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アクションとリアクション by Swami Dayanada Sarasvati 訳:Muktih

前書き

私たちがリアクション(反射的な反応/自分を失って感情に任せた反応)をしてしまう時、状況を良く判断せず、自分の意志をも活用出来ずに行動しています。このリアクション(反射的な反応)が積み重なり、パーソン(根本的自分)の上にパーソナリティー(人格)を形成します。どんな状況においても自己認識を忘れずにいれば、心の中に十分な余裕が生まれ、自分に与えられた役柄をなすべく行う事が出来るのです。今まで積み重ねてきたリアクション(反射的な反応)も清算されるでしょう。その時、その人は作り上げられたパーソナリティー(人格)ではなく、自分と他人を受け入れられるパーソン(根本的自分)となります。
スワミ ダヤーナンダ サラスワティー

人生はロールプレー

アクションとリアクション(作用反作用の法則)は、物理の授業で習った様に、作用に対して、大きさが等しい逆向きの力(反作用)が働くという法則です。たとえば、あなたが壁に力を加えた時、壁が同じ大きさの力を返してくるという法則です。ここでは、この作用反作用という用語を日常生活においての私たちの物事に対する反応という意味でみてみます。

人生には人間関係が付きもの
生活をしていく上では、あなたの意志に関わらず、現実社会との関係を避けたり、影響を受けないでいる事は出来ません。生きていくだけなら社会と関わりを持たなくても良いのですが、きちんと生活をするのならば、社会と関わりを持たなくてはいけません。熟睡中は現実社会とは無関係に生きています。それどころか、熟睡中のあなたにとって、現実社会は存在していないのと同じです。人間関係も、過去の記憶も、今とても気になっている現実問題さえも、眠っているあなたを悩ませたりはしないでしょう。その時のあなたは、ただ単に生きているだけ、存在しているだけです。昏睡状態でも同じように現実世界と関わりを持たずに生きています。生命維持装置があれば昏睡状態で何年も命を取り留めておく事が出来ます。しかし、それは生活をしているとは言えません。きちんと生活をするのならば現実社会と関わりを持たないといけないのです。

全ての人間関係には二つの要素があります。一つはあなた=関係を持つ人、もう一つはあなたが関係を持つ相手または状況です。この二つの内、後者は常に変化していて、その物自体が他の物に変化する場合もあります。例えば今見ている対象物が火だとして、次に見るものが水だとします。この二つの火と水は全く違う性質を持つものです。また、あなたが父親に会い、その後に息子に会うとします。関係を持つ対象物が全く変わり、意識の対象が父親から息子に変わりました。感覚器官においては、形、におい、音、触感、味などといった、捉える対象物が常に変化します。すなわち、あなたが関係を持つ外の世界が常に変化しているのに対して、その世界を捉えているあなたは変化をしていないのです。物の形を捉えている人は同時に音を聞くこともできます。その形を捉えて音を聞いた人が他の人に話をする事も可能です。その人=“あなた”はそのままで、関わりを持つ対象物が常に変化しているのです。ですから、関わりを持っている二つの要素の内、一つが常に変化していて、もう一方の関係を持つ方は変化していないという事が出来ます。あなたの関わる人が父親、息子、叔父、旦那、友達、ライバル、上司、従業員と誰であろうとも、あなたは変わらずあなたのままです。また、あなたの行動が見る事、聞く事、歩く、話す、歌う、匂いを嗅ぐ事と何であろうとも、あなたはあなたのままです。この事は思考の変化という視点から見ても同じ事が言えます。疑問を持つ人自体が決断をし、嫌いだと思う人が一方で好きだという感情を抱き、とても優しい人が残酷であったりもします。(これらは思考が変化しているだけであって、)その人自体は不変でそれがあなたなのです。

不変な要因
この不変な“あなた”をもっとよく見てみる必要があります。果たして完全に不変でしょうか?そうとも言えない事に気が付きます。なぜなら誰に対して関わりを持つかで立場が変わってくるからです。父親に対してあなたは息子です。一方、息子に対しては、それまでのあなたは(父親に対しての)息子ではなく今度は父親です。あなたが変化しています。姉に対して“私”は弟で、妻に対して“私”は旦那であり、先生に対して“私”は生徒です。このように、人間関係において、“私”も変化するのです。

この“私”における変化は、“私”が関わる他の対象物の変化と比べたら、全体が変化している訳ではありません。意識の対象は目で見て認識した物から次の瞬間には耳で聞いた音に移り変わる場合もあります。対象物は友達から全く知らない人になったりもします。好きな物から嫌いな物に移り変わることもあります。すなわち、対象物の変化は全体的である一方、その変化を捉えている主体である“私”は他の物に変わってはいません。もし私自体が移り変わっているのだとしたら、物事の関連性が全く無くなってしまいます。“父である私”は“息子である私”になりますが、“私”は完全には移り変わっていません。もし“私”が完全に移り変わるのだとしたら父親も息子も居なくなってしまいます。なぜなら、息子に対しての“父である私”が消えて居なくなってしまったら、息子の代わりに現れた別の人はその父親に接する事が出来なくなってしまうからです。不変な要因が主体に無ければ、経験を連ねていく事が出来なくなってしまいます。ですから、経験を捉える主体は関連を持つ対象によって変化はするものの、その変化は全体ではなく、属性的で部分的であると言えます。

