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「八十八夜」に狭山茶の歴史を少し

今日5月1日は「八十八夜」です。

夏も近づく八十八夜♪ 茶摘み (歌詞つき) 文部省唱歌 尋常小学 第3学年 (youtube.com)

狭山茶の主産地である埼玉県入間市の「入間市博物館ALIT」のHPから歴史の最初の部分を引用します。

鎌倉・南北朝・室町時代-河越茶と慈光茶-
埼玉県では、いつから茶の栽培・製茶が始まったのでしょうか。
埼玉県内で生産された茶で、中世にまでさかのぼることが史料で確認できる茶として、「河越茶(かわごえちゃ)」・「慈光茶(じこうちゃ)」・「赤岩茶(あかいわちゃ)」があります。このうち「赤岩茶」は、埼玉県東部の松伏町・吉川市周辺で生産された茶で、現在は埼玉県域に含まれますが、中世には下総国下河辺庄(しもうさのくにしもこうべのしょう)に属し、現在の茨城県西部で主に生産される「猿島茶(さしまちゃ)」にゆかりの茶です。
埼玉県西部で主に生産される「狭山茶」の起源とされる茶は、「河越茶」(川越市とその周辺)と「慈光茶」(ときがわ町)です。
いずれも、中世に大きな勢力をもった天台宗の大寺院があった場所です。天台宗では、平安時代より儀式のお供え物として茶が使用されていたので、本山である比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)から茶の供給を受けていた可能性があります。鎌倉時代に抹茶の飲み方(点茶法)が広まり、茶の消費量が増えると、本山からの供給だけでは足りなくなり、地方の寺院でも茶を自給するための栽培・製茶が始まったと考えられます。しかし、その後の戦乱によって有力寺院が衰退すると、これらの茶産地も荒廃したと考えられ、河越茶・慈光茶の銘柄は姿を消します。
<以下略>
注:このページの内容は、「日本への伝来」とあわせてご覧ください。
狭山茶の歴史|入間市博物館 アリット (city.iruma.saitama.jp)

本日のnoteでお伝えしたいことは、上記の「狭山茶の起源は河越(川越」茶」は正しくないということです。

確かに室町時代以降、庶民の喫茶のための製茶と流通に関しては上記の説明も間違っていません。しかしながらその意味は「業界史」としてのものであり、狭山茶や喫茶全体の歴史とは違います。

入間市博物館ホームページが示す狭山茶の歴史はこういうことです。
◇茶祖栄西禅師が鎌倉時代初期に茶を仕入れた。


(それから約150年後)
◇南北朝時代の書物に河越茶が登場する ※異制庭訓往来(いせいていきんおうらい) 


(それから約450年後)

◇戦乱によって荒廃した茶産地を吉川氏などが努力して復興した。

戦乱とはどのような意味を持つのでしょうか。私には理解できません。以後に示す引用文をお読みいただければお茶は天台宗ではなく臨済宗と曹洞宗、つまり禅宗との関係が強いことが分かります。

禅と茶
 禅と茶と。それは今日の日本にとって、いかにも日本的な名であるが、これを歴史的にみると、それはすぐれて中世的なものであり、中世日本の象徴であるというも過言でなく、中世の歴史は、禅と茶を外にしては語りえないのである。
<中略>
(禅の)勢いの及ぶ所、日本の文化の禅宗化の風を馴致し、思想・芸術ないしは政治・外交・経済より、日常の行儀・風俗から飲食・言語に至るまで、禅を離れてほとんど存じ得ず、考えざるに至った。

禅と日常生活
武人においてとくに死と結びついた禅は、また日常生活におけるよき指導者ともなった。豆腐と納豆と饅頭と梅干しと茶と。禅宗の食事・点心(てんじん)・飲料はやがて禅寺から溢れ出て民衆のものともなった。同時に禅宗の生活の規則 ―清規(しんぎ)― も世間の作法のもととなり、なかんずく。喫茶の作法となる。茶は心身を養い爽かにする飲料であるとともに、人間交流の仕方を規制するよりどころともなった。禅宗の生活の、かかる世間への拡大は、特に茶を通じて実現されたものであり、禅道を中心とした禅宗の茶禅一味はここに茶を中心とし、禅を背景とする世間の茶禅一味となる。
<引用終了>
『中世の歴史と「禅」と「茶」 栄西』 多賀宗隼著 吉川弘文館

茶の歴史、特に鎌倉時代の狭山茶の歴史はよく分かっていません。来年の「八十八夜」までには本当の狭山茶の歴史を何らかの形で著わしたいと思います。

味の狭山茶物語 (youtube.com) 27分


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