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笑えるあなたになるということ。 #最終号あとがき

嬉し泣きは存在するのか

今朝布団にくるまりながら、ぼくは「嬉し泣きは存在するのか」という昔からの疑問を、まだ朦朧とした意識なのか夢なのかが混濁した頭の中で考えていた。

はっきり言うと、ぼくは20代後半を迎えた頃あたりから、「嬉し泣き」の存在を信じていない。
「もう神を信じていない。」みたいに言うなと言われるかもしれないが、神を信じなくなった人が希望を感じているのか絶望を感じているのかは、本人ではなく「あなたの主観だろう」と脳が反射的に答えてしまうくらいだから、嬉し泣きを信じてないというひねくれた無信仰も、ぼくにとっては通常運転だと理解してもらいたい。

信じていない理由はそれなりにあって、まず第一にぼくは「嬉し泣き」をしたことがない。正確には、当時嬉しくて泣いたと思っていたものは、後からよくよく考えてみると、嬉し泣きではなかったのだと気づいた。
まだ蒼かった頃のぼく涙の成分をある時何気なくみてみたら、カニカマの成分表に”蟹”が記述されていないのと同じ様に、「嬉しさ」が記述されてはいなかった。それだけのことだ。

嬉し泣きの成分表

では成分表の内訳はなんだったか。例えば高校3年生のときにテニスの県大会でインターハイ出場を決めた試合のあと、ぼくは泣いた様な気がする。側から見たら、というか当時の本人だって、それは感極まって嬉し泣きしたに決まってる、と考えるのが普通だ。

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