この主体である“私”における部分的な変化は、“私”自体には何の痕跡も残さない様です。あなたがお姉さんと話をしている事を想像してみて下さい。そこに、奥さんが来て、あなたは奥さんと話し始めました。奥さんに対しては、(お姉さんに対しての)弟は完全に消え去り旦那という立場になりました。弟だった同じ人が旦那になったのですから、その主体であるあなたはそのままそこに変わらず居るのです。この様に、前の立場は主体であるあなたに何の痕跡も残していったりはしません。ですから、新しい立場になりきる事が難なく出来るのです。この事は人生におけるとても重要な真実を解き明かしてくれます。何かと関連を持つ度に、自分の本質を変える事なく変化をしているという事は驚くべき能力なのです。この能力こそがあなたの人生を活き活きとさせ、自由なものにしてくれるのです。もしこの真実を十分に理解出来ないのならば、それは残念としか言いようが無く、人生はとても悲惨なものになってしまいます。

この不変の“私”はある特定の状況と場合においては、あたかも移り変わっているように見えます。あなたが好きな物に接している時、あなたはその対象物が好きな人。しかし、次の瞬間、嫌いな物に接したら、すぐにその対象物が嫌いな人になります。両方の状況において、“私”は間違いなく存在しています。この“私”は不変でその対象物が好きな人でも嫌いな人でもないのです。そうではないですか?この真実を理解すれば、人生を全うしたと言っても過言ではありません。

人生はロールプレー(役柄を担い行う事)
もし、このあたかも移り変わっているように見える不変の“私”がすべての状況にあるのだとしたら、その状況を芝居の役柄として見る事が出来ます。例えば、あるお芝居で役者Aが物乞いの役柄Bを演じるとしましょう。その役者は本物の物乞いの身振りや乞い方を良く観察して、とても上手い演技をするので、自然と沢山のお給料をもらっている事も付け加えておきましょう。また、役柄の物乞いの感情は本物の物乞いには無い、場面ごとに流れるBGMによってステージで強調されるでしょう。ですから、役者Aはステージにおいて観客が同情してしまうような物乞いとなります。人々が彼を罵り、つばを吐いたりしますが、それには抵抗をしないで耐えます。ある人はお金を与え、物乞いはそれを笑顔で受け取ります。ある時は泣く場面もありますが、この役者Aは大役者なので自分の意志で本当の涙を流します。物乞いは幸せだったり、辛かったり、楽しかったり、悲惨であったりと様々な経験をします。しかし、これらの経験は役者Aに影響を及ぼしているでしょうか?この役者は役柄Bに属する数々の問題を被るのでしょうか?いいえ。例え涙を流している時でさえ、彼は役柄を演じている事を忘れていないでしょう。役柄をとても上手く演じているので、心の中では微笑んでいるかもしれません。それが出来るのも、彼が彼自身を失っていないから、つまり自己認識があるからです。

逆に、もしこの役者が自分を本当の物乞いだと思い、役柄に巻き込まれてしまった場合を想像してみましょう。その様な状況では、彼は演技ではなく リアクション(反射的な反応)を取るでしょう。もし、このお芝居に悪者が登場して、物乞いとのやり取りが行われ、この悪者が物乞いを殴り、物乞いは何も抵抗をしないで耐えるという場面があるとします。しかし、物乞いが役柄を演じている事を忘れてしまったら、悪者に殴り掛かり叩きのめしてしまうでしょう。

彼が悪者を叩きのめす場面は想定されていません。そんな事は台本には載っていないのですから。カーテンが下がり、お芝居は中断してしまうでしょう。ディレクターが役者に理由を尋ねれば、物乞いは“彼が殴ったから殴り返したんだ、なんで彼は殴ったんだ?”と言うでしょう。彼の殴り返した事はリアクション(反射的な反応)ー彼の中に沸き起った感情のそのままの表れです。それと同時に、彼はお芝居を演じている事を忘れてしまいました。普段は役柄の問題は役柄に留まり、役者に影響は及ぼしません。役者Aは役柄Bの問題を自分の事として捉えたりはしません。役者Aと役柄Bの間に距離感があるので、役柄Bの問題は 役者Aに影響を及ぼさないという事です。しかし、役者Aと役柄Bの間に実際の距離があるのでしょうか?役柄Bの鼻は役者Aの鼻で、役柄Bの目は役者Aの目で、役柄Bの体は役者Aの体で、役柄Bの心は役者Aの心なので、そこには距離などありません。役柄Bに固有の立場があるわけではないのです。Bは独立して存在をする事はありません。Bは“私”を堪能する事はないでしょう。Bはアートマー(自我)を持っていないのです。ですから、BはAです。だからといって、Bの問題はAのものになるのでしょうか?この事が成立するのはBがAであり、それと同時にAがBである時だけです。この場合においてのみ、ひとつの問題がもう一方の問題になるのです。しかし役柄Bは役者Aであるのに対して、役者Aは役柄Bではありません。

