【弱者とは何か01】このセカイを生き残るために。

 新型コロナウイルスが猛威を振るい、日本だけではなくて世界中で人々が混乱に陥っています。

 もちろん、ウイルスは差別をしないので、富める者も貧しい者も、ある意味では平等に罹患し、また命を落しているという側面もあります。

 日本では有名なコメディアンが亡くなりましたが、お金をたくさん持っていても、病には勝てないということを如実に示す結果となりました。心よりお悔やみを申し上げます。

 しかしながら、それと同時に、コロナウイルスの蔓延を防ぐ政策、対策によって、「収入が減少してしまった人」や「雇用を失った人」あるいは「病院にかかることができない人」なども、たくさん増えてしまっています。

 ウイルスは差別をしないとは言いながら、実際には「弱い人たち」が比較的先に被害を受けているという実態も明らかになってきているわけです。

 これまで、武庫川は「悟るヒント」というブログを通じて、

「この世界はどうなっているのか」「この世界で幸せに生きるにはどうしたらいいのか」ということを考えつづけてきました。

 その中で、武庫川個人の宗教体験や、あるいは「弱者」と呼ばれる人たちとの関わりの中で、(あるいは武庫川自身が弱者であったという時代や側面もあったかもしれません)、この世界を生き延びる方法についても考えてきた次第です。


 さて、これからの連載では、そうした一連の思考を踏まえながら、いよいよ「弱者が救われるにはどうしたらいいのか」ということについて考えてゆきます。武庫川はその昔、エホバの証人というキリスト教系新興宗教に入っていましたが、救世主がもしやってこないのだとすれば、「救いなき世界で、生き延びる」ことを模索しなくてはならないでしょう。

 ですから、この連載では「弱者であっても、かならず生き延びるのだ」ということをテーマにしたいと思っています。


 ところでこれまでの「弱者論」「弱者についての論考」はすでにたくさんの著作や意見が世に出ているのですが、主なテーマとしては「社会における弱者の定義」をベースにしたものが多かったように思います。たとえば

「老人、女性、障害者、在日外国人、被差別部落の人たち」

など、社会からみて「一定の枠組み」の中に、ある特定の人々を落とし込んで論考するものが大半でした。

 ですからそれは「女性論」になったり「老人論、世代論」になったり、「障害論、またその家族論」になったり、あるいは誰かに対してのヘイトか擁護かになってしまっていた面があります。

 フェミニストの人たちは「女性が不利益を受けている」という側面から話します。つまり「女性は弱者である」と。

 また福祉の立場からは「障害を持つ人たちや老人世代は弱者である」というイメージで話をします。そうすると、逆に「年金で金持ちの老人VS損をしている若者」の対立などが浮かび上がってきます。どちら真の弱者かわかりません。

 こうした話を取り上げてゆくと、「それぞれの立場論」になってしまい、真の「弱者とは何か」ということが見えてきません。

 そこで、今回の目線は、それらとは異なるもっと本質的なところから、読み解いてゆくことにしたいと思っています。


 たとえばこんな例はどうでしょう。武庫川はその昔、高校に勤めていました。いろいろな学校があり、いわゆる「お勉強のできる学校」もあれば、「教育困難校」と呼ばれるやんちゃな生徒が多い学校もありました。

 さて、ここで、一昔前の漫画雑誌「マガジン」に出てくるような(もちろん、「ジャンプ」にもありますが)

 ヤンキーが暴れ回っているような、大変な学校

をイメージしてください。盗んだバイクで走り出すかどうかはわかりませんが、荒っぽい男子たちが闊歩していて、ケンカが絶えないような学校、特に高校を想像してしまうかもしれません。

 ところが、そういう荒れた学校というのはせいぜい70年代から80年代くらいまでで、90年代以降はそうした「あからさまなヤンキー」は姿を消しました。もちろん、学校の先生の言うことは聞かないのだけれど

「オラオラ!」と反抗する生徒はほとんどおらず、ただ教師の存在を無視して、話を最初から聞かない

生徒へと変貌しているのです。反抗するのであれば、まだ対話の余地がありますが、彼らは無関係であると思っているので、そもそも話を聞きません。だから結果として、学校は暴力よりも「カオス(混沌)」のように荒れていくということが起きました。


 ところで、そういう教育困難校には、大人しくて人付き合いが苦手で、どちらかというと引きこもりがちな、ベタな言い方をすると「陰キャ」と呼ばれる生徒たちもたくさん入ってきています。

 不思議なことに教育困難校では「荒っぽい生徒」と「ネクラ(失礼!)な生徒」が半分ずつ同じ教室に存在するという異空間が、今も広がっているのが実態です。

 基本的にはこの2つのグループは互いに関わりあおうとしないことが多いのですが、関係性をひとつ間違うとひどいいじめに発展したりもします。なにせ、猛獣と草食獣がおなじオリに入っているわけですから・・・。(失礼!)


