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千住宿

 うららかな春の日、彦右衛門は客人を客間に迎え入れた。客人といっても同じ千住宿の本陣住吉屋の主人大八が「お時間許すならばご相談したいことがある」と訪ねてきたもので気易い間柄のことである。大八は挨拶もそこそこに話し始めたが、決して多弁ではないこの友人が誰かに話さずにはおれないという様子をみせることが興味を惹き、彦右衛門も心持ち姿勢を大八の方に寄せて聞くこととなった。

「向島牛の御前にこのたび奉納された狛犬を御覧になられましたか」

 大八はこう話し始めた。牛の御前でご開帳があったことは彦右衛門も勿論知っているが狛犬のことは寡聞にして知らなかった。

「狛犬は台座には鎮座せず、富士塚のように岩を積み上げてその頂に立っておるのです。一体は子供を連れておりましてな、獅子は千尋の谷に子を落とすの故事を表現しているのでございましょう」

その姿は誠に生命の宿るかのようであり咆哮が聞こえるかと見紛わんばかりである。大八は自らの驚きが十分に伝えきれぬのがもどかしげに語った。そして「これほどの細工が出来る石工がいるのであれば、是非我らが二つ森の社にも奉納したいと思うがどうだろうか」と続けた。

 彦右衛門は少し考えると側のものに伜の長右衛門を呼ぶよう言いつけた。息子が部屋に入り大八に気候の挨拶をして下座に座ると、彦右衛門は狛犬について話したうえで「一度牛の御前に詣り、奉納された狛犬をその目で見て参れ。その上で石工について調べてきて欲しい」と伝えた。彦左衛門は後継である長右衛門を今年に入って名主見習の任に就けたばかりである。今後名主なり年寄りとして千住の地を代表していくべく鍛えていくつもりであるがまだ見習いであるという倅の自由さをこのたびには使うべしと思い当たったのである。それに近隣の土地に出向き顔を売る良い機会でもある。大八から狛犬は両国横網町から奉献されたと聞いた彦左衛門はその場で心当たりに手紙をしたためた。


 長右衛門が隅田川沿いの関屋の道を歩いているのはこの数日前の父親からの話があってのことである。名主見習となり周囲の視線を常に気にして振舞わねばならなくなったことをさして気にはしていないつもりであったが、なんとはなく自らの足取りが軽いことに気づき内心苦笑する。千住から向島まではさしたる道のりではない。また、ひとりの道行きではなく両国や向島に明るい年かさの使用人が同行しており、その目を気にしなければならないことは普段と同じであるはずなのだがそれでも解き放たれたような気分の方が勝っているのだ。使用人も長右衛門が何かを尋ねてくるまではただ付き従うのみのつもりでいる。同行を命じられた際に彦右衛門にそのように言い含められており、その意図をよく汲み取っているのである。 

 牛の御前に詣って狛犬を確かめ、横網町の奉納者の元へ父の手紙を持参して挨拶するところまで長右衛門は過不足なくこなしてみせていた。挨拶した先において石工のところに早速行ってはどうかと勧められた時も、小僧を案内につけてもらう好意を自然に引き出すことに成功した。石工は庄次郎といい山谷に住んでいると言う。千住宿への戻り道を考えると少し遠回りになるがまだ余裕はあるだろうと考え大川を渡って山谷へと向かった。

 案内してくれた小僧は「ここです」というと戸を開けてずかずかと入っていった。長右衛門と使用人は表で待っていたが、奥で女の声がして、どうやら歓迎されざるところのような雰囲気が感じられる。手持ち無沙汰に待っているとやがて小僧と出てきたのは石工のおかみさんと見える女だった。女の声は彼女のものだったのだろう。

「すみませんねぇ、わざわざ来ていただいて」

  なんとも言い辛そうに挨拶をしてくる。 

「本当でしたら親方がお相手するところなんですけどねぇ」

「これはご不在でございましたか」

  長右衛門が言うと、案内の小僧が横から口を出した。

「昼間っから飲んだくれてるんでございますよ。そうじゃないかと思っておりましたんで」

  小僧が遠慮無く言うのをおかみは苦々しげに睨んだ。

 長右衛門がおかみをなだめすかして聞き出したのはこんなことだった。牛の御前の狛犬を彫って納めてから、石工の庄次郎は糸が切れたように仕事に取り組む気力を失い、酒を買ってこさせては昼間っから飲むようになり、なかなか鑿を持たなくなったのだという。

