀神話の素戔嗚命と同一視される神格。御霊信仰(怨霊を祀ることで災厄を退けんとする信仰)とも関連が深く――疫病譚も残されている。疫病こそ、弱ったもの命を奪い一掃する恐ろしい災厄であり、強者のみの世界へとつながっていくヨスガの思想の母胎となっているのは興味深い。

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 ヨスガの世界の到来のためには、最も美しく強い存在の顕現が不可欠だろう。古代社会では、権力と恵みの縁起を裏付けする天空神や農耕神こそが、しばしば“主人”と呼ばれ、この座に就くこととなった。

 カナアンでは“主人”や“地主”を意味する名で信仰され、牛の供儀でも知られる神“バアル”は、嵐や雨の神としても崇拝されたが、そこからやがては農耕での豊穣とも関連づけられていった神格でもある。だが古代の農耕儀礼は人身供犠との関連も深かったことに由来することもあってか、のちにキリスト教からは異教の神として“バアル・ゼブブ=蠅のバアル”と蔑まれ、貶められたという。

 より美しく、より優れたもの、より強きもの――その存在には、前提としてより醜く、劣っており、弱い他者という、あたかも天使と悪魔のような概念が必要となる。だが、本当に強く美しい存在だけになったとき――世界は天国と同じ場所に至るのかもしれない。

バッドエンドは存在しない

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 各コトワリは、それを拓かんとする人物が抱く思いに投影された影のようでもある点が興味深い。シジマは、世界への憤りと諦念から。ムスビは、他者の評価と期待を。そしてヨスガは、前提となる弱者の存在そのもの。各人に欠けたものに強く惹かれるかのように。

 理(ことわり)を想うと書いて、理想。プラトンは理想世界イデアを想ったが、それは世界が不完全だからこそ。

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 ゲームファンの方なら、いくつかのエンディングが用意された作品のプレイを終えて、物語の結末に至ったときに、「バッドエンドだった」とか、「トゥルーエンド見られたか」なんて考えたりしたことはあるのではないだろうか。だが、『真・女神転生Ⅲ NOCTURNE HD REMASTER』では、その結末において最良であるとか、最悪だといった評価が入り込む余地はない。
 なぜなら、創世をテーマとした本作の結末は、プレイヤーが賛同し協力したコトワリに沿って、創世が行われるはずであるからだ。――無論、これまで俯瞰してきた3つのコトワリとは異なる創世の可能性も残されている。そこで目にした世界の姿については、別稿にて追っていきたい)。

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 あなたは何を由とするのか――“「真・女神転生」オンラインライブ2021 ~オンガクのコトワリ~”上演までの時間に、いま一度、悪魔に身をやつした長い夜の旅路で選び取ったコトワリと、生まれた世界について思いをはせてみてはいかがだろうか。

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