 なぜ、こんなことが起きるかというと、一方は荒っぽいウェーイな陽キャで、もう一方は静かでオタクな陰キャという表層があるのだけれど、その根っこの部分を調べてゆくと、

■ どちらの親も経済的には貧しく、あまり子供と関わりあっていない

とか

■ そもそも子供たちに発達障害や学習障害などがあり、そのために困難校へ逆選別されてきている

とか、そういう実態が学校側からは見えてきていたわけです。

 そして、当時の武庫川の教え子たちは、すでに35歳前後になっていますが、彼らが地元で大人になった時に

「地方在住のマイルドヤンキー」になる者や、「引きこもりがちな非正規社員」になる者など

として今度は次の世代へと移り、そこから一部は「家庭を持って子供が生まれて、次の世代が同じような道をたどる」こともわかってきました。

 教え子の中にはAV女優になった者もいれば、離婚を重ねて子供の父親がそれぞれ違う者もいます。彼らの子供たちが、再び学校へ入学してゆくときに、そのループから抜け出せるかと言えば、難しいと言わざるを得ないでしょう。


 そうすると、弱者であるということは「明るい・ポジティブ・仲間とつるむ」「暗い・ネガティブ・ぼっち」といった表層とは、ややズレがあるということなのです。

 教育困難校に進学する生徒は、何がしかの「弱い」ものを抱えていて、それが積もって選別されてしまったということになります。その「弱い」ものの正体はいったい何なのか?とても気になることでしょう。


 学校ついでに、もう一つ例を挙げましょう。地方によっては、「地域の進学校」や「旧制中学などの歴史のある学校」は、

制服がなく、髪型などもしばりがない

という校則自由型の学校があります。大正デモクラシー以来の古い伝統が、逆に息づいていて、「自由と自律」がモットーだったりしますから、彼らは自由に行動することが地域の目からも許されています。

 逆にランクが中くらいの学校は、制服も決まっていて、校則がガチガチで、先生たちに叱咤されながら、一番校に負けるな!くらいの勢いでバリバリに指導されています。

 そして、今度は教育困難校の生徒は、制服を守らず、髪を茶髪にして向こうが透けてみえるくらいのピアスをあけたりしています。あるいは通信制高校や、夜学なんかもあったりしたら制服がないために、結果として

 地域一番学校の生徒と、地域で最下位の生徒が揃って茶髪で私服

なんてことが起きます。

 ところが、前者の生徒は、地域のみなさんから別に怒られたり、眉をしかめられたりしません。「あそこの生徒は賢いから。自由は伝統だから」と許されています。でも、後者の生徒は「やあねえ、どこそこ高校はヤンキーで」と、煙たがられるのです。

 どうして、おなじ格好をしているのに、どちらの学校の生徒なのかによって、周りの対応がこうも異なるのでしょう。

 そこにも、「強者と弱者」を分けているヒントが隠れています。少なくとも、表面的な格好が理由なのではなさそうです。


 可愛そうなことに、弱者な生徒から見れば、同じ格好なのになぜ自分たちは立場がないんだ、と感じます。そりゃあ、よけいにグレるよなあ!と同情したくもなります。しかし、世間の目は冷たく、彼らはけして進学校の生徒と同じ扱いはされません。

 この差はなんなのか。それは「お勉強ができる」ということが、あるいは「お勉強ができない」ということが、この世界ではひとつの大きな

資本、資産、財産、力

と見なされているということを意味しているのです。

 前者の学校の生徒は、「学力とそれによって獲得するであろう立場」をすでに所有しています。地域一番の進学校からは、東大へ行く者、京大へ行く者、あるいはどこかの大学へ行ったり、留学したりして、その地域の上流層をいずれ形成することがわかっているから、許されるのです。

 後者の学校の生徒は、「何も持っていない」ことが地域の人たちにバレています。むしろ、茶髪にピアスが煙たがられるのは、彼らが「地域に何をもたらすのか」を期待されていない、からだったりします。


 こうした事実を、学校の職員は悲しいことだとわかっています。別に茶髪がダメだとか、ピアスがダメだと本気で信仰している教師や職員はいないと思います。それらは本質的には自由で、どう選択してもよいことです。

 しかし、地域は冷徹にそれを判別します。自分たちに益をもたらすのか、もたらさないかを野獣の嗅覚で嗅ぎ取り、うわさするわけですね。

 弱者はこうして、「生きづらさ」を敏感に感じ取ってゆくことになります。大人はわかってくれない、と感じます。社会は冷たい、と感じてゆくのです。


 さて、第1回は学校の例を取り上げましたので、「弱者が持っていないのは学力や学歴なのではないか?」という仮説的なものを提言したような感じになってしまいました。

 しかし、学力や学歴は弱者が持っていない物のほんの一部です。次回はもう少し、「何を持っていないのか」を掘り下げてゆきましょう。



 

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