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『青天を衝け』最終回「青春はつづく」(2021年12月26日放送 NHK BSP 18:00-19:00 総合20:00-21:00)*15分拡大版

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『青天を衝け』最終回。渋沢栄一没後90年となる節目の年に大河ドラマが放映され、話題を呼び、かつそれなりの評判を得たことをまずは喜びたいと思う。「日本資本主義の父」と呼ばれながらも、その短くはない生涯と多方面での活躍により、意外とその全貌が知られていなかった渋沢であったが、実業家としての渋沢以外のエピソードも多く描かれていたのは良かったし、周囲の人びと、とくに徳川慶喜や平岡円四郎、川村恵十郎など一橋時代からの繋がり、徳川昭武、フリュリ・エラールというパリ時代の知己、伊藤博文、井上馨、大隈重信といった明治政府関係者、五代友厚や岩崎弥太郎などの実業家たち、そして何より両親をはじめ「中の家」の人びと、尾高家の人びととともに歩んだ栄一の姿が心に残った。

最終回は、栄一の後継者となった孫の敬三が語り手となって、第1次世界大戦終結から栄一没までの13年間(1)を辿る。まずは日本人移民排斥問題。第一次世界大戦戦後処理のためのパリ講和会議(2)で、日本は人種差別撤廃を欧米各国に求め、栄一も、1920(大正9)年には日米両国の実業家たちによる協議会を聞いて日米関係の改善に努める一方、中国との親善にも取り組んだ。また太平洋問題、中国問題を話し合ったワシントン軍縮会議前に、栄一が時の首相・原敬と会談、意見交換したことが取り上げられていた。パリ講和会議で人種問題がまったく不調に終わったことに業を煮やしていた栄一であった。

翌1921(大正10)年、敬三は「外で」つまり、同じ銀行でも第一銀行ではなく、横浜正金銀行で学んでみたいと言う。まぁ、受け入れる横浜正金銀行も扱いには困っただろう。結局、敬三は1922年から25年までロンドンで暮らす。在英中に長男・雅英誕生(「栄一紀行」に登場!!)。名付け親が栄一であったことははじめて知った。

そして、同じ年。大隈邸に大隈重信侯を見舞う栄一。ワシントンへ行く決意を伝え、4度目の渡米を実現。「排日移民問題を掉尾の項目に加えていただきたい」と幣原喜重郎駐米大使に告げる栄一であったが、会議の紛糾を恐れてそれを断る幣原。栄一は心の尊厳の問題だという。しかし結局、栄一の願い空しく日本人移民排斥問題は取り上げられることもなかった。1921年11月4日原敬暗殺、1922年1月10日大隈重信逝去を知ったのは栄一が平和を訴えてアメリカを回っている時のことであった。同年、敬三は岩崎弥太郎の孫娘・登喜子(今泉マヤ)と結婚。正金銀行ロンドン支店勤務も決まった。

1923(大正12)年9月1日、関東大震災。「明治の時代に苦労して作り上げたものたちがすべ燃えています」と報告する第一銀行頭取の佐々木勇之助。呆然とし、打ちひしがれる栄一であったが、訪ねて来た篤二を「無事だったか。良かった」と抱きしめる栄一。父と子の絆を確認する感動シーンであった。さて、その後は栄一の救援活動が描かれる。栄一の子どもたち(篤二以外)が社会主義者たちが資本家を狙っているという噂をもとに血洗島に避難せよと勧めるのに対して、栄一それを断固として拒み、救援活動を続ける。海外の知人たちにも救援要請をできるところが、財界の大物であった栄一の真骨頂である(3)。しかし、1924(大正13)年、アメリカにおける排日移民法成立のニュースは栄一を落胆させた。

ところで震災の少し前、栄一は「道徳経済合一論」レコードに録音している。NHK的にはあとで出てくるラジオ放送シーンが重要だったのかもしれないが、現代の我々が栄一の肉声を聞くことができる貴重な音源採取シーンは入れて欲しかった。