AはBではないという事実は役柄 Bを演じ終わった時だけではなく、AがBを演じている時でさえも当てはまります。この事を明確に理解しなくてはいけません。この理解がニャーナ(知識)と呼ばれます。役者AがAで居るためには、役柄Bを放棄しなくても良いのですーこの放棄している状態は熟睡中と昏睡状態に起きますが実生活の中では起こりません。人生には人間関係が常にあります。もしAがBでないのであれば、どうしてBを放棄してAになりきる必要があるのでしょうか?実際、AはBからCに、CからDになっても、AはAのままです。

役柄Bは役者Aであるのに対し役者Aは役柄Bでないのは明確です。役者Aが役柄Bの問題に影響を受けないでいられるのは、役者Aが自分は役者で役柄Bを演じているのだと認識している時です。彼は役柄を完全に演じきっていても、自己認識を失わないでいます。役者Aが自己確信を持ち役柄を演じるとき、そこに起こるのはアクション(するべき事をする)だけで、リアクション(反射的な反応)は起こりません。

役柄は避けられない
この様に、役柄Bは役者Aに頼って存在しているのに対して、役者Aは役柄Bに全く頼っていません。この事は重要な意味を持つので、誰もがきちんと理解するべき事実なのです。もしあなたが役者だとしたら、場面場面において、役柄に巻き込まれてしまわないように訓練が必要なのと同じです。

もし役者が与えられた役柄を演じきれなければ、その役を降ろされてしまうだけで済みますが、私たちが現実において役柄を避ける事が出来るでしょうか?

現実社会では、気付きもしない内に役柄を背負っている場合があります。産まれた時から既に、父親に“息子が産まれた”と言われ、兄には“弟が産まれた”と言われ、他の人達は“孫が産まれた”、“いとこが産まれた”などと言われるでしょう。統計学者には“私たちの人口は1増えました”とも言われるでしょう。あなたの物心が付く前から、人間関係は始まっているのです。産まれるという事自体が人間関係なのです。人間関係の中で産まれ、人間関係の中で生きていくのです。あなたは常に役柄を背負っているという事になります。

感覚器官を使っているだけでも、役柄は当てはまります。何かを見ている時は見ている人になるのですから。しかし、この“私”は先天的に見るという属性を持っているのでしょうか?もしそうだとしたら、常に見ている事になります。そうではなく、見る人であったり、聞く人、考える人、歩く人、食べる人などになるというのが真実です。“私”は変わる事なくそのままです。この“私”が見る人や聞く人などという役柄を担うだけで、あなたはそれらの役柄自体ではありません。バガウ゛ッドギータの中でクリシュナ神は言います。『“それ”(根本的自己)は9つのゲート[体の目、耳、鼻、口、肛門、尿道の9つの穴を指す]がある町[体を指す]で何もせず、また誰かに何かをさせる事もなく満ち足りた状態で宿っている』(Bhagavad Gita 5-13)

賢者は物事をする事なくこなすと言われます。なぜなら役者と役柄の間に距離があるからです。それは物理的な距離ではなく、知識という距離です。賢者は真実の“私”の姿を知っていて、自分はただ単にステージの上で役柄を演じているだけだという事実に気付いているのです。

ですから、私の立場が明らかになってきます。一時的な立場が役柄で、“私”はそれらの役柄の中で常に移り変わらない存在です。自己認識がある人はその役柄が自分自身に先天的に属する物ではない事を知っています。見る事は“私”が存在しなければ可能ではありませんが、“私”は単に見る人である訳ではありません。これが真実です。そうだとしたら、人生すべてがロールプレー(役柄を担い行う事)となります。あなたや私を含む誰もがこのロールプレーを避けて生きていく事は出来ません。このロールプレーを避ける事が出来ないのなら、そのロール(役柄)を行うのが誰なのかを知る事も避ける事が出来ません。役柄を行う事も自分自身を知る事も選択の余地はありません。なぜなら、もしこの役柄を担っている“私”の真実を知らなければ、私は役柄自体になってしまうからです。そうなると、人生は悲劇です。

父親の役柄を担っている時、もしその役柄を担い行っているという事実に気付いているのなら、父親は単に役柄に過ぎません。役者の役柄を演じているという認識が常に頭のどこかにあるので、自分は役柄ではないという自己認識を忘れない様にする必要もありません。意識的に自分自身を忘れない様にする努力も要りません。そして、父親の役柄を実生活で担い行う時は、脚本通りに、自分の知る限りまた出来る限り一番の父親という役柄をこなしている事を知っている事になります。しかし、この世には万能の知識と能力を備えている人などいないので、正しくない事や間違いをしてしまう事もありますが、それはそれで良いのです。重要なのは、私は役柄を担い行っているのであり、役柄にはならないという事を知っている事です。

