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トントントン

とある音が聞こえた。
オズと映画を見る予定がバシッィと
決まった時だった。

彼はトロント映画祭でボランティアを
していた程、無類の映画好きだ。僕らはカナダでワーキングホリデーをしていた際に、彼は映画館で僕は古着屋でアルバイトをしていた。その時からよく映画について教えてもらい、観てはあーだこーだ話していた。

今敏監督のパーフェクトブルーが
記憶に残っている。主人公がアイドルから女優へ転身する模様に胸が締め付けられる瞬間もあったりしながら、オズが映画館から持って帰ってきた
ポップコーンを僕たちは食べ切り、彼が生玉ねぎを齧りながら涙していたのを覚えている。

渡すはずのお土産を玄関前に忘れたのを
気づいた頃、反対車線の電車に乗っていた。
時間には間に合った。大田区大森にある蕎麦屋、愛知家でズズッと啜りたいところがまさかの休日で、当日にドカッっととんかつを食うことになって、ズズっとコーヒー啜りながらドドドっと話し込んで、チャリーンと小銭が残って日比谷公園にてサッと映画を振り返り、バチバチっと解散した。今日のオズはやたらと擬音が多い。

今回はA24配給の関心領域という映画を見た。
NY発のリベラルなテーマを扱う
インディペンデントエンタメ企業だ。
これまで何作品か観てきた。
知っている人も沢山居ると思うが、
良い映画が多いので、
是非チェックしてみてほしい。

本作品、関心領域は第二次世界大戦中、ナチス親衛隊がポーランド・オシフィエンチム郊外にあるアウシュビッツ強制収容所群を取り囲む40平方キロメートルの地域を表現するために使った言葉で、映画の中では強制収容所と壁一枚隔てた屋敷に住む収容所の所長とその家族の暮らしを描いていく。鳴ってる音も起こっている出来事も、
見ようとしないのか、聞こうとしないのか、
外界と生活との距離感で関心の幅が
限定されていく様は現代の縮図である。
いつの時代もこの様なことが同時間軸で
起こっていると感じさせられる。
良し悪しの話じゃなくて、
知ったからには傍観者としてはいれなくて、
僕たちはどう生きるのかという選択を迫られる
社会的メッセージ性を感じた。
知らないことを知ろうとすることが
発信を伴う勇気のあることだと。
何故なら僕たちはなんらかの形で外に出力しないと解消されないという性質を持っているからだ。
それは事の深刻さに比例する。
アンネフランクの日記が広がった様に1人1人の気づき、意識がほんの数%でも個の中に産まれ、存在して、その理解度を深めたり関連性のある映画や事柄に興味を持ち始めて少しづつ世の中が
変わり始める、僕の中でもその動きがまた加速されている。

静と動
激動と静寂の中で生まれるの衝動を抑えきれず
納得のできる形でもがいている。
俺は何をどんな形で伝える事ができただろうか?何を話すのだろうか?
昨日と今日はさほど変わりはないのだろうか?
明日もそうなのだろうか?
今日は考えることは同じくして
僕が思っているということが
そっくりそのまま直接的、
あるいは間接的に
真意を隠して、個から個へと
伝達され相互作用を始める。
ある人はそれらをグルーヴと呼び、
ある人は磁場と呼び、
ある人はそれを民主主義と呼び
ある人はそれをアートだと呼び、
それらの中に生きる道を
見つけて○○だと叫ぶ。

小さな池の主よ
そのプロップスはどこへ?
そこから出るのが怖いかい?
俺はまだ知らない世界を見てみたい。
他人を評価し始めているうちに、
気づけばその中に嫉妬や妬み、
確執が生まれてギャップが広がっていく。
勘違いな事が多いし、
良いところも悪いところも、
どちらも知って批判するのであれば
互いに納得できる均衡点を
探せるのではないだろうか?

僕たちの生活は時間という概念と共にあること。
有意義で高密度の時間を求める。

久しぶりに行った近所の銭湯のお母さんは
長らく来なかったじゃないか、
と気さくに話しかけてくれる。
僕の仕事や、身の上話まで、
他にも銭湯は好きでよく行くが
ここが1番落ち着く。
そんな場所はあればある程いいだろうから
その気になれば政治も他国の戦争もエコノミクスも関係ない、半径数メートルの付き合いが健やかなものであればそれで安心する。

でもそうはいかない。

そこまで無関心になれる様にはできていない。
胸の奥を締め付ける何かが、
まだ見ぬ世界へと誘い、
誰にも触れてほしくない幸せな時間があったり、
共有したくて止まらない喜びがあったり、
そして踏んだり蹴ったり
踏み躙られる憤りを覚える。
そして守りたい存在や譲れないことが出てくる。
その先にあるのは命、そしてそれらの大切な存在のお陰で僕たちを生かされていることに気づく。
そんなん一歩踏み出さずには
いられなくなくないすか?、


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