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Knebworth 1996 oasis


1994年の4月僕は東京に出てきました。
その時品川の港南口にあった公団の一室を会社が借り上げていて、僕はそこに住んでいたのですが、当時の品川って死ぬほどつまらない街だったわけです。しかも港南口にいたってはオフィスビルとそこに働く人向けの居酒屋がごちゃごちゃとあるだけで、高輪口に行くにも駅を通るのに入場料がいるし、まぁ高輪口に行ったところで、あるのは井村屋アンナミラーズだけだったし、入場料120円払って高輪口に出るくらいなら、そのまま山手線に乗って、渋谷か新宿に出るというのが休日の過ごし方でした。
(月に1度は大阪の自宅に戻っていましたが)
今回は1990年〜1995年位、90年代後半の渋谷でウロウロしてた頃の話からはじまります。

■90年代中頃の渋谷

当時の渋谷には大きなCDショップがあり、クラブなんかも多くあったのでDJはじめ音楽ディガー向けのアナログレコード店もあって、世界中の音楽が集まる場所でした。本当に手に入らない音源は無いと思えるほどでした。何年も探していた Ronnie Rows の"Plesure Sensitive"を渋谷のタワレコで見つけた時、本当に「東京最高!」と叫んだし、海外の音楽雑誌でSPINとかKerrang!とか見た時も「おお、これがあの」みたいな感動があり、ほとんど内容がわからずとも購入したりしていました。特に憶えているのは、1994年の秋ごろの渋谷Waveでのことです。当時、渋谷の公園通りにあったWaveのレコメンドが良くて、ポップに書かれてあるコメント文を読んでは試聴するのが結構面白かったんです。情報収集はWaveでやって品揃えのタワレコで購入するって感じでした。その日も物色していると、こんなポップがありました「カート・コバーン亡き後、UKインディーからロックの救世主が現れる!自らロックンロールスターを名乗るメンタリティーと耳に残るメロディーが新しい時代の幕開けを感じさせる」と言うようなレコメンド文に輸入盤のCDが平積みされており、そこに合わせて限定特典としてバンドのロゴが胸にプリントされた黒いTシャツ付きのものが数点置かれていたのです。プリントには『oasis』とありました。当時、カート・コバーン死後、ニルバーナ以降のロックはどうなる?的なメディアの煽りがすごくて、ちょっと出のてきたバンドやアーティストの宣伝コピーに使われていたと思います。それも多分2年ぐらいは頻繁に見かけたと思うんですが、大半は頭に『?』が浮かぶものばかりでした。そもそもニルバーナの音やスタイルの文脈からしたら、パンクやオルタナ、ドゥーミーなメタルにまで適用できる言葉なので、カード死後、ニルバーナ以降と言うのはキャッチーなワードとして使い勝手がよかったんだと思います。ちょっと安易じゃないか、とは当時から思っていたのですが、試聴器にかけた oasis の"Definitry Meybe?"もまさにそんな感じでした。確かに、キャッチーなメロディーや曲が多く耳には残りそうでしたが、激しく縦に刻むビートが皆無で音も良くなく、インディーズそのものと言う感じでしたし、とにかく安っぽい音だなぁというのが印象でした。ただ全英一位と言うフレコミとTシャツ付きというのが妙に引っかかって、その限定特典付を手に取って「試しに買ってみるか」と思ったその時です。「ヒロセくんじゃない?」と声がするので、横を見てみると、転職する前の会社で働いていた知り合いの女子が立っていました。前職では先輩にあたるのですが年齢は1つ2歳で、東京の本社でプレス広報を担当している元モデルの方だったんです。彼女は僕が転職して東京に来ていることを知らなかったようで、驚いていましたが、それ以上に超絶に可愛い女子に渋谷で声をかけられた僕のほうの動揺が激しかったと思います。僕は今は別のブランドで働いていて、東京に呼ばれて本社内勤勤めで、社宅に住んでいて、みたいな話をすると、彼女の方も僕の働いてるブランドの服をよく買ってくれていて、店舗のスタッフとは顔なじみで、みたいにそこそこ会話が盛り上がりました。普通であればちょっとお茶でもと言う流れのところだったと思うのですが、まぁ言うてもまだ東京に出てきたばかりの頃で気持ちも全く余裕がなかったのか、立ち話のみで「じゃあね」と彼女は渋谷の街に消えていったのです。僕は気がついたら、スペイン坂のところにあったアンナミラーズで1人でポワ〜ンとコーヒーを飲んでいました。戦利品は何もありませんでした。すっかり oasis のこともTシャツのことも忘れてしまっていたのです。