役者が役柄になってしまう時
残念な事に、私たちが成長する過程ではこの“私”が単に役柄を担い行っているという事を知る機会がありません。産まれてすぐさま息子という役柄があり、父親、母親、旦那などという役柄を担い行います。私たちには自分自身を注意深くまじまじと見てみる機会はありません。これらの役柄を担っているにも関わらず、これらの役柄を行っているのは“私”という事を知らないのです。知らないのにも関わらず、その役柄を担い行わなくてはいけません。役柄を演じている人自身を知らなければ、その役柄がその人自身になってしまいます。ですから、父親の役柄を担い行っている場合、もしその人に“私”が役柄を担っているという自覚が無ければ役柄が真実になり、その人は役柄である父親自体となってしまいます。

ここで、自分の思う様に息子を育ててきた父親の例を見てみましょう。この父親は息子を育て上げるために自分がなすべき事すべてを尽くしてきました。学校に通っている間は、息子は父親の願いや希望を叶えてくれるかに見えました。父親は息子が科学者になる事を望んでいました。しかし、大学に行き始めてから息子は変わってしまいました。彼がする事といえば、破れたジーンズでシャツのボタンを留めずに、マフラーの無いバイクを乗りまわす事だけです。父親はとても落胆してしまい、息子の事を思う度に血圧が上がってしまいます。その理由は、この父親は、自分は父親であり、父親自体であると思い込んでいるからです。この父親という役柄は、奥さんと話している時、会社で働いている時でも消えません。彼は、息子の事が頭から離れないが故に、一日中不機嫌な父親であり、同時に不機嫌な旦那でもあります。この父親、旦那は役柄に留まってはいません。役柄とパーソン(根本的自分)が同体化してしまい、一つになってしまっているのです。しかし、実際に存在するのは根本的自己で、父親でも旦那でもありません。この男性はこの女性=妻に対して旦那であるだけです。同じ様に、この女性はこの男性=旦那に対して妻であるだけです。

この世に妻、旦那、息子、兄自体であるという人は居ないのです。そこにはただ異なる状況において違う役柄を担い行うパーソン(根本的自分)が居るだけです。このことを理解していなければ、役柄の問題がその人個人の問題となってしまうのです。もし父親という役柄が問題ならば、他の全ての役柄が問題となります。例えば、ある人が車を運転している時、もし運転手が役柄だという認識が無ければ問題となるでしょう。その人はイライラのかたまりとなるのですから。

努力を要する役柄
問題の無い役柄や状況などというものは存在しないので、担う役柄は全て問題となります。鼻があれば鼻風邪をひいてしまう様に。問題や努力を避けて状況を切り抜けて生きていくのは不可能です。実際、それぞれの役柄には波瀾万丈が付き物なので、人生そのものがドラマなのです。人生がバラ色で全てがとても美しく見えても、何かの拍子で急変してしまう場合もあります。雷が轟き雨雲から大雨が降り出す様に、全てが涙で濡れてしまうという事も。状況が変わる度に雲が出てきて涙が出たり、それらが去って太陽や星が出たりと、人生での状況は常に変化するのです。

役柄を担い行うという事は容易にはいきません。実際、波の無い水面でヨットに乗るのは楽しくありません。セーリングはそこに風があるから楽しいのです。その風もいつも思う様に吹くとは限りません。波も思う様なものが来るとも限りません。そのような状況で、自分のヨットを違う方向に向けようとする時には努力が必要です。このチャレンジが人生を活き活きとさせるのです。

オチやタネ仕掛けの無い映画を想像してみて下さい。なんてつまらないのでしょう。同じ様に父親、母親、叔父、いとこ、または会社の役員や従業員の役柄に全くチャレンジが無い事も想像が出来ないでしょう。そこに解決策を求める難題が無ければ考える人になる事も想像できません。チャレンジの無い経済状況などというのも想像出来ません。交通事情に悩まされない運転手も想像出来ません。転んでしまう事が決して無い歩行者だって想像が出来ないのです。これらは役柄を担い行う上での醍醐味なのです。これらのオチやタネ仕掛けが常に変化してこそドラマはドラマになり得ます。ですから、役柄を担わなければいけない時は、役柄から自由で決して役柄に振り回される事の無い、役柄を担うパーソン(根本的自分)を知っておくべきなのです。

パーソン(根本的自分)とパーソナリティー(人格)

サンスクリット語でパーソン(根本的自分)の事をpurṣaプルシャ と呼びます。このプルシャが、見る人、聞く人、考える人などというあらゆる役柄を担い行うのです。このプルシャは、マインド(心と知能)=知覚機能、力=行動機能、物理的な体という3分類されたprakṛtiプラクルティと呼ばれる機能によって構成されています。プルシャとプラクルティは二つの異なる物ではありません。プラクルティは独立して存在する事はなく、プルシャは独立した存在です。プラクルティにはjñāna śaktiニャーナシャクティ(記憶力を含む知る能力)、icchā śaktiイッチャーシャクティ(欲望を含む行動の源となる望む能力)kriyā śaktiクリヤーシャクティ(技術や想像力などを含む行動する能力)という3分類された能力があります。

