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『青天を衝け』第2回「栄一、踊る」(2021年2月21日放送 NHK BSP18:00-18:45 総合20:00-20:45)

第1回目の放送はなかなかの良い視聴率であったようだ。しかし、ここでは視聴率とかそういうことは抜きにして『青天を衝け』で渋沢栄一や栄一を取り巻く人びと、当時の人びとの生業などがどのように描かれたのかを追っていきたい。

NHKの番組サイトでの第2回目の予告文は以下の通り。

父・市郎右衛門(小林 薫)から藍の商いを、いとこ・新五郎(田辺誠一)から読書を習い始めた栄一(子役・小林優仁)。でも一番の楽しみは、村祭りで獅子舞を舞うことだ。しかし、大人の事情で祭りは中止に。がっかりした栄一だが、ある計画を思いつく。一方、一橋家の養子に入った七郎麻呂(子役・笠松基生)は、慶喜と名を改め、将軍・家慶(吉 幾三)から実子のようにかわいがられていた。隠居の身の斉昭(竹中直人)は、息子を頼みの綱に政界に返り咲こうとする。そんな中、ペリー(モーリー・ロバートソン)が日本にやってくることになり…。

栄一の本格的な「仕事始め」は第3回の『栄一、仕事はじめ』で描かれることになるが、第2回目も父・市郎右衛門に連れられて藍の葉の買い付けに出向く。「いいか、向こうが上州、あっちが信州だ」という市郎右衛門の言葉からもわかるように、渋沢の生まれ育った血洗島は、信州と上州の境にほど近く、とくに利根川の向こうはすぐ上州であり、交通の要衝であった(番組最後の紀行でも紹介されていた通り、深谷市には中瀬河岸場という利根川舟運の拠点の1つがあり、江戸への交通も便利であった)。渋沢「中の家」は、そうした国を跨いでの近郷の葉藍も仕入れてさまざまな藍玉の生産をおこなっていたものと思われる。市郎右衛門が葉藍を作っている農民に声を掛けて〆粕のことに言及するシーンもあったが、良い葉藍を作るには〆粕(大豆粕や魚肥)の投入が不可欠であったため、舟運による肥料の運搬も重要であった。

一方、藍玉製造は労働集約的な作業でもあり、播種から刈り取りまでにも非常に手がかかったことはドラマ内でも描かれていた通り(また刈り取った葉藍を藍玉にするまでも非常に重労働)。とくに今回はもっとも人手が必要な刈り取りの時期に代官からの人足提供を申しつけられて、すわ栄一たちが楽しみにしていた村祭りが挙行できなくなるか……という話であった。しかし、結局栄一たちは「五穀豊穣と疫病退散」のためという大人たちの建前を楯にして獅子舞を踊る。今回の見所シーンであろう。

しかし、個人的にその場面以上に印象的であったのは、夜になっても葉藍の刈り取り作業がおこなわれ、そこに灯火が点されていた場面。とても美しく描かれていて感動した。また後半に慶喜が家慶の前で能を舞うシーンがあり、そこでは能舞台を取り囲んで赤々と松明が点されていたが、それと好対照をなしていたのも見所であった。

ところで、血洗島での葉藍刈り取り作業中に点されていた灯火の燃料は何だったのだろうか? 菜種油かもしれないが、何となく鯨油を想像してしまった。ご存知の通り、江戸時代の日本では捕鯨がさかんにおこなわれており、その肉を食することはもちろん、油が非常に重用されていた。灯火用としても使用されたが、田んぼなどの防虫用に使用されてもいたので、農村で使われていた油として鯨油を想像するのである(違っていたらごめんなさい)。そして、鯨油といえばドラマの最後に登場したアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官マッシュー・C・ペリー(モーリー・ロバートソン)である。ペリーはフィルモア大統領の国書を携えて日本に来航するわけだが、そのなかにはアメリカの捕鯨船の日本近海での操業についても書かれていた(西川武臣『ペリー来航 日本・琉球をゆるがした412日間』中公新書、2016年、参照)。血洗島の灯火とペリー来航をつなげて想像を膨らませるとドラマも一層面白く観られるかもしれない。

さて、ドラマではほかに新五郎、つまり尾高惇忠(田辺誠一)の私塾の様子が描かれていた。惇忠は文政13(1830)年生まれで、栄一の10歳年上の従兄弟。ドラマでは栄一に「あにぃ」と呼ばれていたが、実兄ではない。のちに栄一の最初の妻となる千代(橋本愛)のお兄さんである。同じく惇忠の弟で千代の兄の尾高長七郎(満島真之介)も栄一の今後の人生に大きく関わってくる。さらにその弟の平九郎(子役・髙木波瑠、岡田健史)ものちに栄一の見立て養子になるという重要人物(ご存知の方も多いだろうから書いてしまうが、幕末のイケメン剣士として有名)。今回の放送で尾高家の人びとも一応勢揃いといったところか。これら尾高家の兄弟妹のなかで一番長生きするのが一番上のお兄さんであった惇忠。長男で家から出られなかった惇忠と比較的自由に活動できた長七郎、平九郎。これが、幕末動乱期の兄弟の命運を分けた。ちなみに惇忠の号は「藍香」。藍製造の家業に相応しい号であろう。

補足(2021.2.23):栄一や喜作、長七郎たちが剣術の稽古に励んでいた尾高塾の道場には「心即理」の軸が掛かっていたが、尾高惇忠の思想が陽明学(「知行合一」のあれです)に基づいていたことがわかる。のちに富岡製糸場の工場長となる惇忠は工場に「至誠如神」の額を掲げていたとのこと。しかし、栄一自身が陽明学にどれほど影響を受けたかは不明。

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