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『青天を衝け』第37回「栄一、あがく」(2021年11月28日放送 NHK BSP 18:00-18:45 総合20:00-20:45)

イントロは千代(橋本愛)を失った渋沢家の食卓のカットから。すぐにオフィスに切り替わり、「大丈夫か」と声を掛ける喜作(高良健吾)。栄一(吉沢亮)はこれから京都へ出張(1)なので「およし(成海璃子)に時々家に来てくれるか」と喜作に告げる。落ち込んでいる栄一を見て、外務卿・井上馨(福士誠治)は「妻をもらわねばならんな」という。しかし、幌付きの人力車で新橋駅に向かう栄一の脳裏には千代の今際の際の様子が浮かび上がってくるのであった。

栄一は、京都に向かう途中立ち寄った静岡で先様・徳川慶喜(草彅剛)の隠居宅を訪ねる。妻の葬儀への香典に対する礼を述べると、慶喜は「昭武が二度目の留学から戻り、静岡にも来た」(2)、「恵十郎も久しぶりに顔を見せ、商法会所の頃の話などをしておった」と。慶喜の思い出話に思わず涙する栄一であった。

タイトルクレジット明けは、共同運輸会社設立の記念撮影シーンから。街頭では三菱、大隈攻撃で気勢を上げる民権派連中。三菱のオフィスでは大隈重信(大倉孝二)自らが大熊(=大隈)退治のポンチ絵(3)掲載の新聞をもって登場。それを見て呵々大笑する岩崎弥太郎(中村芝翫)。「売られたケンカは正面から買うちゃる。さらに三菱を大きうしちゃる」と。

再び街頭では講談師・神田伯山(二代目)(演じるのは六代目)(4)が、三菱対共同運輸の競争を講談で語るシーン。演台の前には『日新真事誌』が垂れ下がっていたが、当時はもう廃刊になっているのでこれは飾り。要するに新聞講談(「三共大海戦」)をやっていますよ〜という広告みたいなもの。講談自体は今のワイドショーみたいなもので、当世のニュースを庶民にもわかりやすく解説(?)した。共同運輸も郵便汽船三菱も必死の顧客獲得競争に奔走。よくよく台詞を聞いていると、株主優待とか湯や茶を振る舞うとか出てくる。伯山の語りの中で「ただで手ぬぐい一本副えるという勉強の仕方」とあったが、手ぬぐい一本がサービスって結構みみっちい気もする。それはともかくここは六代目の名調子が聞き所。

場面はがらっと変わって、平岡円四郎の未亡人やす(木村佳乃)の家。やすは三味線などを教えながら生活しているが、そこの生徒の伊藤兼子(大島優子)に縁談を持ちかけている。もちろん渋沢栄一の後添えにという話。話は一気に進んで、栄一は兼子を後妻に迎えることに。「渋沢家の家政をまかせたい」と栄一。この辺の棒読みぶりが良い。「おくにさんでなくなぜ見ず知らずの方に」と前回嫁に行った穂積歌子(小野莉奈)。栄一は「おくにには荷が勝ちすぎる」と。そして、継母を迎えることになった篤二の不安そうな顔……。

数ヶ月後、歌子の出産。栄一にとっては初孫となるこの男の子がのちの重遠さん。「あぁ、お千代にみせてやりたかった」とまたまた涙の栄一。兼子は「良かったね。篤二君」と声を掛けるが、だまって出ていく篤二。この辺から性格形成に歪みが出てきたのか?(その話は次回)

東京府会ではまたまた悪役として登場の沼間守一(オレノグラフィティ)、田口卯吉(米村亮太朗)らが東京養育院の廃止を求める提案をするが、栄一はもちろんこれに反対。しかし、東京府は養育院経営から手を引くことになった。

岩倉具視(山内圭哉)は病床に。岩倉はこれが我々が望んでいた日本の姿か……と嘆きつつ、三条実美(金井勇太)や井上馨に看取られつつ世を去った。1883(明治16)年7月のこと。享年、57歳。