プラクルティを統括するプルシャはこれらの3分類された能力を享受します。知る能力は私たちに知識を与え私たちの可能性を広げてくれます。望む能力はとてもすごい能力です。私たちは数知れない欲望を持つ事が出来、行動する能力の助けによって、それらの欲望を満たす事が出来ます。知る人、望む人、行動する人などという役柄を担っている場合はこれらの能力を駆使しているのです。しかしこれらの役柄はプラクルティに属していて、プルシャはそれらの役柄とは独立して存在しているのです。人には生きていく上でそれぞれの役柄があるのですから、役柄は役柄、根本的自己は根本的自己と分別する必要があります。その分別がしっかりとついていると、役柄が役柄となり得ます。この分別は、識別する能力、viveka jñānaヴィヴェーカ 二ヤーナと呼ばれ、シャーストラ(古代から伝わる聖典)を学ぶ事で得られる知識です。
役柄を担うプルシャ(根本的自分)の性質がきちんと理解されていないと、役柄が現実となり、根本的自己が忘れられてしまいます。AがBとなり、プルシャが役柄と混同されるので、役柄の問題がその人の問題となってしまいます。しかし、根本的自己の理解があれば、問題が起きてもそれに影響される事なく処理できるのです。問題を処理する事はしなくてはいけない事ですが、問題にリアクション(反射的な反応)をしてしまう事は問題となります。もし、このリアクション無しに問題を処理する事だけが出来れば、現実を処理していることになります。

ここに、役柄または出来事に関する問題と、“私”をとりまく問題という様に2種類の違った問題を見る事が出来ます。例えば、お金やゆとり、設備が不足している時、それを解決するために何かをする事が出来ます。しかし、もしお金がない故にそれらのゆとりがある人に嫉妬したりするとなると、これはもう一つ別の問題、“私”をとりまく問題です。このような問題は私を悲しくさせ、イライラさせます。その様な時はこの嫉妬に打ちのめされ、私の持つ知能や行動力などの能力が発揮されなくなってしまいます。私のリアクション(反射的な反応)がこれらの状況を処理するのに必要な能力までもかき消してしまうのです。私がリアクション(反射的な反応)をする時、状況を解決できる能力を自己認識と共に失ってしまいます。

リアクションは 自然と反射的に起こる
リアクションは自然と反射的に起こる事です。即ち、意識的な判断ではありません。それは、あなたの知性や立場、文化、年齢など何も考慮しません。あなたは今までの人生でこれらの知性や名誉などを手に入れてきたかもしれませんが、リアクションをする時は意識的に判断をしている訳ではないので、それらの知性や名誉は無いのと同じです。例えば、怒りはリアクション(反射的な反応)です。意識的に怒る事が出来るかどうか試してみて下さい。声を荒立てたり睨んだりなど、怒っている振りなら出来るかも知れませんが、怒っている人にはなれません。あなたの息子でさえあなたが振りをしているだけだという事を見抜くでしょう。もし本当にあなたが怒っているのだとしたら、あなたの息子は近寄っても来ないでしょう。この違いは子供にだって明らかなのです。あなたが何を何のためにしているのか理解した上で、意図的に睨んだり厳しくしたりする事はリアクションとは違います。本当に怒っているときは怒りの中に我を忘れて自分が何をしているかに意識を向ける事が出来ません。これを表す良い例で、師匠と弟子の話があります。師匠が昼寝をするので弟子に蠅や他の虫が来ない様見張っている様に言いました。弟子は必死で蠅を追い払うのですが、蠅はお決まりの様に師匠の鼻の辺りを飛び回ります。弟子は怒りに駆られ大きな石で蠅を叩きつぶしました。ちょうど、蠅が師匠の鼻に止まったところで!蠅は死にましたが、師匠も起き上がる事はありませんでした。

このように、怒りのようなリアクションが起こる時、正しい判断が出来なくなってしまいます。今まで得てきた知性はどこかへ行ってしまい、反応をするのは怒りや他の感情に駆られて全く別人となった自分です。さらに、意識的に怒ったり、嫉妬したり、イライラしたり、ムカついたり、悲しくなったりする事は、あなたがいくら頑張っても無理なのです。ですから、これらのリアクションは無意識であるという事が明らかです。あなたがもし、これらのリアクションが起こらない様に出来るのなら、状況に的確に対応が出来ます。状況の対処に何の問題も無いでしょう。しかし問題は、あなたはあなた自身のリアクションを制御する事が出来ないので、リアクション(反射的な反応)をとらないという心構えは常に打ち負かされてしまうのです。

ロールプレーはカルマヨーガ
プルシャ(根本的自分)が役柄をこなすという事だけではなく、このプルシャは役柄ではないのだという事を知るのは大きな救いです。自分が主人自体ではなくただ単に主人の役柄をこなしているだけだという事を理解した時、役柄の問題から自由になれます。さらには、主人が役柄という事を知れば、妻も役柄ですし、また母も役柄ということになるので、私がしなくてはいけない事は役柄を脚本通りにこなす事だけです。ウ゛ァガバッドギータがスワカルマ(自分に与えられた役割)を説く時、言動を脚本通りする事を意味します。どの役柄にも脚本があります。もし、この脚本通りに意識的に役柄をこなす事が出来るのならば、人生はカルマヨーガとなります。


