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『青天を衝け』第36回「栄一と千代」(2021年11月21日放送 NHK BSP 18:00-18:45 総合20:00-20:45)

今回、まずは三菱の独占をどうにかして欲しいと三井物産の益田孝(安井順平)らに泣きつかれて、合本の東京風帆船会社を設立する栄一(吉沢亮)。しかし、その話を耳に入れた岩崎弥太郎(中村芝翫)は大隈重信(大倉孝二)にも栄一の企みを告げ、妨害にかかってくる。栄一が首をくくったというデマまで流したというのは史実。それだけ栄一たちの会社に脅威に感じたのであろう。同時に三菱には一人海外の船会社(P&Oなど)と競争し、勝ってきたという自負があった。

東京養育院の話も出て来る。インフレ(1)と収容者の増加による財政難で、東京府会では廃止論が叫ばれる。廃止論の先頭に立っていたのが自由民権派の沼間守一(オレノグラフティ)や『東京経済雑誌』(2)の主筆で府会議員であった田口卯吉(米村亮太朗)。彼らの主張は「貧乏人は自助努力が足りないのにそれを税金で助けるのはおかしい」というもの。結局、東京府は1885(明治18)年養育院に対する支出を停止した。以後は渋沢が運営のための資金集めに奔走し、1890(明治23)年に公営化されるまでその費用を賄った。

もう一つ、タイトルクレジット前に出て来るエピソードが、長女うた(小野莉奈)の縁談話。ここで大森美香は千代(橋本愛)に「幸か不幸かは神様のお決めになること。もとよりそれに従うしかないのですよ。お前の願いは神様の決め事を己の希望に沿わせようということだから無欲に見えて欲張りかもしれません」と言わせているのが印象的であった。もちろんこのあとに訪れる自分の運命に対する覚悟である。

そして、うたのお見合い。相手は元宇和島伊達藩藩士の穂積陳重(田村健太郎)(3)。東大教授で日本初の法学博士。紹介したのは四侯会議以来久々に登場の伊達宗城(菅原大吉)。伊達宗城は、形だけではあったが元大蔵卿でもあるので栄一にとっては昔の上司ということになる。まぁ、ご縁はともかく、お見合いした二人は楽しそうで良かった、良かった。

その頃、政府では大問題が勃発。北海道開拓使長官の黒田清隆が同じ薩摩の五代友厚(ディーン・フジオカ)へ安く官有物を払下げようとした事件、いわゆる「開拓使官有物払下げ事件」である。大隈が五代への払い下げに反対したことで世間の人気を博しているのが、気に入らないのが長州の伊藤博文(山崎育三郎)と井上馨(福士誠治)。伊藤らはこの機会に大隈を政府から追い落とすことを画策。大隈がこの払下げ情報をリークしたことの責任を問い、(今回は出てこないが)岩倉に御前会議を開催させ、天皇の裁可を仰ぎ、大隈に辞表を出させた。「明治十四年の政変」である。

一方の当事者、五代は第一国立銀行の頭取室で「とんだとばっちりだ」と栄一に愚痴るとともに、岩崎と渋沢は「己こそが日本を変えてやるという欲に満ちている」という意味で「よく似ちょる」と鋭く指摘。そこに井上馨と益田孝が登場して北海道運輸会社と越中風帆船会社を合同させ、さらに政府が補助金を出すから三菱の海運業独占を打破して欲しいと栄一に。裏には下野した大隈が立憲改進党を起ち上げて政府批判を強めようとしている、その資金源としての三菱潰しの企みがあった。

再び王子飛鳥山の渋沢邸。うたの結婚の準備が進む。血洗島からは渋沢市郎(石川竜太郎)、てい(藤野涼子)もやってきて賑やかに。披露宴シーンでは喜作(高良健吾)が「夫婦とは……」と説教を垂れる、いわゆる話の長い親戚のおじさんをうまく演じていた。よし(成海璃子)の「話が長げぇ」もお約束の突っ込みである。

披露宴後、しみじみと栄一と千代のシーン。千代がコレラであっという間に死んでしまう直前の夫婦の会話となったわけで、結婚してからの思い出を振り返る。二人ともこの時点で「初老」を越えているので、もうちょっと老けメークでも良かった気がするが、二人とも「若けぇ」な。

家族での朝食シーンで千代が牛乳にトライする。グラスは江戸切子。篤二やことの前にはエッグスタンドもある。洋行帰りの栄一はずっと洋食派だったのでこういう家族で囲む食卓シーンもあったのかもしれない。そんな幸せの中、千代はコレラに感染してしまった。看病も空しく、旅立とうとする千代。「生きてください」「生きて必ずあなたの道を」が最期の言葉となった。

血洗島から尾高惇忠(田辺誠一)も弔問に訪れる。悲しみにくれる栄一の家族たち。少し離れた立ち位置から栄一を見つけるくに(仁村紗和)は今回も台詞なしの存在感のみであった。

番組ラストに短い「栄一紀行」が流されるが、今回は東京都板橋区にある東京健康長寿医療センター。上の画像はその敷地内にある栄一の銅像。台座も含めると巨大で、深谷駅前の銅像並みにでかい。

注)
(1) もちろん大隈財政下での不換紙幣増発が原因。
(2) 1879(明治12)年創刊の日本で初の本格経済雑誌。自由主義経済論の論陣を張り、犬養毅の『東海経済新報』と誌上論争をしたことでも有名。
(3) 穂積家も学者一族。弟の穂積八束も法学者。長男も法学者の重遠、孫の重行は、西洋史が専門で東京教育大学(現・筑波大学)を退官した後、大東文化大学文学部教授、学部長、学長(1990-93)もつとめた。

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