ヴェーダーンタを勉強するという事
コロナ禍で対面でのクラスがあまりできない中、勉強する態度を培ってもらいたいけど、オンラインのクラスでは培えないよね、という話を頻繁にしてきました。オンラインのクラスにしか参加したことがない人は、勉強する態度って何?予習をすればいいの(頑張ってしてるのに。。。)?発言をすればいいの?セーヴァをすればいいの?勉強したい熱意をアピールすればいいの?等と何をしたらいいのか分からない、と思われる方がいるかと思います。
私自身も先生のもとで勉強し始めた際は、勉強する態度がどういうことなのか、そしてその重要性を全く知りませんでした。勉強していく中で、先生のお話や教え、一緒に勉強する方々からいろいろと教えてもらいました。グルクラム(グルのもとで生活しながら学ぶことの)の重要性は、まさにここ、勉強する態度を培えるところ、だと思います。
勉強する態度を培うためには、実際のクラスに参加して限られた時間だけでも一緒に過ごすことが重要なのですが、勉強する態度が培われていないと、対面のクラスに参加できない、というパラドックスが起きてしまい、勉強する態度とはどんなことなのかが分かっていない人は、いつまで経っても分からない、という実例を目の当たりにします。
そして、ここで「勉強する態度①なになに②なになに」と書いて伝わる事でもありません。
なので、皆さんが意識をして、オンラインだけではなく、なるべく実際のクラスに参加をしてこの勉強する態度を色々と学んで行ってもらいたいな、と思います。
オンラインクラスが主流となる昨今の流れを逆流するようですが、便利なオンラインだけじゃなくても勉強したい、と志す方たちと勉強を続けられれば幸いです。
ここで勉強する態度についての逸話を2つ紹介したいと思います:
Janaka王(Swami Dayanada Sarasvati jiのGita2-21講話より ):
王様であり賢者として知られるJanakaにはVashistha という聖人であり超有名な先生が居ました。(Janakaの先生にはYajnavalkya やAsthavakraもいます)
VashisthaはJanaka王のお城のすぐそばにアシュラム(勉強をする場所)を持ち、そこにはBrahmacari(生徒)が通っていました。Janakaもそこに通っていました。
王様なので国を治めるという勤めがあるので、遅れてくることもありましたが、VashisthaはJanakaが来るまでクラスを始めず、いつも待ちました。他の生徒が遅れてきたときは、お構いなく先に始めていました。
それを見た他の生徒たちはVashisthaは権力や財力を持っているからJanakaをひいきしている、と噂し始めました。
ある日、クラスの最中に「お城で火事が起きた」といメッセージが飛び込んできました。お城に滞在をしていた他の生徒たちは、慌てふためきクラスから飛び出し、自分の持ち物(コーピーナ=布一枚の下着=ふんどし、ぐらいしかないけど)が焼けてしまう前に自分の部屋に走って行き、そしてクラスに戻ってきました。
クラスにはVashisthaとJanakaのみが残り、講義が進んでいました。
これを見た生徒たちはVashisthaに「Janakaがいないときはクラスをしないのに、自分たちがいないときは講義をすすめるなんて。。。どういう事でしょうか?」と抗議をしました。
Vashisthaは答えました。「お城はJanaka王の所有するもので、それ自体が燃えていたのに、Janaka王は教えにコミットしているので退席しなかった。あなたたちはどうでしょう?お城やJanakaの所有物するその他の金銀財宝に匹敵しない所有物(コーピーナぐらい)しかないのに、退席していった。それぐらいのコミットメントしかない人たちのために、講義を中断する必要はありません。」
先生はコミットメントのある人のためには何でもするけど、教えに重きを置かない=自分に何が必要なのかという識別能力(Viveka)がない人のために講義をしても意味がない事を知っています。
ここでの例は教えVSコーピーナで他の生徒たちは教えよりもコーピーナに重きを置いた、という分かりやすい例でしたが、きちんとした識別能力(Viveka)で優先順位を決めておかないと、いつまで経ってもヴェーダーンタの勉強にコミットすることは出来ないでしょう。
FaceBookにあった、いつまで経ってもギーターが勉強出来ないの図
ヴェーダーンタの教えは全ての苦しみや悲しみ、死をも越えられる唯一無二の、人間が得ることのできる最高の知識です。
そんな教えを学ぶチャンスを逃さないために、優先順位をきちんと決めてみて下さい。
もう一つは、その素晴らしい教えを学ぶ態度に関して、私がRishkeshのAshramに昔からいるドライバーさんから聞いた話です。
Swami Dayananda jiのお弟子さんにSwami Sakshatkrtananda ji(以下Sakshat ji)という素晴らしい先生がいます。私たちが3年コースに参加した時に、アーチャーリヤとして私たちの面倒見てくれた先生です。
Sakshat jiはSwami Dayananda jiが不在の時は講義を受けるために歩いて20分ほどかかるKailasa Ashramに通われていたそうです。
ある日そのドライバーさんがKailasa Ashramへ向かうSakshat jiを見かけたので、「送っていきましょうか?」と聞いたところ断られたそうです。実際に何と言って断ったのかは分かりませんが、その返事には、これから聖典を学びに行くのに、楽をして、カジュアルに車でひょろっと行くものではない、という態度が見えます。
弘法大師や三蔵法師も知識を求めて中国やインドに危険を冒してまで行きました。ちなみに弘法大師は「死をも越えられる教え」を求め唐へ渡り、先生である恵果さんから密教・仏教として知られている教えを伝授されるのですが、恵果さんの先生は南インドの方で、その教えはお釈迦様の仏教とは明らかに違うヴェーダの教えだったそうです。なぜ仏教として知られたかと言うと、仏教の文字的解釈、仏の教え、とし、当時国教だった仏教に弾圧されないようにカモフラージュをしたそう。これは、当てになる文献を読んだわけではないのですが、そうすると、真言宗では護摩炊き(ホーマ)や聖天(ガネーシャ)や弁財天(サラッスヴァティ)を崇拝する理由が分かります。でも、中国経由なので、その教えや真言は元のヴェーダ教えとはかけ離れてしまっています。弘法大師が唐に渡ったのが、9世紀の初めだったので、もしインドまで渡っていたらシャンカラ―チャーリヤから直接教えを説いてもらってたかも、と想像が膨らみます。
話が逸れましたが、そんな弘法大師でさえ直接学べなかった
ヴェーダーンタの教えは全ての苦しみや悲しみ、死をも越えられる唯一無二の、人間が得ることのできる最高の知識です。
が、ありのまま、学べます。
その教えを必要とするのであれば、Janaka王やSakshat jiのような勉強する態度が必要だと、改めて気づかされました。
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