見出し画像

まとめ 2022

■2023.01.22.更新
このnoteを始めて来月で丸一年になります。
今年一年いろんな変化や気づきがありました。あちこちで分散してしまっていることをしっかりまとめてみたくなったので、一年の総括として書き出してみます。
これを書いていた時点ですでに何度も公開しては一旦取りやめてを繰り返していてだんだんゴールが見えなくなってきています。また見返したときに公開をやめているかもしれないけれど、いろいろ試しながら進めてみます。

自分の思考整理やストレスの発散に手書き日記・SNS・ブログなどを活用してきましたが、基本的にクローズした場所で発散してきたので、今年一年はこういうオープンな場所で継続することが出来たことにとても満足感があります。

私の中にはうっすらと「言霊」があるという少しスピリチュアル?な思考があります。なので、私は家族や友達にあまり愚痴(負の言葉)を言葉として吐き出すということは控えたいという思いが強いです。反面、他人からの愚痴もあまり得意ではなく、聞き流せなかったりつっかかってしまったり、後から何か考え始めてしまうので、できればその機会は減らしたいと意識しています。
とかなんとか他人からの愚痴は聞きたくない・自分からは話したくないといえど、自分の中にある自分勝手な不満や歪んだ感情、妬み・嫉みは常にあります。むしろ多いほうだと思いますし、攻撃的な時も多いです。
そういう自分の感情や思考を整理・発散・処理する方法として「文字として書く」か「文章として視覚化する」になっています。

今も瞬間的に思ったことを吐き出したいときや、どこかで誰かの目に触れてる可能性がない、自分以外へ迷惑をかけないよう思ったことをそのまま吐き出せるクローズな場所を利用します。ペンをもって殴り書きをしたいときもあれば、パッと打ち込んでそのあと消すときもあります。これはきっと「キーボードを叩く」とか「アプリを操作する」等、何かの作業に集中することで欲求が満たされていくのか、手先を動かすことで興奮気味の脳が落ち着いていくのか、視覚から入ってくる打ち込まれた単語の暴力性や品のなさに自分で引いてしまうのかわからないのですが、この行動をとっているうちに落ち着いていく実感はあります。

元々は「絵を描くこと」で「手を動かす」「集中して意識がそれる」という行動で発散できていたという理屈なのかもしれない、と書いていて思いました。昔はもっとシンプルに満足できて寝る間も惜しんで時間を忘れるくらい集中できた。進路を考えるときに、一度挫折というか道の先が見えなくなったことで創作から離れた時期もあったけれど、何度か道を選ぶタイミングで「何かをつくる」ことからは離れずに、最終的にはいつもここに帰ってきている。絵を描くこと・考えたことを打ち込むことは、私の中に生まれたプラスの感情もマイナスの感情も、とにかく吐き出したい・整理したいという欲求を満足させる方法なんだろうと思います。

子どものころは今よりもっとわがままで自己中心的で、きょうだいでケンカしたり、両親や祖父母に八つ当たりをしては不満を発散させていて、ひどいものだったと思います。傷つけた家族が今もずっと根に持っていたとしても不思議ではないことばかりしてきた気がします。思春期以降これはよくないから何か方法をとらねばと考えたタイミングに、パソコンとインターネットが身近にあったことでこれを活用しようと思ったことが今に至るはじまりだったのかもしれません。書いていて思ったことです。

今年初めて大きく自分で変化させたことは「個人的な思考をオープンにしている」ことです。これは本当に自己満足なだけですが「オープンにすることで、誰かがこの文章を読んだとき・何か意見をもらったときにきちんと反応できる意識を持って考える・文章を構成することで何か変化が生まれるかもしれない」と思ったことが始まりでした。
自分の中に生まれた感情を抑え込んだり歪ませることを一旦やめて、きちんと発する。発した責任を持つことで逃げ道をつくらず、言葉の重みを持つ。そうすることで自分の意識を変えたいと思いました。