■oasis

そして、次に oasis を意識したのはセカンドアルバムの "(What's the Story) Morning Glory?" が出た時です。
まさに渋谷系という言葉自体が存在するように、この頃はポップミュージックが世の中のムーブメントを作ったり消したりする影響力を持っていたように思います。英国でもブリット・ポップなんていうムーブメントがあり、ビートルズ、ストーンズを潮流として現代的なアレンジを加えた良質なポップ・ミュージック、ロック・ミュージックが次々に生みだされていたと感じます。
その波に乗った oasis のような気鋭のバンドも短いスパンで曲をリリースしていくのと合わせて、いかにもロック・ミュージシャン的な他のミュージシャンへの口擊や内輪揉め、しかも兄弟で大喧嘩、ワイルドでスキャンダラスな話題を振り撒きながら、一気にビッグイシューを生む存在にまでなっていました。最初はなんとなくゴシップ的に面白がっていたのですが、Morning Gloryを聞いてほんとにひっくり返りました。
ただのゴシップネタ提供バンドじゃないじゃん!めちゃくちゃ曲は良くなっているし、アルバム内の構成も考えられているし、ロックっぽい隙(完璧じゃない感じ)もあるし、すごいいいアルバムが作られたぞ、とちょっと興奮したの憶えています。普段音楽を聞かない知人も、僕がらこのアルバムを流していると "Don't Look Back In Anger" のところで「素敵な曲だね」とつぶやく位で、それが嬉しくなるような、そんな体験を1995年と言う時代に起こさせたのは凄い事でした。確かに先人の偉大な功績を巧みに借用して作り上げている感はありましたが、オリジネーター以上にうまく活かせる才能については誰も全く異論はないと思います。
ニルバーナが消え、ストーンローゼスが瀕死の状態にあった中ではひときわ輝いていました。
その輝きが本物であることは、英国における売上No.1レコードであったBeatlesの "Sgt.Pepper's Lonely Hearts Club Band"の記録を抜いたという事が証明しています。
その後、現在は Queen のベスト盤がNo.1になっていますが、短い期間での売り上げを考えるとMorning Gloryがどれほどのアルバムであったかできると思います。

■Knebworth

Morning Gloryアルバムリリース後もゴシップネタを撒き散らしながら oasis というバンドの肥大化は止まらず、とうとうマンチェスターのメインロード・スタジアムの二日間とネブワースパークでの二日間のライブを開催をド派手にぶち上げたのは世界的なニュースになりました。
デビューからわずか2年、英国史上最速で最大のバンドにまで大きくなった oasis はメインロードもネブワースも成功させます。とりあえず、豪華なサポート・アクトやジョン・スクワイヤ出てきたりして、もの凄い盛り上がりだったと言う情報は海外の音楽サイトのニュースでなんとなく理解したので、多分翌月の日本の音楽雑誌にはレポート的なものが載るだろうとは思っていたんですが、ちょうどその時期から音楽雑誌に対して懐疑的になっていたこともあって、そういう雑誌からの情報よりも音源はないか?と言うことでまず最初に渋谷の宇田川町へ探しに行ったんです。そうしたら多分ネブワースの2週間後位だったと思うんですが、いつも行くブート・レコードショップにあったんです。それもLINE録音のブート盤が。しかもイギリスのレディオワンでの放送用に録られたものだったのでバランス調整もバッチリされているもの。顔見知りの店長はメイン・ロードと合わせて必聴盤だと激推しされたのですが、当時はお金がなくて、多分2枚組のブートCD、当時6000円以上していたと思うんです。
なので、こちらのネブワースの方だけ買いました。ネブワースは赤地に白抜きのロゴでメイン・ロードは黒字に白抜きのロゴでした
まぁ、豪華なセットリストでした。未発表の新機軸の曲 "My Big Mouth"とか "It's Getting Better Man"とも入っていましたし、シングルB面の"Slide Away'や"Round Away"までやっていましたし、もういい曲ばかりなのです。
それまでノエルの歌う曲ってあんまりピンと来ていなかったのですが、このネブワースの"Master Plan"には感動しました。
あまりに良かったんで映像もその後ずっと探していて、映像も西新宿のブート・ビデオ屋で、確か会場のスクリーンに映す映像をビデオに落としたものが出回っていたのでそれを購入したんです。
ただ画質があまり良くなかったためじっくり観るというよりはなんとなく雰囲気を楽しむというようなものでした。

