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『引き際』の美しい女性になりたいのです

今までの私は、自他共に認める恋愛体質だ。
最近ようやく自分の時間や自分磨きにベクトルが向き始めて、恋愛から自然と少し距離ができているけれど、きっと人の根本はそう変わらない。自分に目を向けているのも、その先にあると信じる出会いのためでもあるのだ。

他人から見れば、確実に色々な人と出会い、恋だなんだと騒いできた私が、この前友人に言われたことが終始頭から離れずにいる。

「あんたはいつも引き際が悪い」

うそーーーん。そんな風に見られてたの。
でも悔しいけれど、自覚ありありのあり。
最後に別れた元カレも、最後に終わったセフレ君も、その他思い出される数多の恋も多分、引き際はとても綺麗とは言えなかったと思う。

母がよく言う、「引き際の美しい人でいなさい」と。
私も何度も何度もそうありたいと思い、願ってきた。
それでも、それはやはり思考の話なのだ。
相手に少しでも気持ちがあれば、ないはずの『もしかしたら』を考えてしまうのだ。ないはずだけど、あるかもしれない、という淡い期待、つまりは執着。
執着とは本当にやっかいなものである。
わかってんのよ、みんなが言いたいことは。
引き際がさっぱりしてる方がかっこいいのも、わかってんのよ。わーかってんの、と思いながら、執着のせいで、まるで縋るかのような醜い私を生んでしまうのだ。


ただ最近、引き際は本当に大切だな、と実感することがあった。

半年ほど前、元彼と別れ食事もままならず急激に痩せ細った私を見兼ね、友人がひとりの男性を紹介してくれた。

結論からいくと、数回デート重ねたのち、相手は私を気に入ってくれたのだが、私がお断りする形となった。

お断りに至った理由はいくつかある。
ただ結局最後は惹かれなかった、というのが大きい。
もう会えないな、と思ってから紹介の手前、丁寧にメッセージを送り、色々あり終わっただが、最後の最後に『良い人がいたら紹介して』と言われたのだ。大した何も思わなかったが、友人たちからの非難はすごかった。

そこから半年経ち、この前急にメッセージがきた。

23時半頃、何の前触れもなく、『最近あった面白い話聞きたい?』と。(実際に来た原文とは異なるが、簡素に俺の最近あった恋沙汰について聞きたいか、という内容)


大変申し訳ないが、鳥肌が立った。


半年ぶりにメッセージをしてくるのに、お疲れ様やらなんやら社交辞令の一言もなく、まるで私がるんるんで聞きたいだろう、と思ってるような。

考えすぎかもしれないが、そう受け取ってしまったのだ。

もっというのであれば、半年前のもう会えないというメッセージで私はあのまま終わりでいたかったのだ。

引き際、とは少し違うのかもしれない。
ただ、このメッセージを受け取った時に紛れもなく私は、『引き際』について考えさせられたのだ。



ああ、終わりを告げる方はきっと、後腐れなく終わりたい、もう綺麗に。面倒なことなく。
別れを告げる方は、最後の最後まで執着し、相手に固執し、縋ってしまうのだな。


…とても滑稽で情けない姿に見えるんだろうな。

悲しいけれど、終わりを告げた方の多くは、スッと前を向いている。振り返ることもなく。
そこに立ち止まっているのは、いつだって置いていかれた方なのだ。
もちろん例外もあるだろう、恋愛に限らず引き際はあるし、時と場合によっても違うことも重々理解している。

ただ、きっと、私が今まで経験してきた引き際は、きっと美しく綺麗なまま去ることが正解だったのだ。

縋った果て、相手の中に残るのは後悔や未練なんかじゃない。嫌悪に近い感情だと、身をもって知ってしまったから。

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『引き際』の美しい人でありたい。

なんで、どうして、もしかしたら。

そういう感情を殺してでも、そうでありたい。

もし本当に縁がある人なのであれば、今ここで別れても、手放しても、きっとまた出会うはず。

今の自分には繋げない縁を、しっかり自分を見つめ直し時間をかけて大切にした後の自分が、掴んでくれるはず。

今は別れるべきなのだ、と。
そういうタイミングなんだ、と。

『引き際』をちゃんと見定め、苦しくても悔しくても、溢れる涙も出かかっている言葉も全て押し込め、ただただ自分らしく終わりを受け入れることができたなら。

私の大好きだった人、あなたの大切な人に映る最後の自分は『美しい私』でいれるはずだね


訪れた春、新しい出会いや環境に色々な感情を抱きながら。
この春からの出逢いに、いずれ訪れるかもしれない引き際がどうか美しいものでありますように。

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