「自分の変化と影響を受けたこと」について振り返ってみると、自分が惹かれるひと(推し)について考えたとき、一番強く思うのは「自分にないものを持っている才能への憧れ」と「こんな風になりたい尊敬」が中心にあります。
思い返すといつも共通していて、何かが憑依したかのような強い表現をする姿・ストイックな生き方・聡明な言葉・負けず嫌い・自己理解が出来ている…というところが共通している気がします。神経質だったり、論理的な思考で理屈っぽくても、そういう物事の考え方をするところもとても好きです。「何かを表現する」という部分に純粋に惹かれるし、私にはない思考を持っているひとのことをもっともっと知りたくなる。

大学生時代、彼の発する言葉・表現・生き方・考え方に夢中になった推しさんがいます。引っ込み思案な自分を変えたかった時期に惹かれ、「話術」や「笑い」に関することは彼からすべて教えてもらったかもしれないというくらい、笑いの世界は広く深く、見たことのない世界へ連れて行ってくれました。大学で出会った人々や環境は、今の私の思考や美学に強く大きく影響されてきましたが、彼だけは特別で、彼の存在・彼の影響がなければ今の私はいないというくらいです。

「もっと強い意志を持った自分になりたい」と願った先にいた推しさんがいます。もうすべてあきらめたくなったその日の夜、彼を見てそのまま虜になりました。彼が活躍を見るたびに、感動して、涙が流れて、胸が高鳴って、言葉のひとつひとつを宝物のように大切していました。日々がどんなにつらくても、どんな逆境にも真摯に向き合い自分と闘う彼の姿、完璧を求める彼が大好きで、彼を人生の指標に、彼を心の支えにして日々を生きてきました。何かの目標に向かい、ストイックに生きるひとは常に美しく魅力的です。

推しではないのですが、影響を受けて救われた体験の中に「数年前勤めていた職場」があります。その時期は特に私生活が荒れていて、思考は歪んでいくもののどうしていいかもわからなくなり、とりあえず闇雲に日々をこなすような日々が続き、完全に冷静な判断が出来なくなっていたころでした。とりあえず決めた就職先で、もう自分に全然合わないから早々に辞めたい…と思っていたのですが、勤め先にいた上司や同僚に支えられました。体育会系そのもの!という雰囲気で、業務内容も毎日苦痛で仕方なかったのですが、普段身近にあまりいないタイプの人(むしろ苦手で避けていたタイプ)が多くいたので、話しているうちに想像もしなかった答えが返ってきたり、絶対自分が選択しない行動をとっていたり、自分の中にいままでなかった選択肢をいくつも見て、「こういう判断や行動もありなんだな」と思えることが増えました。しんどいことも一番多かった時期ではありますが、今思い返すとこの経験があったことで考え方や行動を変化させることが出来たのかも、と思いました。

そしていまの推しさん。数年前、彼の魅力に惹かれて以来、今日も楽しく彼を推しています。彼の表現や言葉・文章を見て聞いて、考えるたびに、これまで作り上げてきた自分の思考や行動にの余剰なものが明確になり、絡まっていたものがほどけるような、ぼんやりとして見えなかった視界がはっきり冴えていくような、澄んでいくような、そんな感覚が生まれます。今までは「増やす・広げる」ということに影響を受けてきましたが、彼をみて感じる中で思考の断捨離が出来ている気がします。これは無理しているな、とか苦手なことは認めて他人に任せよう、とか改めてそういったことを自覚し発言・行動できるようになりました。今まで激しい「動」の魅力をエネルギーと活力にして生きてきたことの折り返しのように冷静な「静」の魅力に心が震えている、という感覚です。特に今の推しさんは人柄や思考、持っている知識にも惹かれますが、その佇まいや笑った顔や楽しそうな雰囲気がとてもとても好きで、ひとりの異性として惹かれているという部分が大きく、これが今までの推し方と異なっています。彼の演技やひとつひとつの表現に胸打たれつつ、かわいさ癒されパワーがすごい。そしてとても美しい。かっこよくておもしろい。好きです、大好きです。といった感じでどんどん夢中になってしまうのです。

家族以外で私が大きく影響を受けたひと・心を奪われ応援したひとについて、こうして思い返すうちにだんだん過去や自分に酔ってきて文章や思考が大袈裟になっていきますが、どれもこれも私の勝手な妄想と空想です。相手が見せているその一部分から、拡大解釈していたりして頓珍漢なこともたくさん書いているんだろうと思います。知らないところで迷惑をかけているかもしれません。