共同運輸と三菱の熾烈な争いはまだ続いていたが、岩崎弥太郎の命も尽きようとしていた。弟の弥之助に「腹を括れ」と檄を飛ばす弥太郎は「奥の手があるきに」と合本主義を逆手に取った株式の買い付けに走る。そして、三菱と協定を結ぶよう提案をしにくる五代友厚(ディーン・フジオカ)。「こげん争いは不毛じゃ」「まちぃ〜と大きな目で日本を見んか」という五代に「あなたも何も見ていない」と反抗する。頑なな栄一は「戦いをやめる気はない。差し違えてもやり抜く」と言い、伊藤博文(山崎育三郎)に陳情にいくが、逆に伊藤に「少し慎め」と諭される。大政治家である伊藤博文の面目躍如のシーンである。「まっさか結局一番大きな目で日本を見ているのはあなたなんですか」と言う栄一であった。片や今際の際の弥太郎は「渋沢はまだ根をあげんのか」と、弟の弥之助に三菱を、そして日本を託すのであった。

岩崎の訃報は、大隈や栄一のもとへ届く。さらに佐々木勇之助(長村航希)は栄一に「大阪の五代さんももう長くはないとの噂があります」と告げる。弥太郎が逝き、病に冒された五代が必死に説得すれば、もうこれは三菱も共同運輸も折れるしかなかった。こうして「三共大海戦」は手打ちとなった。日本郵船の誕生であり、事実上の三菱の勝利であった。栄一にとっては苦い結末であったが、引き際を作ってくれた五代に礼を言う栄一。五代は「青天白日。いささかも天地に恥じることはなか。じゃっどん見てみたかった。これからもっと商いで日本がかわっていくところを。この目で見てみたかった。渋沢君、日本を頼む」と言い残し、1885(明治18)年9月、あの世へ旅立った。享年49歳。

飛鳥山の渋沢邸。後妻の兼子が「離縁してください」と栄一に切り出す。「望まれて妻になりたいとは申しません。しかし、いくばくの情がなければ妻にはなれません」と。栄一は「許してくれ。俺はちっとも立派じゃねぇ。頼む。これからはもっと叱ってくれ。どうか力を貸してください」と兼子に頭を下げるのであった。栄一が真摯に兼子に向き合った瞬間であった。

廃止の危機にあった養育院の経営も兼子と協力し、バザーなどで寄附を集めることで何とか維持しようとする。栄一の脳裏には養育院に力を捧げた千代の顔が思い浮かぶのであった。

ラストのシークエンスは、内閣制度の発足(1885年12月22日)で伊藤博文が明治天皇(犬飼直紀)から初代首相に任じられるシーン。3年後、大日本帝国憲法発布(絹布の法被)。報じた新聞として映されていたのは『中外商業新報』(益田孝[安井順平]が創刊した『中外物価新報』が三井物産から独立してできた新聞。現在の『日本経済新聞』)。ナレーションでは「議会は出来たが、政治の主導権は伊藤たち元老(5)が握ることとになりました」と。そして、渋沢邸では大きくなった篤二(泉澤祐希)(6)が兼子の間にできた腹違いの弟たちを見つめていた。

注)
(1)「頭取、汽車の時間です」と佐々木勇之助(長村航希)が声を掛けているので新橋から乗車して京都方面に向かったものと考えられるが、直通ではまだ行けない。
(2) 昭武の二度目の留学は1876(明治9)年から1881(明治14)年までの5年間。フィラデルフィア万博へ派遣されたあと、フランスに留学した。帰国後は園芸にも力を入れ、「現在は千葉大学園芸学部の用地にあたる区画に西洋式庭園を築いて植物の栽培を手がけている。その庭は与謝野晶子が和歌に詠んだ「松戸の丘」である」
(3)最近は官僚がプレゼンで用いるパワポの図表なんかを「ポンチ絵」というようだが、元々はこうした明治初期の新聞に掲載された風刺画のこと。英語のPunchの転訛。
(4)有名な「清水次郎長」などの任侠モノ、三尺モノで人気を博したのが、三代目伯山。
(5)正式な制度にはないが、天皇を補弼した重臣たち。こちらの一覧を参照。
(6)NHKの朝ドラ『ひよっこ』では有村架純たちにいじられるキャラをコミカルに演じていました。

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