ロールプレー(役割を担い行う事)をするという事は宇宙の創造に関わるという事です。ウ゛ェーダ(古代から伝わる知識)の見解では、宇宙の源=イーシュワラは創造主であると同時に被創造物でもあるのです。また、創造の源となる知識体であり物理的源でもあります。そして、全ての創造が終了しても、イーシュワラは休みません。イーシュワラがダイナミックに活動している事は、この創造された世界を見れば明らかです。このイーシュワラの創造主としての姿がブランマー、維持をする役柄としての姿がヴィシュヌ、破壊をする役柄としての姿がルッドラです。イーシュワラはこれらの役柄を常にこなしています。新しい物が生まれているので創造は一瞬一瞬起こっていると言えます。同時に、維持と、また古い物は新しい物に立場を譲るので、破壊も常に起こっています。この循環プロセスは創造の調和を保つために維持されています。例えば時間をみてみると、一瞬が生まれ、存在し、消えていきます。これに時間という観念はどのように関わっているのでしょうか?創造と維持に距離はあるのでしょうか?維持と破壊にはどうでしょう?イーシュワはこれら3つの側面を同時に、難なく役柄としてこなします。

この様に、宇宙創造において、私はこの世に体、心、感覚器官と行動器官持つ個人として生まれたのです。これらの機能を持ち備えているので、ただ単にこの世を受動的に受け入れるためだけに生まれたのではないという事は明らかです。どうして五体と器官を持ち備えたのでしょう?ただ単に受動的な傍観者としてなら、頭だけで他の体の部分は要らなかったでしょう。そうではないからです。知る能力や行動をする意志を持ち備えています。さらには、これらの能力を発揮するのに必要な資源も与えられています。ですから、社会秩序に積極的に参加する様に意図されているのです。この参加とは役柄を担い行う事を意味します。プラクルティが役柄にのめり込むかたわら、プルシャは巻き込まれる事なく役柄をこなします。プルシャは役柄のベースとなり、根本的には影響を受けません。役柄はプルシャに何の痕跡も残さないのです。

役柄を脚本通りに担い行う事をカルマヨーガと呼びます。この脚本は誰でも知っているものです。または聖典やそれらを知っている人から受け継がれたものです。この脚本通りに役柄をこなす限り何の問題も起こりません。ある一定の役柄に関しては、役柄を選ぶ事も出来ます。ですから、もし与えられた役柄が困難であれば、その役柄を担わないで他の役柄を担う事も可能なのです。勿論この時には、役柄の選択があなたの他の役柄に影響を及ぼさない事を考慮しなくてはいけません。人生において、しばしば選択の余地がない時もあります。あなたが息子としてあなたの両親に生まれたのには選択がありません。あなたに息子が生まれたのなら、その子の父親になる事にも選択の余地はありません。この様に、選択の余地のない、または限られている数々の役柄を担い行わなければいけません。実際、困難な役柄の方があなたの忍耐力や才能を伸ばしてくれるのです。問題は役柄にあるのではありません。問題は自分が役柄だと思い込んでしまうあなたの考えにあるのです。主人や妻である事は問題にはなりませんが、自分を役柄だと取り違えてしまう事が問題なのです。

リアクションが人格を作りだす
もし、“反応をしないで下さい”と言ったとしても、反応をしない事は無理でしょう。先にも言った様に、反応は自然と反射的に起こる事で、あなたの承諾を得たりしないからです。このアドバイス自体にあなたは自然と反応するかもしれません。ある人が私の所にやって来て、自分はもう怒ったりしないと言いました。
“スワミジ、最近私はもう怒ったりしないんですよ。”
“そんな事はないでしょう。”
“本当ですよ。怒らないんですって。”
“そんな事がある訳ない。怒る状況に出くわせば、怒るでしょう。”
“違います。怒らないって言ってるでしょう。”
この人がどのように私のしつこい返答に反応したか想像がつくでしょう。彼は声を高めて、
“私の言っている事がわからないのですか?私は怒ったりしないんですよ!”
そして私は、“そうですね、本当にその通りですね。”と即答しました。
彼に本気で怒って欲しくなかったので、しつこい抵抗を止めなくてはいけませんでした。彼はある時点まで感情を抑えていましたが、それ以降は怒りが爆発する前兆を見せました。単なる心構えが怒りを抑えるのに十分ではないのは明らかです。なぜなら、リアクションは反射的に起こる事なのですから。怒りはあなたに承諾を得たりしません。ですから、予期出来ないのです。

この理由は、それぞれのパーソン(根本的自分)がパーソナリティー(人格)になっているからです。プルシャは純粋、無垢で美しく、満ち満ちています。各々が作り上げるパーソナリティー(人格)から問題が生ずるのです。パーソナリティー(人格)はこれらの自然と発生するリアクションの集結に他ならないのです。

