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コロナウイルスが突き付けた問い

 どうやら首都圏も週明けの5/25(月)に緊急事態宣言が解除される可能性が濃厚となり、日本におけるコロナ第一波はひとまず終焉を迎えることとなりそうだ。罹患された方やお亡くなりになられた方には心よりお見舞いを申し上げ、ご冥福をお祈りするとともに、心身的にも経済的にも疲弊を極めながら自粛を強いられたれた方々にも敬意を表したい。コロナでお亡くなりになった個々人のレベルにまで掘り下げると楽観的なコメントができる状況ではないが、マクロレベルで見れば日本のダメージは欧米諸国比軽いものですんでおり、何はともあれ素直に喜ばしい。それが、海外から「日本の奇跡」と揶揄されるとおり単なる幸運によるものなのか、あるいは日本政府によるコロナ対策が有効だったのかどうかは今後の検証に委ねることにするが、結果オーライであったコロナ第一波との戦いの中で、様々な社会的課題が提起されたということだけは明白なのではないか。

まるで戦時中の様な同調圧力の強さ

 今回の緊急事態宣言に伴う自粛は、あくまで「要請」であるが、諸外国における「罰則付きの強制命令」と同等の効果を発揮した。それを可能にした高い道徳心が日本人の美徳として賞賛される一方で、所謂「自粛警察」と言われる人たちの不寛容さや、「空気」という名の強烈なプレッシャーで、人間個人の合理的な判断による行動が大きく制限された側面もある。その最たるものが医療従事者やエッセンシャルワーカーへの差別、営業を続ける料理店への嫌がらせであり、その行為に公的なお墨付きを与えたのが、大阪府および東京都による営業自粛要請に応じないパチンコ店名の公表であったといえる。大阪府の吉村知事などは、ワイドショーのコメンテータに店名公表の意図を問われ、「コロナの感染源になりやすい施設に近隣の一般住民が近づかない様にするため」と苦しい説明をおこなっていたが、その目的が自治体の休業要請に従わない店を「さらし者」にするためであることは、小学生でも理解できる。つまり、一言でいえば「村八分」である。筆者はパチンコ店の存在自体に批判的な意見を持っているが、それでも今回の措置はやりすぎであると感じる。

日本は法治国家ではない

 当たり前であるが、政府の「要請」に従う義務は国民にない。休業要請は国民の善意にただ乗りした厚かましい施策であるのみならず、強いやつ(今回の場合は国、地方自治体、そして民衆)に力づくでも従わせるという手口は街のゴロツキと変わらない。近代国家においては法というものが統治体系の最上位に立つべきであるが、残念ながら日本はそういう構造になっていない。先ほどのパチンコを例に取れば、本質的には賭博行為であるにもかかわらず、「景品交換」という抜け穴をつくることにより、さも合法行為であるかの様に拡大解釈したり、売春行為であるはずのソープランドも「自由恋愛」という名のもとお咎めなしとしており、何でも解釈論ですませていくのが日本という国の変わらない仕組みだ。かつてはそれが日本の強さの源泉であった時代もあるが、価値観が多様化した現代においてはこのシステムの欠点も多いはずだ。法的にまったく根拠がない要請であるので、経済活動を自粛した国民の金銭的損害は、スズメの涙ほどにしか補償されない。筆者はここに大いな疑問を覚えるとともに、問題の解決には極めて重い政治的判断が要求されると感じている。次回はそこを深堀してみたい。


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