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『青天を衝け』第38回「栄一の嫡男」(2021年12月5日放送 NHK BSP 18:00-18:45 総合20:00-20:45)

冒頭は久しぶりに徳川家康(北大路欣也)登場。というのも1889(明治22)年夏、徳川家康の江戸入城三百年の節目を祝う「東京開市三百年祭」が開催されたからだ。集った旧幕臣たちは、渋沢栄一(吉沢 亮)をはじめとして栗本鋤雲(池内万作)、前島密(三浦誠己)、益田孝(安井順平)、田辺太一(山中聡)、福地源一郎(犬飼貴丈)ら。「小栗忠順(武田真治:写真出演)や井伊直弼(岸谷五朗:写真出演)はもっと認められて然るべきだ」と発言している福地はこの3年後に『幕府衰亡論』を上梓する。栄一と喜作(高良健吾)は川村恵十郎(波岡一喜)、猪飼正為(勝三郎)(遠山俊也)と烈公水戸斉昭(竹中直人:写真出演)の肖像画の話。猪飼が「よく似ておった」という烈公の肖像画は下のもの。この番組放送中にSNSでも話題になったらしい。

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そこへ登場するのがまさにその斉昭の息子の徳川昭武(板垣李光人)。栄一は二度目のフランス留学から戻った昭武にまずもってフリュリ・エラールの消息を尋ねる。昭武はエラールも自分の家庭教師をしていたビレットも息災だったと応える。またいくつもの万博に関わり、のちに帝国博物館長を務める山髙信離(山本浩司)はパリ万博の情報を皆に告げる。この辺もちょい役の人たちにちゃんと相応しい台詞を当てているのは細かい。また上野に西郷像を造る話で盛り上がる田辺と栗本を「そのような話は良い」と昭武に言わせているのも然りである。そこへ随分と年を取った永井尚志(中村靖日)登場(1)し、全員で「徳川万歳」\(^o^)/

場面は静岡。病床に伏せる徳川美賀子(川栄李奈)に東京開市三百年祭の様子を告げる平岡やす(木村佳乃)、病気を診ているのは医師の高松凌雲(細田善彦)。美賀子は、慶喜(草彅剛)が最近よく「渋沢を見いだしたのは平岡の慧眼であった」とつぶやいているとやすに告げる。その慶喜は西洋画に没頭。息子の厚(海津陽・子役)(2)の「父上はなにゆえに人は描かれないのですか」との問には答えない慶喜であった。

ここで「栄一は大きく羽ばたいていました」との守本アナのナレーションに被せて、栄一が設立に関わったさまざまな企業や事業が一挙に紹介される。栄一は、製糸、紡績、鉄鋼、建築、食品、鉄道、鉱山、造船など多くの事業に関わり、また国際化に対応するための女子教育、病院、養育院など教育施設や福祉施設などの充実にも務めた。兼子(大島優子)は渋沢の社会福祉事業をサポート。バザー(慈善会)の開催などを仕切っていた。渋沢家では次女の琴子(池田朱那)が大蔵省の阪谷芳郎(内野謙太)(3)と結婚。くに(仁村紗和)の産んだ娘の文子(八木優希)(4)は尾高惇忠(田辺誠一)の次男・尾高次郎との結婚が決まり、くにも新たな人生を送りたいと渋沢家を出て行くこととなった。こうして渋沢家繁栄の礎が築きあげられつつあったなかで栄一の後継者とみなされていた篤二(泉澤祐希)にプレッシャーがかかってきていた。

オープニング明けは養育院の慈善市(バザー)の様子。井上武子(愛希れいか)、井上末子(駒井連)、益田栄子(呉城久美)、穂積歌子(小野莉奈)らご婦人方が登場し、盛況な様子。そこにやって来た栄一や井上馨(福士誠治)、大倉喜八郎(岡部たかし)、益田孝らは気前よく寄附をする。日本経済も好調であった。平岡未亡人のやすと川村恵十郎もやってきて話をする。平岡円四郎(堤真一)も回想で久々に登場。

場面は変わってとある料亭。取り巻きにヨイショされながら遊んでいるのは、栄一の嫡男・篤二。遊んでいてもどこか浮かない感じである。三味線に合わせて歌う篤二。そこにやって来た姉の歌子。歌子は篤二に説教するが、「あれだけの仕事をなさった父様ならば品行上の欠点があっても許される」発言には笑った。あれでは説教も効き目がないだろう。1890(明治23)年、衆議院議員総選挙と貴族院議員の推薦で栄一も選ばれる中、穂積陳重のアドバイスで篤二は熊本へ向かうことに。

静岡では慶喜の妻・美賀子に乳がんが見つかり、東京に連れて行くことが告げられる。慶喜は妻の様子を優しく見守るのだが……。

栄一は水道事業での水道管選定の会議。国産品にこだわる役員面々に対して安全性を強調して反対。白熱する議論の最中に篤二が熊本で大失策(女を連れて大阪へ逃げた)を犯したとの報が。栄一は篤二とは会わずに、退学させ、血洗島で謹慎させることに決断。てい(藤野涼子)に迎えられ血洗島にやってきた篤二は、父との草むしりをしたことを思い出しつつ、母の千代(橋本愛)の死の思い出とも結びつく夏は苦手だと……。そして、謹慎の後、篤二は東京に戻って家族の娘・敦子(藤松祥子)と結婚することになった。

そんな中、馬車で移動中の栄一が突然暴漢に襲われる事件が発生。水道管導入を巡って国産派の連中が脅したのだろうと喜作に告げる栄一。栄一はコレラの蔓延が続く中、水を清潔にしたかっただけだと言う。もちろん、千代の命を奪ったコレラの悲劇を繰り返さないためにである。

美賀子の写真を現像する慶喜の姿。美賀子は治療のかいなく乳がんで落命。享年60歳。美賀子の訃報に接して慶喜を東京に呼べないものか鳩首協議する栄一や喜作たち。栄一は、慶喜の業績を後世に残さねばならないと決意するのであった。1894(明治27)年、日清戦争勃発。広島大本営に東京商法会議所代表として天皇に謁見する栄一。広島からの帰途、静岡に立ち寄り、慶喜の伝記を作りたいと告げるが、「話すことは何もない」と慶喜であった。

1895(明治28)年3月に日清戦争が終結。栄一は伊藤博文(山崎育三郎)に会い、「慶喜が東京に戻っても文句を言うものはいませんね」という。そして、2年後の1897(明治30)年、慶喜は約30年ぶりに東京に戻ってきたのであった。

注)
(1) 永井はこの翌々年に76歳で死去。
(2) 慶喜の四男でのちに貴族院議員。趣味人として知られていたが、酔っ払ってひき逃げ事件などを犯したりもしているので、ある意味篤二と重なるか?
(3) 栄一が一橋家に仕官したあと岡山の阪谷朗廬(山崎一)を訪れた場面をご記憶だろうか。あの朗廬の息子が芳郎である。
(4) 文子はのちに6人の男子を産んで育て、その男の子たちは実業界や学界、芸術界で活躍している。尾高次郎は第一銀行を経て、のちに武州銀行(現在の埼玉りそな銀行)の初代頭取。

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