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礫川

 弥右衛門は牛天神門前に店を構える酒屋の主人である。
 氏子の総代を務めているため当然のように節目節目で天神様に詣るの弥右衛門が境内の狛犬一対をみるとき、いつも微かな痛痒を心に覚える。
 あれは若気の至りであったか、やり過ぎてしまったのかという後悔の念にいつも苛まれる。
 まだ彼が若者組の頭であった時の出来事を思い出してしまうのだ。


 弥右衛門は茶屋に入ると主人を見つけて礼を言ってから奥に入っていった。既に何名か集まっているようで声が聞こえて来た。牛天神境内にある茶屋である。客が少ない時間ならばと若者組が会合に使うことを許してもらっている。見渡すとまだ来ていないものもいたが、上座に座るとぼちぼちと例大祭までに決めることを話しはじめた。 

 狛犬をあらたに奉納しようではないか、という話を以前から何名かとしていたので話し出すと、たちまちどこの石工に頼むのが良い、どこのまちの奉納物には負けられん、という話が返ってくる。そこへ「お茶だよー」とたえが入ってきた。なんだ酒じゃないのかたえさん、といった奴がいたものがいたがたえは間髪入れずに「ナマ言ってんじゃないよ、安さんつまみ出してやんなこいつ!」と逆に若者達をけしかけるもので一堂はどっと笑った。

 たえは二年ほど前に他所からやってきてこの茶屋で働いている。深川あたりで芸者をしていたらしい、という噂を弥右衛門も聞いたことがあった。ここでは女中をしているが客あしらいが上手くさっぱりした気性であるので茶屋の方からも重宝されているようだった。この部屋にいるものたちからすれば少し薹が立っているが人当りが良い彼女を憎からず思ったのか、あるいは若さゆえの粗忽なのか、たえを口説こうとしたものがこの部屋の若者に何人かいることを弥右衛門は知っている。だがあるものは正体がなくなるまで飲まされ介抱されることとなり、またあるものはいつの間にか花札勝負に持ち込まれたうえ完膚無きまで負かされてすってんてんにされて夜道を帰ることとなるなど、ひとりとして相手にならなかったということも知っており、苦笑いしながらたえと若者達のやりとりを眺めている。

 祭りまでに決めることに話を戻していったが、ふと気がつくとたえはあがりはなに座って興趣ありそうに男どもの談義をしばらく聞いていた。特に秘密の話はないし、弥右衛門はじめ誰もがたえに対して親しみを気持ちを持っているから咎めだてすることもない。そのうち静かに戻っていった。

 弥右衛門の店につかいに来たたえが「ちょっとさ」と話しかけてきたのは数日あとのことだった。

「この前うちの茶屋でみんなで話していたご奉納のことなんだけどさ」

 少し言い様を考えるふうに間を取って話す。何か相談ごとがあるときのたえの話し方だ。

「あれってさ、若者組じゃなくても、例えばあたしなんかでもご奉納できたりするのかな」

「そりゃあおたえさん、若者組としても願ってもねぇことだ。御利益もあることでお願いすることはあっても断ることなぞありはしねぇ」

「じゃあ茶屋に寄った時に声をかけておくれよ」

 言いたいことが言えたのか、たえは足取り軽く帰っていった。

 人当たりが良いと言っても、実はたえは人の好き嫌いがはっきりしているようだということを弥右衛門は感じている。表立って言いはしないが嫌いなものとは距離を取るようになるし裏で悪口など言われることとなる。弥右衛門のように若者頭としてあちらこちらとやりとりをする必要のあるものとしてはたえのような人間には嫌われたくないのだが、どうやらちゃんとしたやつだと見てもらっているようだった。

 ちゃんとしたやつだと思ってもらっている以上間をあけるわけにはいかぬ。弥右衛門はたえがつかいをした注文を丁稚に任せず自分が届け、そのあとでたえのところに寄りご奉納について話をしていった。驚いたのが、たえが寄進しようとしている額が弥右衛門が思っていたよりかなり大きいことだった。それは今回の寄進者の中で一番多い額になるかもしれない額だった。勿論寄進はありがたいことだがこれは本当に受け取って良いものか。