「あの狛犬は氏子の方々にも喜んでもらえたんですけどねぇ。これから仕事も増えるって時なのに何を考えてるんだか。あれじゃまともにお話しをうかがえそうにないんですよ」

 実際、挨拶にと中に入れてもらい対面したのだが、庄次郎は立て膝で茶碗を手に床の一点を虚ろに眺めている有様だった。名乗って話しかけると返事はするが聞いているのかどうかは分からない。結局おかみさんにまた日を改める旨を話して退出することとなった。 

 帰路において長右衛門は考え込むこととなった。あの様子では千住宿からの御奉納を任せるのは甚だ心許ない。父親にありのままを報告して、二つ森への奉納はいちから考え直した方が良いのかもしれない。だが。

 長右衛門は牛の御前の境内でみた狛犬の、岩山を掴む四肢の爪をありありと思い出していた。虎や獅子などというものはおよそ絵でしか見たことはないが、実際に形にして眼前にするとあのような大きさであるのかと感じ入ったのだった。そしてあのような爪で襲われたならひとたまりもなく八つ裂きにされてしまうのであろう、という空想に慄いた。あれだけのものを彫り出してみせる技量というのは、やはり他ではなかなか得難い才なのではなかろうか。

 長右衛門は帰りの道すがら、確かめてきたことは全て自分が大旦那に話すので直接何か尋ねられても自分に聞くように答えてほしいと使用人に頼んだ。帰って父親に話したのは、石工の腕は住吉屋の言う通り間違いない、是非とも依頼したいので何度か足を運んで話を詰めたい、ついては何度か山谷の石工のところへ出かけることを許してほしい、ということだった。彦右衛門としてはそういう手間がかかることも織り込んで倅に任せたので逐次様子を知らせるよう言って許した。

 長右衛門が素面の石工と話ができたのは三回目の訪問においてだった。

「何度もお越しいただいたのに申し訳もございやせん。お恥ずかしいとこを」

 頭を下げる庄次郎を前にして長右衛門は、やっと手がつけられるという安心と、庄次郎が良いものを彫れるのかこれから見極めねばならないという気負いを同時に感じ、自分の要件が伝わっているのかを探るように尋ねた。

「狛犬の御奉納をお考えであるとのことで。嬶からおおよそだけ聞いておりまして」

 長右衛門の前に出された茶は庄次郎が運んできたもので、その日内儀の姿は見えなかった。もしかしたら亭主に愛想が尽きて出ていったのかもしれず、とすると酒は抜けているが生気も抜けた様子に見えるのは気のせいではないのかもしれない。

「牛の御前の狛犬を彫られたのですよね?」

 庄次郎は濁った目を向けるとあまり表情は変えずに言う。

「あれと同じものをご所望ですか」

「いえ、それは私どもは望んでおりません」

 この石工をやる気にすることはできるのだろうかという不安は消えぬが、父親に目の前の石工で進めるよう話してきた手前すぐに諦めるわけにもいかぬ。長右衛門が牛の御前の狛犬の爪について自らの感興を語り始めたのは、自らに対して諦めぬように鼓舞する気持ちが何処かにあったのかもしれなかった。


「牛の御前の狛犬は千住宿でも評判でございます。しかし千住宿が余所の狛犬を鎮守に奉ったと言われるのは本意じゃぁございません。その腕を見込んで頼もうではないか、ついては確かめてくるようにと仰せつかったのが私でございます。私ぁ狛犬の爪の勇壮なのに感じ入りまして」

「爪?」

「はい、あの岩を掴んでいる脚と爪で。狛犬というものはどこも同じようなものかと思ってきましたが考えを改めました。あの勇ましさが欲しいのでございます」

 庄次郎はしばらく黙っていたが、長右衛門が待っていると訥々と話し始めた。

「……あれは自分でも良い出来だと思っておりやす。みなさんにも褒めていただいて」

 言葉とは裏腹に庄次郎は自嘲気味に口元を歪める。

「関東郡代様の姓を賜って名乗るよう勧める方がおられましてね。その気になってこの度刻ませていただきました。いい気になって浮ついていたのかもしれねぇ」

 自分の膝下に目を落とす庄次郎の頭頂をただ眺め長右衛門は言葉を待つ。

「あれ以上に面白いものじゃないとやる気が出なくなりましてね。なんだろう。同じものも作りたくはねえんで。そんな贅沢言えるご身分じゃぁねえんですけどねぇ。嬶にも散々言われて、分かっているんだが」