様々な役柄を担い行っていると、発散できない数々のリアクションを溜め込む事があります。会社での場合を見てみましょう。あなたに言いたい事を言い、やりたい様にする上司が居るとします。彼があなたに役目を言い付けます。あなたはそれが適切ではない事を知りながらも、ノーと言う事を渋ります。この上司は彼自身の精神的問題を抱えているので、見下されていると思うかもしれないからです。彼は自分が間違っていると指摘される事に弱いのです。それを強制すれば、彼はリアクションを取るでしょう。それでも、あなたは間違っていると知りながら物事をする事が出来ないので、上司に楯突く事が出てきます。そんな時には、上司は怒り、あなたを罵るのです。あなたはあなたで自分の問題や弱点があるので、同様に怒ります。しかし、上司は怒りを発散できる立場に居ますが、あなたは違います。仕事を失いたくなく、仕事を失う事はあなたの家庭に多大な問題を与えるので、怒りを飲み込まないといけません。

家庭のために怒りを飲み込みますが、その怒りはどこに行くのでしょう?どこに行く事も出来ません。あなたの中で煙を吐きながらあなたの人格の基盤を築いていくのです。もし雇われ社員としての役柄が困難ならば、父親、娘、母などの役柄も同等に困難でしょう。どの役柄も困難が付きものです。役柄をこなす事が難しくなるのではなく、自己洞察に欠けているからなのです。あなたは、いろいろな役柄をこなさなければなりませんが、それぞれの役柄が痕跡を残していけば、役柄といえども、他の役柄に影響を及ぼしかねません。

奥さんと喧嘩をした男が居るとします。家から出る時にドアを荒々しく閉じます。この様なドアの閉じ方がこの男がまだ主人という事を物語っています。奥さんを残して来たのに、主人としてのハングオーバー(二日酔い)がまだ残っているのです。この様な事が起こるのは、主人が単なる役柄ではなくなり、根本的自分に入り込んでいるからです。彼の怒りは治まらず、車のドアの開け方、エンジンのかけ方、運転の仕方にも、会社に着いてからもそれが現れます。主人はまだ残っているのです!この様に一つの役柄が他の役柄と折り重なり、リアクションが積み重なり人格を形成していくのです。

私たちの人格は怒り、嫉妬、嫌悪、イライラなどのリアクションの残骸で形成されている事がわかります。ですから、全ての人がか弱いのです。人格の中にボタンがあり、このボタンが押されるとこの人は爆発してしまいます。奥さんは主人が気に障る範囲を心得ています。彼女は子供に何かをせがんだり、ある状況を作らない様に警告さえもします。この様に、全ての人はパーソン(根本的自分)ではなくなり、予期できたり、予期できないパーソナリティー(人格)となっているのです。このような人が家庭を崩壊するのです。

パーソン(根本的自分)は常に自由

パーソン(根本的自分)はパーソナリティー(人格)から自由である事を知る
このパーソン(根本的自分)を知るには、リアクションが根本的自分と役柄の混同にある事を理解しなくてはいけません。この混同は、何にも振り回されず物事に良い悪いのラベルを貼らないプルシャ(根本的自分)を良く知る事から解決できます。青い空、無数の星、鳥や花などの自然を見ている時、“きれいだなあ”と思うだけです。その時はとても幸せであなたは満ち足りた人です。忙しい時は頭がいっぱいで、セカセカします。自然の美しさを楽しむ事は出来ません。心に美しさを楽しむ余裕がないのです。美しさを賞賛し、“これはなんて美しいのだろう”と言う時、“これ”に美しさを見いだします。ところが、よく考えてみれば、(“これ”が美しいと思うのに、違う状況、即ち異なった心境では同じ“これ”に美しさを見ることができない場合があります。ということは)あなたが賞賛する美しさは満ち足りているあなた自身なのです。物事に美しさを見いだすのは快い事ですが、その美しさは満ち足りている自分自身なのだと理解した時、それは瞑想になります。この満ち足りている自分自身があなたなのです。もしこれを全ての快い経験に見いだす事が出来れば、その経験一つ一つがヨーガ、自己賞賛になります。

日常生活の中でもこの心を落ち着かせる自己賞賛を駆り立てる場面があります。衝撃的で心を打たれる場面においては、普段は外の世界に対してリアクションをする、何百もの好き嫌いや要求を持つ人格はおとなしくなります。それらを呼び起こす人、出来事、場面またはジョークでさえもこの自己賞賛を駆り立てるのです。幸せな瞬間や何かを楽しんでいる時、または心が落ち着いている時に自分自身を見てみると、自己賞賛(自分を正しく評価すること)・自己認識(自分が存在しているという認識)・自己受容(ありのままの自分を受け入れること)があるのが良くわかります。自分自身を良く知る絶好の機会なのです。これこそがリアクション(反射的反応)を取り除く方法です。なぜなら、この事は、リアクションはパーソン(根本的自分)に属していないという事を明確にするからです。リアクションはパーソン(根本的自分)と役柄の混同によって生まれた物なのです。この様な識別する能力があれば、リアクションは支えを失い、機能しなくなります。