今の推しさんに関しては、澄んでいくような感情が…と言っておきながら、強く激しい同担拒否の感情を自覚してしまったことで、別の部分では相変わらずうまく対処できていなかったりします。

でもそれも素直にその真っ黒な感情を認めてみたり、やっぱり思い直してみたり、もうどうしようもないときは薬に頼ることも良しとしています。
ここ数年か近況の心身と環境の変化からか、動悸や感情のコントロールがうまくできないことがあって、自力でなんとかしようと思っていたけどうまくいかない。なので、専門家の力を頼ることにしました。
「努力で何とかなる!ということをやめて、自分だけで解決できないこともある」という思考にたどり着けたのは、今の推しさんの影響が大きいです。

このnoteやその他書き出してきたものを眺めると、その時期ごとの躁状態・ハイな状態の内訳に納得がいきます。この時ひどい散財したのは仕事の影響だったとか、この時長文書きまくってるなという時期は精神が不安定な時だったなとか、残していたことで自分で読み返すときにも役立っています。

昔は自分で描いた絵や書きなぐった日記、文章を読み返すことなく捨ててきました。いらない感情なので見返す必要もないし、今思うと向き合いたくなかったんだと思います。でも今は、その吐き出されたものを整理整頓することで、自分にとって不要・必要なものは何か区別や調節が少しずつ出来るようになってきて、0か100かみたいな考え方も、変化してきたように感じています。

こうしてほぼ排泄かのような吐き出しをすることで私の心は救われていきますが、身近な人に吐き出すことをためらいながら不特定多数に向けて公開することも、一種の暴力なのかもと思う時もあります。創作や感想等も同じで、匿名だろうと仮名だろうと、こうして表に出したことで自分で配慮していても誰かを傷つける可能性は0ではなくなる。さらに「誰かに読んでもらいたい」とか「意見が欲しい」という欲求はなくて、「自分の思ったことを整理していく」ということだけを目的としているので、だんだんまたこの行動の意味について立ち止まるときもあります。こうしてネットに吐き出すことで、「言葉として他人へ伝える」という能力は衰えている気もします。確かに「特定の誰かに話す」というエネルギーがなく、家族や友達にぶつける勇気もなく、相手の時間を奪うこともしたくないし、そもそも議論に発展させたくないという気持ちもあって、こういう手段をとっています。もっと何か別の方法もあるのかもしれません。これも書いていて気が付きました。運動とか、それこともっと創作に集中するとか。これを書き終えて、進めていきたいと思います。

これを書くに至った経緯として、もう何度も振り返っているけど今日も推しくんのことが好きだなと思ったことと、最近美術館へ行ったことから、少しずつ思考をまとめていきたいと思うようになりました。
私は「その人の思考から生まれた表現を見て考えること・情熱を感じること」が好きで、心が震える瞬間・刺激を求めていて、もっと出会って、楽しく感じていきたいなと改めて思いました。それは漫画・アニメ、サブカルチャーから映画・舞台・芸術そのもの・スポーツ…あらゆる世界に感動したい。楽しいことにもっと触れて生きていきたい。

転職を決めて、いざ挑んでみたら壁は想像以上に高く、自分の驕りを自覚して、すこし落ち込んでいました。ちょっと気が大きくなっていただけで、もう諦めようかなと思っていたのですが、こうして思い返すたびに帰ってくる場所に気づくと、あーだこーだ言いながら生きてきた半分以上ずっと関連することを続けているし、今この自分を振り返ったタイミングで、これに立ち向かわずに逃げてはいけないと感じるし、やれることだけやってみる。それからもうひとつ考えている道を選んでみる。まだ先は長いし、今の判断が後から間違っていたとしてもいいし、後悔しないように、もっと自分が好きになれるように。

こうして書き出した量を見てみると、落ち込みからすこし上がってきた感じがあるので、自分で自分を励ましながら、2022年あと残り少し、少しずつでも動いていきます。

2022年、総括でした。