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story 月夜〜前編〜

左伊という男がいた
隠れ里の者で
間者だった
ある時不覚をとり
深手を負った
身を眩ますことはできたが
山沿いの沢まで逃げて
動けなくなった
これまでか…
骸を残してはならない
里の掟があった
私の骸は
いずれ里の者によって
跡形もなく消えだろう…
左伊はできるなら
自ら姿を消したかった
だが
できなかった
この期に及んで…
遠くなっていく意識の端で
必死に何かを掴もうとしている
左伊は沢の流れに半分身を晒したまま
目を閉じた

沙耶という女がいた
里から離れた山の奥で
薬師の婆婆と暮らしていた
身内は
婆婆ひとりしか知らなかった
その婆婆も
血の繋がった身内なのか
尋ねるといつも
お前は山の神が寄越したのだと
昔話ではぐらかされた
詮無きこと…
そのうち沙耶は
尋ね無くなった
沙耶は明け方
村人に呼ばれた
村の女が産気づき
すぐに来て欲しいということだった
沙耶は何度か
婆婆とともに
御産に立ち会ったことがある
初めの頃沙耶は
ただ見ているだけで
何もできなかった
あたふたと
婆婆の後をついてまわり
安堵したり強ばったりを
繰り返した
そのうち
見よう見真似でも
湯を沸かし
母親の介抱をし
赤子の産湯を世話することが
できるようになった
怪我に病
沙耶は婆婆に習って
無我夢中で薬師の技を
学んでいった
この頃は
村人たちにも
頼られるようになってきた
沙耶も少しだが
自信がついた
それを婆婆も感じたのか
沙耶をひとりで
行かせることあった
婆婆は年のせいか
遠出を避けたがっているようでもあった
この日も沙耶は 
ひとりで出かけることになった
御産は順調で
沙耶は元氣な男の子を取り上げた
顔を赤くして
精一杯泣く赤子は
その声を母親に聞かせようと
一所懸命になっているようだった
御産は難儀なものだ
母も子も無事なら良いが
手を尽くしても
どうにもならないこともあった
だかこうして無事に生まれると
その難儀さは
どこへいくのか…
沙耶は母親の安堵した顔をみた
おくるみに包まれた赤子は泣き止んで
母親の横でスヤスヤと
寝息を立てている
沙耶はその様子を見るのが
好きだった
なんとも言えず
安らかな気持ちになった
母子の落ち着いた様子を見届けると 沙耶は薬師の道具を仕舞い
主人に挨拶をし
その家を後にした
左伊を見つけたのは
その帰り道でのことだった

はじめ沙耶は
熊か猪がいるのかと思った
子連れなら驚かせてはいけない
息をひそめ
注意深く
あたりを見渡した
昼を過ぎ藪に差す日が弱々しい
時折風が木々の間を通り
下草を揺らしていく
静かだった
沙耶の見つめるそれは動かず
沢だけが音たてて流れている
人…
鼓動が早まった
生きている…
それは衝動だった
沙耶は少しずつ距離を縮めていく
まだ助かる…
見ると体躯からそれは男で
おそらくどこぞの間者だろうと思われた
硝煙と血の匂いがする
背中から左腕に
大きな傷があった
止血しようとしたのだろう
切り裂いた布がまかれている
沙耶はさっと全身を見回した
それ以外に大きな傷は無さそうだ
乾いた場所を探すと
男を沢から引きずり上げようとした
その途端
男はカッと目を見開いて
胸元から短刀を閃かせた
短刀は沙耶の左腕の衣を裂いて
沢へと飛んだ
まるで獣だ…
沙耶は短刀の掠った手首を抑えた
一瞬の出来事だった
男はまた気を失った
沙耶は再び男に近づき
注意深く触れた
傷は深いが急所は外れている
沙耶は薬師の箱を開けた
御産の礼にと待たされた酒がある
婆婆への土産のつもりが
傷の手当で空になりそうだった
沙耶は木切れを見つけると
男に噛ませた
顔を覆う布を取るのが
少し躊躇われたが
沙耶は淡々と始めた

日が陰り冷え込んできた
慣れた山とはいえ
甘く見てはいけない
沙耶は火を起こして暖をとった
薬師道具があって良かった
婆婆は御産が
難儀していると思っているだろう
冷える
沙耶は男に添うように寝た
死装束に鎖帷子
間者とは
このようものなのだろうか
常に死がつきまとっている
いや
間者でなくとも
みなそうだ
たが
この種の者は
死ぬことが己の生でもあるようだった
先程まで
熱にうなされていた男は
薬湯が効いたのか
静かになって眠っている
はぜる火を見つめながら
沙耶も次第に
うつらうつらと眠りに入った

後編へ続く…


ことばはこころ。枝先の葉や花は移り変わってゆくけれど、その幹は空へ向かい、その根は大地に深く伸びてゆく。水が巡り風が吹く。陰と光の中で様々ないのちが共に生き始める。移ろいと安らぎのことばの世界。その記録。