それから、25年経った2021年。あの歴史的なコンサートがドキュメンタリー映画になり、更に2日間のライブすべて音源化、映像化されてリリースされたわけです。
ドキュメンタリーの中で語られていますが、今から25年前、まだ電話でチケットを購入する世の中で、ネブワースのチケットを取るためにイギリスの人口の%がチケットを求めたと言われています。デビューわずか2年のロックバンドを観るために250万人の人がチケットを求め、二日間で25万人が集った。こんなことは今後の起こらないのかもしれません。そういう意味でノエルが叫んだ「これは歴史だ、今、ここが!」は正にその通りだったのです。

■チケット争奪戦と武道館公演のTシャツ

今日持ってきたTシャツは98年の武道館公演のTシャツです。
ここ日本でもチケットの争奪戦が起きました。私は1月の寒い日、朝9時に開くプレイガイドに前の夜9時から並びました。真冬の夜の12時間、もうそんな経験をすることはないでしょう。今から25年前、まだロックに熱い熱狂が残っていた時代でした。


■おまけ

oasisのリアム・ギャラガーがジョン・レノンを敬愛して病まないのは周知のところかと思いますが、ネブワースの白いワークジャケットに丸いサングラス(レンズに薄く色が入っている)もどことなくジョンの影響を受けているように感じます。
この頃より後になるとリアムのファッションは急激に垢抜けて行き、デニムのジャケットにサイケデリックなペイズリー柄のシャツを合わせたり、スカーフを巻いたり、モッズっぽいコートを着ていたりして、ポール・ウェラーみたいな粋なセンスだなというか真似してないか??ってくらいになって行きました。と、思ったら”Prety Green”なんてまんまJamの曲から名前をいただいたファッション・ブランドまで立ち上げてしまいましたから。

ノエルもこの頃は飾り気なく、ただのシャツだったり、安めのアウトドアブランドのパーカーを着てたり、後にリアムのことをパーカー・モンキーと揶揄するのが嘘のような格好でいたりしますが、奥様の影響なのかプラダやグッチのお店に現れるようになってしまいます。
昔、カンヌ映画祭にゲストで招かれたのにドレスコード無視で行って閉め出しをくらって苦笑いしている姿がなんともワーキング・クラスのお兄ちゃんって感じで好きだったなぁ...

そのリアムのパーカーですが、
2017年にマンチャスターで起きた爆破テロの犠牲者を追悼するチャリティー・コンサート”ONE LOVE MANCHESTER”に出演した際、レスキュー・オレンジのフード付きコートで登場しました。
そのコートはSassafras(ササフラス)という日本のブランドのものなのですが、このSassafrasというブランドもガーデニングとロックを融合した(?)イカした服を作るブランドなんです。なので、何着か持っていたのですが、実はリアムの着ていたコートと同型の色違いを持っていたんです。個人的にオレンジは好きな色なのですが流石にオレンジは派手で手が出なかったのですが、リアムが着ていたのを見て慌てて探したのですが、前のシーズンのモノであったこともあり、残念ながら手に入れることはできませんでした。
今でも、どこかで手に入らないか、と思っています。

いずれにせよ、ギャラガー兄弟はちょっと昔の方がファッション的には面白かったと思っています。

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