25歳の誕生日、ならびに心が折れてしまった日から1周年を控えて

1年前の今頃は、もうギリギリどうにか精神がもってるくらいの状態で、いまのわたしが声をかけてあげられるならば、「もう頑張らなくていいよ」とか、「もう少しで行かなくてよくなるからね」とかだったりするのだろうか、とかいうことをぼんやりと考えている。

一睡もできなくて、このまま消えてしまおうかと思ったあの夜を、わたしは1年近くたった今でも忘れないし、そのうちに外が明るくなって、起き上がれないまま職場に電話をかけたあの朝の罪悪感もわたしは忘れない。

いまでも、投げかけられた数々のひどい言葉たちを時々思い出しては自信を失ってしまうし、あの日に書いたnoteは、あの日から一度も読み返すことができない。

それでも1年経って、「自分の悪いところリスト」を必死に書き連ねていた行為は間違っていたと断言できるし、「社会人に本当の人柄なんて全く関係なくて、馬鹿そうに振る舞ってる人のほうが可愛がられる」なんて悟りも間違っていたと断言できる。

わたしはこの1年間、わたし自身の人柄によって、初めて関わる人達と上手いことやっていけたと胸を張って言える。出会いと別れを繰り返し、「また戻っておいでね」と言ってもらえる場所を作ることができた。なんて尊いことだろう

そして、誰にでも他には言えない傷がどこかしらにあるのだろうと推し量ることができるようになったと思う。振る舞いはまだ未熟だが、周りの人を大切に思う心を忘れないでいたい。わたしはきちんと”精査”できる人間であり、自分が心地よいと思える環境は自分で作り上げることができる人間であると胸を張っていたい。

頑張りすぎなくても死ぬ事はないし、社会から見放されることもない。社会から見放されたと感じるのはあくまで個人の主観であり、自分が見放されてない、と思えるギリギリのレベルでこれからも頑張って行きたい。

誕生日を迎えることや、25歳になることについての焦りや喪失感は今のところまだない。心の傷が完全に癒えるのはまだまだ先になりそうだが、自分の精神状態は自分でコントロールできるように、やりたいことをやり、欲しいものを手に入れ、新しい事を学び、知らない場所を旅し、美しいものを見て、美味しいものを食べて、日々ぼちぼち生きていこうと思う。

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