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狂気のオフィス家具

平日の昼間から、3回目のワクチンをキメてきた。

天気がよかった。

予約時間に迫られ、小走りで会場に向かえば、上着を置いてきたのに汗ばんでしまう。ちなみに私はとても汗かきだ。

中規模程度の特設会場だった。それにしても空いていた。

接種券の確認、本人確認、アプリ登録など、注射を含めてチェックポイントは7つほどある。

チェックポイントごとに、受付係の可憐なお姉さんたちが長机を前に横並びで座っている。概ね5人。受付には、私以外の人は見当たらない。誰に受付をしてもらうのか、選び放題だ。

とはいえ、シャイな私は仏頂面しかできない。最短ルートで正面の受付に着座する。言われるままに、用意してきた書類を差し出す。

受付のたびに、精一杯絞り出すように発する「お願いします」と「ありがとうございます」。相手に届いているかは、定かではない。

とにかくスムースに注射が終わった。6つめのチェックポイントまで、あっという間だった。各チェックポイント前に並べられた混雑時用の素っ気ないパイプ椅子など気にも留めず、私はここまで順調に歩を進めてきた。

体中から立ち上る湯気は、未だ収束していない。メガネは曇ったままだ。
実際の経過時間が短い反面、チェックポイントのたびに情けない姿を晒してきた私にとって、注射の終了はなかなかの解放感だったのだが。

ここにきて、7つめのチェックポイントである。知性漂う、優しそうな受付のお姉さんは、マスクの下で微笑んでいるようにさえ見えた。
私はここでも、口から何らかの音を発し、求められる書類を差し出した。経過観察のため、15分待機の指示が下される。
しかし、頭の中は別のことでいっぱいだった。

椅子である。

これまでのチェックポイント前に素っ気なく佇んでいたパイプ椅子たちとは打って変わって、今回のは明らかに私を呼んでいた。私は泣く泣くそれを振り払って、知性漂うお姉さんの受付に着座したのだった。

スチールパイプのカンチレバーチェアだった。

ミースというよりは、マルセル・ブロイヤーの趣をわずかに残したか、残していないかぐらいのデザイン。決して美しくはない。しかし、このシチュエーションにカンチレバーというのは、いささか役不足ではなかろうか。

とにかく、座り心地を確かめる。それが今日の私の使命だと直感していた。

第7のお姉さんに感謝の音を発し、立ち上がる。迷うことなく、近くに立っている誘導員のお姉さんに声をかけた。

「すみません、差し支えなければでいいんですが、この椅子に一度座ってみてもいいでしょうか...?」

曇ったメガネからは想像がつかないほど、明瞭に声が出た。椅子には人を変える力があるらしい。

「えっ、あっ、えっ、えっ、あっ、、、」

お姉さんは、直ちにシステムエラーを起こしてしまった。もちろん、お姉さんにプログラムされていない事態を発生させてしまった私が悪い。
すかさず、近くに待機していた(やや)頼もしいお兄さんが助太刀に入る。

「(このお兄さん、友達に似ている...本物...?偽物...(!)?それにしても、よく似ている...)」

お兄さんを見つめすぎて、私がお兄さんのことを好きなんだと勘違いさせてしまったらどうしよう...という思いとは裏腹に、私の口は自動音声を再生していた。

「急にすみません。実は建築の勉強をしていまして...。この、後脚のない椅子って珍しくないですか?もしできれば一度座らせていただけたらと思って...」

「あっ......どうぞどうぞ...」

背中からは、どよめきが聞こえる。第7のお姉さんをはじめ、受付で座っている係の方々の冷笑であった。

「すみません!ホントごめんなさい!」

謝るわりには遠慮がない。カンチレバーチェアに腰掛ける。そして立ち上がる。

「ホントごめんなさい!ありがとうございました...」

そそくさと次の待機コーナーへと逃げ込んだのだった。

ワクチンをキメてハイになり、狂気の末に座らせていただいたカンチレバー。

感想は「ふうん、こんなもんか。」


座り心地を確かめることができて、よかったと思う。

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