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懐かしい人が教えてくれること

数年前、中学の同級生に声をかけてもらって、10名ほどの小規模な同窓会に参加したことをたまに
思い出す。

通っていたのは女子校で、割と裕福な家庭の出身の同級生が多かった。私は日本でいわゆる中流階級的な育ちなので、割と浮いていた方かと思う。それでも当時はともだちだと思って接してくれた人たちもいて、懐かしさもあり、ドキドキして参加した。

別な話になるが、これは私がまさに30歳になる手前の話で、当時私は心身ともに疲れ果てていた。理由は激務、結婚をしておらず、彼氏もいなくて、過去のトラウマやら未来への不安やらで毎日心が震えていた。今考えると本当に病みきっていた。

そんな中参加した同窓会で私は、自分が周りと同調していないことにすぐ気づいた。自分もネガティブな思考になりきっている時期だったこともあり、一見仕事も家庭も充実している彼女たちに囲まれていると、違いが明らかだった。

今思えば、彼女たちは本当にいい人たちで、ただただ懐かしい話や今起こっている素敵な話を共有したかっただけだったのだと思う。そして、彼女たちも自分なりに苦労や努力をして今を過ごしていることも理解していたし、幸せそうに見えて本当はどうだったのかはわからない。重要なのは彼女たちの話を受け取る側の問題で、誰も悪くなかった。

2、3時間ほどお話しして、LINEの連絡先もみんな共有してまた会おうという決まり文句でその場は終わった。

その後、この話を他の同級生にすると、会に参加したある人と懐かしい話がしたいとのことだったので、連絡先を繋ごうと思って連絡をした。

結果、返信は来なかった。5年ほど経った今も音沙汰がない。そして、それ以外のメンバーとも一切やり取りがない。あの同窓会が彼女たちに会う最後の方法だったように思える。(人生何が起こるかわからないので今後はどうかわからないけれど…)

私はこの小さなことで学んだことがある。それは、自分がいかにその時つまらない人間になりつつあったかということ。連絡が途絶えてしまった本当の理由はわからない。でも知る由もなく、事実としては、彼女たちにとって私は連絡する価値に値しないと判断されたということだと思う。私はすっかり疲弊していて、せっかくあった懐かしい人たちを前に、自分の不幸話しかできなかったのだと思う。誰だってそんな人とはもう関係したくないと思うよなぁと、悲しく反省したのを覚えている。

もう一つは、今度私が誰かと会うことになったら、この寂しさを生まないように、人と接したいなということ。繰り返しになるけれど、彼女たちは何も悪くない。誰も悪くなくても、いろんな事情が交差して、小さな悲しみや後悔が生まれることがあると言うことを学んだのだ。問題は同じことがもう一度あった時にどうするかだと思う。

私は、この人生でなるべく優しくありたいのだなぁと常々思う。自分なりの優しさ。大きな器。広い海のような心。一人の平凡な人間が一回の人生で達成できることはそんなに多くない気がする。限られている機会のなかで、どれくらい自分の良心を信じられるかに、人生の深さが関係している。

こんなことを教えてくれた彼女たちの存在と、この出来事を引き起こすきっかけとなった懐かしい学生時代の日々に、感謝。今日も優しくいきましょう。

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