 迷っているのを見透かしてたえは弥右衛門に話しはじめた。

「あたしさ、子供がいるのよ」

「うん」

 驚いてみせるところなのかもしれなかったが、弥右衛門はただ相槌を打ってたえの話の続きを待った。

「昔働いていたところで夫婦になる約束をしたひとがいてさ。まぁ、そのひとの子なのよ。結構大きなお店の若旦那だったよ。大丈夫だってそのひと言ってたんだけどさ、いざとなったら親戚とか遠縁とかなんとか口を出してきたりするわけよ。良くある話じゃない。そうなると大旦那もご内儀もいう事が変わって来ちまってね。でももう坊がお腹にいて」

 たえは真っ直ぐ弥右衛門の目をみて話し続けた。

「産んだんだけどさ、結局その人とは一緒になれなかったのよ。坊は私が育てるつもりだったんだけど、どうしたもんか子はよこせって言われた」

「うん」

「最後はあのひとじゃなくて、大旦那が番頭と女中を連れてきて談判に来てね。うちの子として大事に育てるからと言われて。で、手切れなんだろうね。お金を出されたのよ」

「そうか」

「叩っ返してやろうかとも思ったんだけど。でもいつかこの子が戻って来るかもしれないと思ったんだよね。それでまぁ受け取って。あの子をついてきた女中さんに預けた。預けたけどいつか帰ってきた時のためにそのお金は一文も使わないで取っておいたのよね」

 少しそこで黙って、目線を外して外に向けた。弥右衛門は身じろぎもせずに話を聞き続けている。

「最近友達で教えてくれる人がいてね。あのひとはその後嫁をもらったそうなんだけど、そのご内儀良いひとなんだって。私の坊も自分の子と変わらずって育ててるって。本当かなって、一度だけだけどさ、見に行ったんだ。分からないように」

「分かったかい、坊が」

「遠くからだったけど、分かったよ。赤ん坊の時に別れたのに分かるもんだね。元気に歩いていてさぁ。乳母さんなのか女中さんなのかついてて。機嫌良さそうに遊んでたよ。幸せそうだった」

 そういうとたえは少し微笑んで再び弥右衛門に視線を戻した。

「だから坊はもう、あたしのところには戻って来ないし、お金を坊のために使うことは無いんだって分かった。だからね、ご奉納するんだ。良いだろう?」

 弥右衛門はゆっくり頷いてからたえに座礼をした。

「ありがとうございます。確かにお受けして、良いものをご奉納するのに使わせてもらいます」

 普段冗談を言い合う間柄としては普段無いような丁寧さだが、それくらいの礼で敬意は伝えねばならんと弥右衛門は思ったのだった。

「うん、頼むよ。なんだい、改まっちゃって」

 たえはいつもの様子に戻ったように明るく笑った。

 

 弥右衛門は若者組の仲間と地道に人を訪れ、奉納者を増やしていった。柳町に腕の良い石工がいると薦めるものがあり、依頼先も決まった。弥右衛門は自らも柳町に足を運び、石工に会って狛犬についてあれこれ注文をつけた。「お武家の出らしい、ちょっと難しい親方らしい」と薦めるものは口々に言ったが弥右衛門は「ちょっと気難しい、付き合いづらい職人の方が良い仕事をするのだぜ。是非話をしてみようじゃねぇか」とむしろ乗り気だった。石工は常三郎といい、肩幅はあるが鋭く削ったような風貌の男で確かに取っ付き辛いかもしれねぇ、と弥右衛門は初対面の際に思っていた。だが、実際はごく生真面目な職人であって、道理を尽くしている分に難しいことはないとすぐに理解した。

「牛天神にはもちろん詣ったことがあるが、どの場所に置くのか見させていただきましょう」というと、実際に日を定めて下見にやってきた。別当にも挨拶しただけでなく、弥右衛門以外の人間にも話しを聞いていこうとする様子は最初の気難しげな見た目からは意外であったが、特に弥右衛門が意外に思ったのが常三郎がたえとも話しをしていったことだった。