パーソナリティは真実ではない
このリアクション関して良い事が1つだけあります。それは真実ではないという事です。パーソン(根本的自分)はいつでも同じで、常に存在し、落ち着いていて、それだけで完全なので、このパーソンこそが真実なのだという事を理解しなくてはいけません。熟睡中や喜びの最中、パーソナリティー(人格)は消え失せ、パーソン(根本的自分)のみが存在しているのです。パーソンはパーソナリティーが物事にリアクションを取っている時も存在しています。役柄があなたに頼って存在している一方、あなたは役柄から独立して存在しているのです。という事は、役柄は事実でも非事実でもないという事です。このように何かに頼って存在しているものをミッティヤーと呼びます。このミッティヤーである役柄から生じたアクション(行為)とリアクション(反射的な反応)もまた同じミッティヤーです。アクションもリアクションもパーソン(根本的自分)に影響を与える事はありません。与えている様に見えるのは、パーソンと役柄の混同によるからです。あなたはこのパーソンの本質を良く見ていません。手入れのされていない家の様に長い間放置されているのです。しかし、一度自己を知ろうと目を向ければ、あなたの生活全てが瞑想となります。

このリアクション(反射的な反応)が偽りだという事に一度気が付いてしまえば、パーソン(根本的自分)と役柄の混同も無くなります。それらはあなたの心に強烈な印象を残して行ったかもしれませんが、その印象でさえ偽りなのです。それらはもう“私”に影響を与える事はないし、与えられません。もしそれらが“私”に影響を与え続けるのなら、あなたは何も楽しむ事が出来ないでしょう。あるがままの花を観賞したり空を見上げた時に、どこにそれらの印象(サンスクリット語でサムスカーラまたはウ゛ァーサナと呼ぶ)があるでしょうか?

根本的自分は常に同じでリアクション(反射的な反応)やインプレッション(刻印)に影響を受ける事はありません。根本的自分は何かを集積する事など決して無いのです。煩悩、不浄、好き嫌いや過去の印象はどれも根本的自己に属する物ではありません。あなたの持つ全ては記憶と共にある心です。全ての問題は役柄に属する積み重ねられたリアクションに他ならないのです。ですから、それらの問題には役柄と同等の真実味しかないのです。波はそれ自体では存在しません。水に存在を委ねています。水がサッテャン(真実)であり波がミッティヤー(真実ではないもの)という事が出来ます。波は水が担う役柄という事です。波の生と死や姿形の持つ真実味は波のそれと同等で、ミッティヤーでしかありません。そこにあるのは水だけです。水は波に振り回される事なく常に水で、波は水にインプレッション(印象)を残していったりしません。同じ様に、役柄は根本的自己に印象を残しません。私やあなた、全ての人は役柄をこなさなくてはいけません。という事は、役柄から常に自由な根本的自己をよく知るべきなのです。これが瞑想なのです。

瞑想は自分との面会時間
ここでいう瞑想はクリシュナ神がバガウ゛ァッドギータ で説く瞑想です。『他の事を何も考えず、 気持ちを自己に向けなさい。』
瞑想では瞑想者を知る事がとても大切です。今日では、数々の瞑想が広まっています。あるところでは“鼻のてっぺんを見る様に”と言い、また別のところでは“眉毛の間”、“どこどこの間”などと様々です。しかし、瞑想をしているのは一体誰でしょう?(根本的自分です。)もし瞑想者がはっきりとしているのなら、瞑想は自然と出来るでしょう。瞑想はあなた自身との面会時間という事が出来ます。宇宙の創造主との対面という事もできます。どちらも同じです。あなた自身との面会なので、役柄から自由にならなくてはいけません。あなたはパーソン(根本的自分)Aであると同時に、あなたとは同一ではない役柄B、CまたはDをこなさなくてはいけません。普段は根本的自分Aに気が付かずまたは見失い、役柄にのめり込んでしまっているのです。ですから、瞑想はここで言われた事を心に留めておく事なのです。役柄B、CまたはDを担い行う時、それらの役柄にはならずに、根本的自分Aが何であるのか知るべきなのです。

役柄になりきってしまっている時はリアクション(反射的な反応)をしがちです。全ての役柄はパーソナリティーに組み込まれリアクター(反射装置)となってしまっているのです。それもすぐにでも動くことができるように煙を出しているリアクター。リアクション(反射的な反応)がパーソン(根本的自己)を制御してしまうのです。もし、あなたが全ての役柄を削ぎ落とし、あなた自身である事を学べれば、その瞑想はこれとない最高の行いなのです。あなたはあなた自身をパーソン(根本的自分)であると認識出来るのです。パーソン(根本的自分)と混同し組み込まれた父親、娘、妻、母親という役柄から自由になるので、これはとても重要な事なのです。その時、知る力、望む力、行動する力の三つの力があなたの意志で十分発揮されるのです。ですから、瞑想は日課としてとても重要なのです。

(本文には瞑想部分がありますが、その瞑想部分は訳しておりません)

ओम् तत्सत्
om tatsat


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