 長右衛門は最初(はな)に同じ狛犬は要らない、と言ったのが正しい言い様だったことに内心ほっとし、また庄次郎が仕事をしない理由が予想と少し違っていたのを意外に思った。「仕事をやり切って、そのあと糸が切れたようにやる気が出なくなった」のかと推量していたのだ。同じことかも知れなかったが、長右衛門には違う言い様に聞き取れた。「あれ以上面白いもの」がもし思い浮かんだのであるならば、この石工は次の作品を彫れると言っているようにとれる。石工がそれを自分でうまく見つけてくれれば良いのだが、見つけられねば我が無い智恵を絞り出さねばならぬ。そんなことをおもいながらあれこれ話しをしていたもので「子供も彫ってもらえぬか」という思い付きに庄次郎が興味を示したのを見逃さなかった。

「親子が揃っているというのは子孫繁栄を思わせます。いやこれは良い。牛の御前では子供は一匹でございましたがいっそ増やしてはもらいませんか」 

 長右衛門が話す間庄次郎は右手を頰に当てて何かを考えている風をしていて、もしかしたら長右衛門のお喋りも途中から耳には入っていないのかもしれなかった。そしてしばらくの沈黙の後におもむろに視線を長右衛門に戻すとこう言った。

「少し……ひと月ぐらい、もらえますかね。ちょっと、思いつきやした。ついては、言いにくいことだが、少しばかり手付をいただけないですかね」

 

 我が前のめりな事情を見透かされたかと鼻白むこととなったが内心の逡巡を隠しつつ、「ひと月ぐらい」ではなく、いつ思いつきを私に見せてくれようかと聞き返し、次の日取りを押さえたうえで手付として幾ばくかを置いて帰ってきた。

 長右衛門は抜け目なく、父には様子を報告しつつ勧進を進めてもらうように促し、庄次郎のもとを訪れては捗りようを確かめ、良いものができているとこの石工を励ました。ほかの仕事が入ればそちらを優先させ、決して急がせぬようにもし、父親をはじめ勧進に応じた氏子達にも「自分がこの目で確かめているから」と時間がかかっても良いものが出来ていると言い続けた。

 文政十三年(一八三〇)年が開けてまだ寒い頃庄次郎は千住宿に自らが彫った狛犬とともに到来し二つ森社に狛犬を設置、長右衛門は面目を施した。奉納の儀は千住弐丁目の氏子衆総力を以って盛大に行われた。直会において年長の氏子達に慰労される長右衛門を、庄次郎は捕まえて挨拶していった。

「急がずに彫ってもらってようございましたよ。ありがとうございました」

「こちらこそ、待っていただいた甲斐がございやした。あの足は思うように彫れております」

 彫っている間、庄次郎は何度か様子を確認しに訪れた長右衛門に、彫る気になった理由を話していたのだった。それは足だ、というのだった。

「気に入っていただいた大きな爪をした勇ましい足が、我が子を絶妙な加減で慈しむ様ってぇのを彫ってみたくなったんで。お陰で嬶も戻って参りましたし、礼を言うのはこちらでさぁ。旦那、近くをお通りの際には是非寄って下せえ」

 実のところ長右衛門がその後庄次郎の工房を訪れることは無かった。彼には千住宿の名主をいずれ父親から引き継ぐと言う重責が待っており、そのためにやるべきことは多かった。長右衛門にとって狛犬奉納は名主を継ぐまでの道筋にあって越えねばならぬ小さな丘のようなものではあったのだが、振り返って懐かしむほどのものではなかった。もし他の寺社で奉献の話があって、相談を受けることがあったのならばその時には長右衛門は庄次郎を勧めたかもしれないがそのようなことも無かったのである。

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 北千住駅から少し歩いたところに千住神社が鎮座している。拝殿前の狛犬は阿吽とも子連れで掘られているものとしては私が知る限り三番目に古く、小石川牛天神の狛犬から二十一年後の奉納である。奥州街道日光街道の江戸から最初の宿場町として栄えた場所に当時の石造彫刻が遺されているのはまことに尊く、千住というまちの力の一端をこの狛犬は示していると言って良い。 

 台座には奉献者の名前が掘られていて先頭にその名が刻まれている「永野 彦右ヱ門」は代々千住宿の名主を務めた家の当主なのだが、彼は家に残っている文書を整理したものや当時の出来事を『舊考録』と題してまとめており、これが足立区中央図書館により活字として刊行されていて我々も読むことが出来る。彼の名前や事績、また息子である長右衛門の名前や名主見習への就任時期が分かるのはこの記録者としての永野彦右衛門の業績による。千住神社が当時「二つ森」と呼ばれたことなども『舊考録』の記述から知った。