 実は弥右衛門は常三郎との打ち合わせの中で、たえのことを話していた。坊のことなど勿論話しはしないが、故あって多くの額を奉納していると話していた。常三郎がたえからどのような話しをしたか弥右衛門には分からなかったが、微かに不安を感じたのはこの時だった。弥右衛門が常三郎に後ほど質した限りでは「亡くなったお子さんの供養」だとか聞いた、とのことだった。たえに余計な気遣いをさせることとなったことを知り弥右衛門は済まなく思ったが、直接たえにはそのことは謝らなかった。謝ることで更に気遣いをさせることになりそうだと、思ったからだ。

 やがて常五郎は狛犬の姿を絵に描いて示してきたが、その絵は弥右衛門は再度困惑させることとなった。狛犬の台座は四面づつ一対で計八面あるわけだが、一面だけ彫られる字が不思議であったからだ。常五郎の説明を聞いて、不安が現実のものとなって動き出してしまったことを弥右衛門は知った。寄進主として異を唱えたが、ここで弥右衛門は常三郎がとても律儀であって例えそれが依頼主からの意見であったとしてもちょっとやそっとの理屈では納得しない頑固さの持ち主であることを知ってやや途方に暮れることとなった。

 更に困ったことには話しているうちに弥右衛門自身にも、常三郎の言っていることが正しいように思われてきた。結局弥右衛門は常三郎を説得することはできず、むしろ常三郎の案を推し進めることとなってしまった。いったん決めてしまうと弥右衛門は手を抜くことはなく、若者組の中で考えを同じくしてくれそうな仲間にひとりづつ話しをして、味方を作っていった。若者組の中で総意を取り付けると、周到に氏子の面々にも根回しをした。その間、弥右衛門はたえとは軽口を叩き合うばかりでご奉納についての詳しいことは話せずにいた。

 文化六年の春、牛天神の例大祭に間に合わせて新しい狛犬が奉納された。若者組の面々は良い着物を羽織って境内に集い奉納の儀式に参列した。後ろには総代をはじめとする氏子達が控え、そのさらに後ろを子女や隠居達が囲んだ。たえも一番後方から見ている。 

 狛犬が披露されると一同からは感嘆のどよめきがあがり、誉めそやす声がきかれた。弥右衛門が気にした刻字のことを言うものはいなかった。気がついたものはいたかもしれないが、それについて初めて問うたのは儀式が終わって人がまばらになった頃に近くまで見にきたたえであったかもしれない。たえは常五郎を探すとその刻字について問うた。

「親方、あれは」

「姐さんはそれぐらい奉納しているよ。だから、あのように彫らせてくれと俺が頼んだんだ」

 それは「巳音吉」と大きく彫られている。たえがかつて深川で芸者として出ていた時の名前だ。常三郎がたえと話している中で、聞き出していたのだ。みねきちか、粋な名前だ、と常三郎は言ったのだった。

「この名前を知っているものはここにはいない。でもいつか、姐さんのおもうひとがここを訪れて、この名前に気がつくかもしれない。その時のためだよ」

 たえは嬉しいでも悲しいでもない、ただ言いたいことがうまく言えずもどかしいというような様子でいたが、常三郎に向かって頭を下げると「ありがとうございます」と言ってその場をあとにした。

  

 たえが突然茶屋から姿を消したのはそれから半年ほど経った頃のことだった。たえと数日前に会って変わらずやりとりしていた弥右衛門は驚いて茶屋を訪れて主人に話しを聞いた。たえは夏の終わり頃からお暇したいと相談をしてきたとのことだった。若者組からは茶屋にもご奉納について説明をし、刻字のことも言い含めてあった。たえが去ったのは、奉納の狛犬が関係していないだろうかと、弥右衛門は主人に尋ねた。

