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お母さんの手

「手、きれいだね。ふわふわしてる」
ある日、大学の友人が私の手を握ってそう言った。私は「ありがとう」と返し、照れくささと落ち着かなさが入り混じったような笑みを浮かべた。

昔から、よく手のことを褒められた。我ながら人並みよりやや大きい手と細長い指は気に入っていたし、褒められると素直に嬉しかった。それなのに、この日は心のどこかに何か引っかかるものを感じた。

ふと、この前ラジオで聴いたお話を思い出した。

昔話や逸話を紹介してくれる中国語のラジオで、語学の勉強がてらよく聴いていた。とりわけ印象に残っているのが、「给母亲洗手的年亲人(母親の手を洗ってあげた若者)」というお話だった。
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昔々、成績が非常に優秀な若者がいた。若者は大企業の経理部を志望し、難なく最終面接に進んだ。面接当日、若者の経歴に目を通した面接官は、彼の成績が幼い頃から常に優秀なことを知った。

そこで面接官は、若者に尋ねた。

「奨学金をもらったことはありますか?」

若者は答えた。

「いいえ、ありません」

おそらく彼の家庭は十分に学費をまかなえるのだろう。面接官は続けて聞いた。

「学費を払われているのは、お父様ですか?」

若者:「父は私が1歳の時に亡くなったので、母が払っています」

面接官:「お母様は、どちらにお勤めで?」

若者:「母は、洗濯屋なんです」

面接官は少し考えて、若者にこう尋ねた。

「手を見せてもらってもいいかな?」

たこ一つない若者の手を見た面接官は、こう尋ねた。

「お母様の洗濯をお手伝いしてみたことはありますか?」

「いいえ、一度も。母は私に、勉強に専念してほしいと。あと洗濯は母の方が速いので」

面接官は最後にこう告げた。
「今日はもうお帰りなさい。それと、帰ったらお母様の手を洗ってあげて。明日またここに来てちょうだい」

若者は合格を確信し、嬉々として家路についた。そして帰宅するなり、母親にこう伝えた。

「今日は僕がお母さんの手を洗うよ!」

母親は息子の思わぬ言葉に目を丸くしたが、言われるがままに手を差し出した。

若者は、いつになく母親の手をきれいに洗おうと張り切った。だが気づけば、彼の両目からは次々と涙が流れ落ちていた。

生まれて初めて、若者は気がついた。握りしめた母親の手―水に濡れ痛みに震えるあかぎれだらけの手―は、彼の学費を稼ぐために払われた代償だったのだ。

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「あなたの手は、本当にきれいでよかった」

そうだ。いつも私の手を一番褒めてくれたのは、お母さんだった。

でも私は、お母さんの手を―それが象徴する無数の苦労を―どれだけ慰め、労い、そして感謝してきたのだろうか。

一人娘であることに甘んじて、お母さんという存在をいつしか当然のものとしていた自分が、心から恥ずかしかった。思わず顔を覆った私の手は、皮肉にも「きれい」だった。

私が自分に授けられたきれいな手を誇らしく思っていた一方で、お母さんは自分の手をいたわる暇もなく、どんなときも家族のために尽くしてくれた。

そんなお母さんの苦労がなければ、「きれいな手」を持ついまの私などあり得ないのだ。

だから今日は―いや、今日からは―いつもより何千倍も何億倍も、お母さんのことをいたわろう。今まではお母さんに任せてしまっていた手洗いの洗濯も、これからは私がやろう。

お母さん、私を産んでくれて、この手で大事に育ててくれて、ありがとう。

今日もお母さんがそばにいてくれるありがたさを噛みしめながら、
世界で一番、きれいなお母さんの手を握った。

~おわり~
※昔話は筆者自身が翻訳し、内容を一部省略しています。

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