1926(大正15)年、帰国した敬三が第一銀行取締役に就任。12月には大正天皇が崩御して昭和に改元された。孫たちが朗読する新選組の読み物にうつらうつらとしながら聞き入る栄一だったが、土方歳三登場シーンに「土方は私の友だ。私は土方と一緒に戦った」と言うと孫たちは大はしゃぎするのであった(4)。

1931(昭和6)年夏に中国で大水害が起きると、91歳になった栄一は「中華民国水害同情会」の会長に就任し、ラジオを通じて募金を呼びかけた。「大丈夫、大丈夫、大丈夫だい。……困った人には手を差し伸べましょう。仲良くすんべぇ。そうでねえととっさまやかっさまに叱られる。皆が嬉しいのが一番なんだで」だがその後、日本の関東軍が満州・奉天郊外で鉄道を爆破。この「満州事変」への抗議として、中国は日本からの救援物賓の受け取りを拒んだのだった。写し出された新聞紙面には「慰問品遂に拒絶さる/「折角の頂戴物も咽喉を通らぬ」と/宋氏から深尾男へ」とあった(5)。

日本の行く末を案じながら栄一は病の床についた。篤二に手を握られ、栄一はうわごとのように言った。「手をつなぐぶべぇ……みんなで幸せに……」

11月11日、栄一は妻の兼子ら大勢の家族に看取られながら永眠。渋沢栄一子爵追悼式で敬三は、祖父を偉人ではなく、故郷・血洗島の青空のもとで励む一人の青年のように感じていたと語った。「失敗したこと、かなわなかったこともすべて含んで、『お疲れさん』と、『よく励んだ』と、そんなふうに渋沢栄一を思い出していただきたい」。

【補足】
最終回は細かいネタも楽しかった。
1)まず北里柴三郎さん登場。インフルエンザの流行でマスク普及の話をしに栄一のもとを訪れるのだが、新しいお札の一万円、千円のコラボである。
2)次に敬三の書斎。実に様々なものが集められており、のちのアチックミュージアムを彷彿とさせる。敬三がいやいや(?)進学した東大経済学部ではのちに栄一の伝記資料集を編纂する土屋喬雄とともに山崎覚次郎のゼミで学んだ。土屋とは二高時代に出会っている。
3)原首相との会談のシーンで壁には「国勢調査」(第1回が1920年)のポスターが貼ってあり、標語までは読めないが「何の為調べるか 何を調べるか 何時調べるか 如何に調べるか」と書かれている。

注)
(1) 第1次世界大戦が終わったのが、1918年11月11日。栄一が亡くなったのも奇しくも同じ11月11日。満州事変勃発直後のことであった。前々回に篤二が父は戦争が起こると体の調子が悪くなると言っていたが、まさに昭和の長い長い戦争のはじまりを告げる満州事変のその年に、栄一は不帰の人となった。
(2) パリ講和会議には西園寺公望が全権として派遣されたが、戦勝国としての参加にもかかわらず、自国の利害に関する案件にしか発言せず、サイレントパートナーと呼ばれた。
(3) ハワード・ハインツからはベイクド・ビーンズの缶詰が届いていたが、ちゃんと開けられたのかな? 
(4) 当時、巷では新選組ものが流行していた。この辺の細部は脚本家がよく勉強している証拠だと思う。皆さんは歴史の教科書に載るような人と出会った経験はありますか?
(5)宋氏は国民政府の大物・宋子文、孫文死後には財政部長となる。深尾男は深尾隆太郎。

『青天を衝け』総集編の放送予定
BS4K:1月1日
午後1:30~3:15 第1部(55分)・第2部(50分)
午後3:15~4:59 第3部(54分)・第4部(50分)
NHK総合:1月3日
午前8:15~10:00 第1部(55分)・第2部(50分)
午前10:05~11:49 第3部(54分)・第4部(50分)

※ほぼ1年間、拙い感想文にお付き合いくださり、ありがとうございました。また何かの機会に書くことがあれば、どうぞよろしくお願いいたします。

**敬三と土屋の出会いは二高時代でした。修正しました。2021.12.28 10:46





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