「弥右衛門よ、俺の勝手な推量だがな」

 主人は言う。

「たえさんははっきりと口にはしてねぇが、狛犬については有難くおもっておったように見えた。ただな、狛犬を見るたびに昔を思い出してしまってな、それを重荷に思っていたかもしれねぇ。それをおもうと強いて引き止められなかったのよ。行くあてはあるようだったしな」


  茶屋の主人もたえの行き先は知らず、それ以来たえが弥右衛門達の前に姿を見せることはなかった。時が経ちやがて弥右衛門は所帯を持つこととなり若者組を抜けた。今では牛天神の氏子をまとめる立場となっている。

  弥右衛門はこの春にも牛天神の例大祭のために境内に向かう。境内の狛犬一対をみるとき、彼はいつも微かな痛痒を心に覚える。
 たえはどうしているのか、俺のことを赦してくれているだろうかと思うのだ。

 小石川後楽園や東京ドームのすぐ北西の急峻な崖の上に北野神社、通称牛天神は鎮座している。縁起には源頼朝の故事があったとされている。拝殿の前には牛に似ていて願いを叶えるという「ねがい牛」と呼ばれる自然石と、狛犬が一対置かれている。拝殿に向かって右の阿形のの台座には「文化六歳」と大きく刻まれており、これが正しければ今まで私が見つけた「子連れ狛犬」、つまり阿吽とも子供を連れている狛犬の中では一番古い。なお拝殿に向かって左の吽形は角を持っている「狛犬」、右の阿形は「獅子」という姿であり、これは平安時代の有職故実以来の形に添うている。古式に則った姿を取りながら子供を連れていると言う革新を見せているのが私がこの狛犬に魅力を感じるところとなっている。

 台座の表には「坂通」、拝殿側には「世話人 若者中」とだけ彫られている。そして阿形の狛犬の拝殿側には「石工 小石川柳町 鈴木常三郎保教」と彫られている。ここに綴った物語で、常三郎という石工の名前は実際のものということになる。

「鈴木常三郎保教」と思われる刻字のある作品は複数ある。

・文化四年(1807) 銚子 銚港神社 狛犬 …… 「鈴木常三郎」と署名
・文化六年(1809) 小石川 牛天神 狛犬
・時期不詳 小石川 一行院 狛犬 …… 「鈴木保教」と署名
・嘉永二年(1849) 神楽坂 善國寺 虎像 …… 「鈴木□三郎保教」と署名、通称部分の欠字は「常」とも「喜」とも読める
・嘉永七年(1854) 川越 広済寺金比羅宮 狛犬 …… 「鈴木保教」と署名

 列記してみると、間が四十年空いているのが気になる。「保教」が諱ではなく、号のように継がれるものであるならば善國寺や広済寺の作品は二代目の作品なのかもしれない。ただ牛天神の狛犬と善國寺の虎像を見比べると、身体に日本画におけるようなコブを彫って筋肉を表現する手法が共通している。

 台座の刻字で一面だけ異彩を放つのが吽形の背後の面に彫られた「巳音吉」の字で、最初は全く意味が読み取れなかった。辰巳芸者の男名ではないかと思い始めたのはだいぶ時間が経ってからだが、何故離れた場所の奉納物に大きく名前が彫られているのかが分からない。奉納者として複数の芸者の名が彫られているのはみたことがあるがひとりの名を大書されているのは初めてで、そうなると深川芸者の名であるという推測もぐらついてくる。

(では深川からこの地に流れてきた芸者がいたのではないか)

 葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「礫川雪の旦」を眺めながらそういう考えに至るまで更に時間を要した。その芸者には生き別れた子供がいたとしたら。そう考えると阿形の獅子が何故か母親となって子に乳を飲ませている姿をしているのも、吽形の狛犬が背中に子供を乗せて遊ばせている姿をしているのも、理由があるように思えてくる。結局この仮説からこの物語をつくり出している。前述の通り石工の名前と「巳音吉」という刻字以外は私の創作である。



『関東子連れ狛犬の系譜』シリーズは少しづつ、今書いているものがどこかに響けばと願いつつ書いています。