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story 月夜〜後編〜

これが観音様だよ
朧げな記憶の彼方で
母が言う
ふくよかな頬に
細い目をした木彫りの像は
泣いているのか
笑っているのか
幼い左伊には
分からなかった
ただ
母のようだと思った
微かに香の匂いがする
ハッとして左伊は
起き上がろうとしたが
背中に猛烈な痛みが走り
思わず声が漏れた
静かに…
すぐ横で気配がした
気配は左伊に触れた
まだ動いてはいけない…
左伊は耐えつつ気配を追った
声の主が
湿った物を左伊の唇に寄越した
甘く僅かに苦味がある
どこかで嗅いだことのある匂いだ
躰が欲しているのか
左伊は促されるままそれを啜った
どこで嗅いだか…
思い出そうとする左伊を
遮ろうとするように
眠気が襲ってくる
左伊は抗うことのできないまま
再び深い眠りに落ちて行った…

左伊が目を覚ましたのは
それから数日も後のことだった
沢の近くの岩陰に
ムシロがひかれ
炉が切ってあった
向こうから歩いて来る者がある
左伊の横へ座ると
随分顔色が良くなったと言った
香の匂いがする
村人とは衣の様子が違う
薬師か…
左伊は尋ねた
世話になったようだ…
女は黙って汁の入った
腕をつき出した
薬湯で煮た粥だ
ゆっくり啜って飲め
七草のような匂いがする
途端、左伊の腹が鳴った
女はククと笑った
丈夫な躰だ
倒れていた時
獣かと思うた
カッと目を見開き
私に切りかかったのを
覚えているか
左伊はまるで覚えていなかった
すまぬ…
よい
女はまだ笑っている
お前
およそ間者に向かぬ男だ
鍬でも持って
田畑を耕している方が
余程楽しかろう
そう言われて
左伊も可笑しくなった
笑おうとしたが
傷が痛んで
顔が引き攣れた
およそ間者には向かない
分かっていたことを
見ず知らずの薬師の女に
言われてしまった
名を聞いても良いか…
沙耶…
お前は
左伊という
死に損ないだ
死に損ないか
それにしては…
沙耶は左伊を見た
沙耶の目が
観音像に似ている
お前が私を呼んだのだ
あの日私は
村の御産で赤子を取り上げ
庵へ帰る途中だった
赤子はよく泣く元氣な
男の子だった
お前も同じだ
お前は生きようとしていた
お前が私を呼んだのだ
沙耶は繰り返した
八方手を尽くしても
離れていく魂魄もあれば
お前のようにしがみつく魂魄もある
どちらが良いと言うのではない
おそらく定めだ
沙耶は左伊を見つめている
傷が癒えれば
別の苦しみも湧いてこよう
だが
お前の主人は
お前ひとりだ
幾重に頸木が巻かれていようと
お前の主人は
お前ひとりだ
そうだろう
沙耶は言った
最後の言葉は
自分に
言い聞かせているようでもあった
左伊は粥をすすると
礼を言った
さて
私は行く
お前はどうする

左伊が黙っていると
沙耶は左腕にできた傷を見せた
お前は私に借りがある
婆婆への土産の酒も
お前に全て使ってしまった
けりをつけるのも結構だか
執着することもない
沙耶は薬師の箱を背負うと
来いと言った
馳走してやる
婆婆は近頃
男手が欲しいと
ぼやいていた
お前が来れば喜ぶだろう
どうするかは
それから
ゆっくり決めればいい
お前の定めは
いつもお前の中にある
下弦を過ぎて
細くなった月が
明け方の空に浮いている
沢から吹く風が心地良い
左伊はその風に
身を任せてみたいと思った

沙耶編へ続く…


ことばはこころ。枝先の葉や花は移り変わってゆくけれど、その幹は空へ向かい、その根は大地に深く伸びてゆく。水が巡り風が吹く。陰と光の中で様々ないのちが共に生き始める。移ろいと安らぎのことばの世界。その記録。