 少しあとに名が刻まれている住吉屋大八は成田山新勝寺の出開帳や巡行開帳の記録の中に名前が残っている。天保年間の江戸開帳からの帰路、貫主照融上人が千住宿本陣に宿泊しているが、その本陣が主人が住吉屋大八である。冒頭彦右衛門と大八が座敷で話していたのはそんな情報から像を結んだ幻である。

 千住神社の狛犬だが、同じ頃に彫られた他の狛犬と見比べるとはっきりとした特徴があって、角(かど)を鋭く掘り、立体的であり、陰影を強く感じる造形をとっている。

 

 例えば顎髭は、同時期の狛犬が顔の線に沿って曲線的に彫られていることが多いのに対し、千住神社の狛犬は毛先を鋭角的に彫ってわさっとした質感を表現している。

 例えば鬣の折り重なりにおいては、他の狛犬ではやはり身体に沿って浅く彫られることが多いのに対し、ひと房の厚みを深く刻むことによって立体感を出している。

 例えば口元においては、口唇の縁を鋭角的に彫り込むことで口腔の奥の暗さを表現している。

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  長右衛門が気に入った爪の表現も同様で、木彫であれば同時期に見られたのではないかと思われるが石彫では珍しいような造形感覚をこれを彫った石工は持っていたかと思われる。惜しむらくは狛犬にも台座にも彫ったものの名は刻まれていない。台座には経年劣化により表面が剥落してしまった部分があり、もしかしたら剥落した箇所に刻まれていたのかもしれない。

 ただ、北千住から隅田川沿いを南に下ったところにある牛嶋神社の境内の狛犬に、先に述べたような特徴を備えた狛犬がいる。牛嶋神社とは即ち、長右衛門が詣った牛の御前である。ごつごつした火成岩を積み上げて山をふた山つくり、その上に狛犬を配しておりこのような狛犬を俗称で「獅子山」と呼ぶことがあるが、太平記の楠正成の台詞を想起させるうまい表現だとおもう。実際に角が無いという意味ではこれは狛犬ではなく獅子だと言えるという意味でも合っている。ちなみに牛嶋神社のこの狛犬は「獅子山」としても最初期のものである。

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  拝殿に向かって右の岩山の側面に奉献者達の名前とともに「東都彫工 伊奈庄次郎正継」と誇らしげな刻字が見られる。狛犬を彫る石工と、台座や岩山をつくって備え付ける石工は必ずしも同じとは限らず、そのため刻字のあったとしてもその石工が狛犬を彫ったとは必ずしも言えないのだが「彫工」と書くからにはこの狛犬を彫ったものの名は伊奈庄次郎正継なのだろうとほぼ断定できる。また「文政十丁亥年二月吉日」の刻字があり、千住神社の狛犬の台座の「時惟文政十三庚寅年二月」と考え合わせると同じ石工が近い時期に続けて彫ったのではないかと考えたくなる。なお牛嶋神社境内にある石造の作品の中に牛の像もあるのだが、文政八年の奉納で「山谷町 石工 庄次郎」の刻字があり、惟も同じ石工ではなかったかと思われるため庄次郎の工房は山谷堀近くにあることにした。

 現在の牛嶋神社の境内は隅田公園の一角にあるが元々はもう少し川上、桜橋にほど近い弘福寺という寺院の側にあったとのことで長右衛門が詣ったのはこちらの境内である。明治から大正にかけて東陽堂が観光していた『風俗画報』というグラフィック雑誌の一八九六年(明治二十九年)の巻に「洪水の防禦を講すべし」という論説が収録されているのだが、その論説の発端として隅田川の洪水時の様子、具体的には洪水の被害にあった人々が牛嶋神社の境内に避難している風景を山本松谷が描いた石版画が掲載されていて狛犬も牛像も描きこまれており長右衛門が牛の御前を訪れる様子はこの版画を眺めながら書いていた。

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  千住神社の狛犬も伊奈庄次郎正嗣の作であったとして、この石工の手から生まれたのは二作品しか残っていないことになる。石工の仕事としては墓石も含めた碑刻の方が多かったのではないかと思われ、かつその多くは無銘であっただけなのかもしれないが、それにしてもこれだけの腕を持っていたのに名が残らないということがあるのを不思議に思う。彼の名が残っていないことについて自分の天才故に酒に溺れたのではというのは思いつきのひとつに過ぎず、永野彦右衛門、永野長右衛門、住吉屋大八の名前と出自、伊奈庄次郎正継の刻字以外のことは私の創作である。

『関東子連れ狛犬の系譜』シリーズは少しづつ、今書いているものがどこかに響けばと願いつつ書いています。