見出し画像

<孤独>に抗する消費者①

 どうも小池です。今回は現代日本社会を覆う<孤独>について語ろうと思います。実は、大学院に2年間通っていた僕は、<孤独>について研究していました。まあ昨今、ホットな話題でもありますし、さして珍しい研究対象ではありません。しかしあくまで”研究”である以上、独自の視点が必要となります。そこで僕が注目したのは「消費社会の孤独」です。今回は簡単に「日本社会における<孤独の現状>」について説明します.

日本社会における<孤独>の現状

 近年の日本における<孤独>をめぐる議論や問題について簡単にまとめます。2021年に内閣府に孤独・孤立対策担当大臣が新設されたことは記憶に新しいです。これは2018年にイギリス政府が設置したMinister of Loneliness(孤独担当大臣)の後を追う形で新設されたものです。イギリスのメイ首相(当時)が「孤独はわれわれの時代の最も大きな公衆衛生上の課題の一つである」と述べたように、日本政府も<孤独>がわたしたちの健康にもたらす悪影響を懸念しています。たしかに、J. T. カシオポとW・パトリック(2008=2010)によれば、孤独感は、自己調節能力の低下やストレスに対する生理的反応、睡眠の質の低下など複数の要因が絡み合う「過酷な摩耗のプロセス」(Cacioppo and Patrick 2008=2010: 162)を通じて健康に悪影響をもたらすという研究結果があります。こうした背景のもとで、国をあげた<孤独>対策が目指されている、というのが現状です。

 しかし、そもそも<孤独>って何を指しているのかよくわからなくないですか。内閣府・孤独・孤立対策推進会議において策定された『孤独・孤立対策の重点計画』(以下『重点計画』と表記)では次のように言われています。

一般に、「孤独」は主観的概念であり、ひとりぼっちと感じる精神的な状態を指し、寂しいことという感情を含めて用いられることがある 。他方、「孤立」は客観的概念であり、社会とのつながりや助けのない又は少ない状態を指す。

『孤独・孤立対策の重点計画』(孤独・孤立対策推進会議 2021)

 つまり、一般論として、<孤独>は主観的感情、<孤立>は客観的状態ということですね。これは何となくわかりますね。寂しいという感情と、ハタから見て「あの人ぼっちじゃん」という感じですね。しかしそう簡単にあの人は孤独、あの人は孤立している、と判別のつくものではありません。好んでひとり行動をしている人もいるし、大勢に囲まれているのに寂しさを感じる人もいるからです。その上で『重点計画』では行政の介入対象を「望まない孤独」と「孤立」に限定する、としています。自ら望んだ孤独(孤立)には余計なお世話をしませんよ、というスタンスですね。

 しかし、この「自ら望んだ孤独(孤立)」とは何でしょうか。ちなみにそれを英語では「solitude」というらしいです。哲学者の國分功一郎は、哲学者ハンナ・アレントの「loneliness」と「solitude」の区別を念頭に置いた上で、次のように言います。

いまは「仲間」とか「つながり」ばかりが強調されている時代で、孤独の重要性は本当に忘れられてしまっている。

『言語が消滅する前に』(國分・千葉 2021:94)

  実は文化人・知識人って<孤独>が好きなんです。隙あらばわたしたちに<孤独>を勧めてきます。他にもたとえば、エッセイスト下重暁子(2018)『極上の孤独』、作家の五木寛之(2017)『孤独のすすめ』、哲学者の岸見一郎(2022)『孤独の哲学』などなど……。僕はこのような<孤独>を勧める議論を「孤独推奨言説」と呼んでいます(※「孤立推奨言説」(石田光規 2018)と同じ意味ですが、今回は「孤独」という言葉に力点を置くためにこの呼称にしました)。

 さて、ここまで見てきたように、現代の日本社会では、<孤独>を解決すべき問題として国をあげた対策が目指される一方で、<孤独>を勧める議論が文化人・知識人を中心に唱えられています。便宜的に、前者を「孤独問題言説」、後者を「孤独推奨言説」とすることにします。
 

  このような<孤独>をめぐる相反する状況をどう見るか、ということについて<消費社会>という視点から整理したのが僕の大学院での研究でした。次回は、消費社会と孤独の関係について説明します。(第2回に続く)
(小池)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?