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悪魔の弱者論 〜弱者支援が闇落ちする理由〜


 弱者とは何か、というのは私の超個人的な考察テーマの一つであるが、そんなことを考えるのは、もちろん、私が元教員だった時に、いやというほど弱者である立場の生徒たちを見てきたせいである。

 そこには貧困もあったし、虐待もあったし、発達障害もあり、生活保護もあった。親が精神障害を抱えていることもあった。

 いやいや、他人のこともそうだが、自分の過去を振り返っても両親が新興宗教にのめり込んだり、離婚したりしているので、私自身が宗教による弱者や片親という弱者になっていた時期もあっただろう。

 教員という立場ではなくなって、ただの大人になってからも、数名過去の教え子に金銭的な援助をしたり、短期的に我が家に住んでもらったり、言ってみれば「弱者支援」の真似事をしたこともあるので、ライフワークとしての

「弱者とは何か」

というテーマは、長年継続して取り組んでいることになる。もちろん、私個人ができる活動など、微々たるものであるが。

 そこで、

https://note.com/mukogawa_sanpo/m/m2dafcdea220d

というシリーズを書いて、「弱者の構造」なるものを解き明かそうと思ったこともある。

 ところがこの「弱者とは何か」なんてのは表向きの「きれいな話」であって、現実の弱者問題は、もっともっとドロドロしている。


 それが一番端的に現れるのが

「弱者支援者は、弱者に攻撃される」

という問題だ。実はこのことは、弱者支援の現場では「当たり前」の話であり、支援者は全員といっていいほど、これを経験しているし、理解しているしわかっている。

 この話は、弱者の問題をあぶり出すことになるので、かなりキワドイ話になってくるのだが、どんな実例があるのかが知りたい「弱者支援をしたことがない」人は、

http://eraitencho.blogspot.com/2017/06/blog-post_52.html

あたりを軽く読んでおくとよいかもしれない。


 ただし、ここで読み違えをしてほしくないのは、「弱者の全員が支援者に攻撃したり、感謝する機能を持たなかったり、クズである」というわけではないことだ。

 それは一部の人にそうした面が現れるだけで、全員ではない。そして、彼らが死ぬ間際まで、「一生感謝しなかったりクズのまま」であるわけでもない。

 そこは十二分に注意が必要なので、誤解をしてはいけないと思う。

(ただし、クズのまま、先に寿命のほうが来てしまう人もいる)


 しかし、現実問題として、弱者支援者が、まっさきに弱者から攻撃されたり、敵意を向けられることはあるし、弱者には「問題がある」場合も少なくない。そこで、心が折れてしまい、支援から撤退する人もたくさんいるのが事実である。私も、心理的になんども刺されたことがある。思い出すだけで痛ましい。


 さて、どうすればいいのか。

 公式、というか「こうすべきだ」という一定の答えは実はあって、それは意外と明解な理屈になっている。

 それをわかりやすく書いてくれている記事が

https://cakes.mu/posts/32991



で、ここではカウンセラーの方が、

「弱者にも問題があったり、もしかすると罪があるかもしれないが、弁護士のように100%の味方として支援する」

という趣旨の説明をしている。つまり、弱者に攻撃されたり、彼自身にも問題があっても、客観視してジャッジメント(公平な判断)をせずに保留するということだ。


 これはおそらく、弱者支援者のひとつの「ポリシー」になっているだろう。つまり、平たく言えば

「やられても受け止めるのが弱者支援そのものである」

ということだ。

 しかし、ここからぶっちゃけ論で書くが、それを繰り返していると、おそらく支援者は心が壊れる。

 なぜなら、公平で客観的で冷静なジャッジメントを保留もしくは放棄していることを繰り返している時点で、自分が「公平で客観的で冷静な人間」ではいられなくなるからだ。つまり、おそらく一部の支援者は

「闇落ち」

している可能性が高い。

 それがどんな闇なのかは、これまたシンプルで簡単である。

「それでも弱者を守らねばならない。刺されても受け止めねばならない」

という使命感ならびに宗教教義だ。

 こうなってくると、「受け止める」という行為は、弱者支援の手段ではなく、目的そのものになってくる。そしてその目的が強くなってしまうと、その人はもはや「冷静で客観的で、公平な社会」とはボタンが掛け違ってしまうことになる。

 だから弱者支援者は、そうならないように、心のバランスを取ることに腐心することになるのだ。

(変な言い方だが、それならいっそ撤退して支援をやめてしまうほうが、心は健康で健全のままでいられる、というオチだ)

(あるいは所属する宗教団体の教義をバックボーンとして、この矛盾に耐えている人もいるだろう。つまり、”隣人愛”などを基盤に持つことで、バランスを保つこともある)


 さて、「弁護士のように、弱者の完全な味方をするのだ」と思いながら弱者支援をするのは、一見すると明解でわかりやすく、なるほどと感じるだろう。しかし、弁護士というのは、一旦それを客観視せずに保留し、公平ではなく弱者有利に弁護するのだが、実は「裁判」というその後の場において、

「公平で客観的にジャッジメントされる」

という場があるからこそ、成り立つ。

 ところが、弱者の生活や弱者の支援の場が、この「公平で客観的なジャッジメント」をどこにも取り入れないで進行してしまうから、ことがどんどんおかしくなるのである。

 実際問題、人が生きていく上では、誰か他人にジャッジメントされることなどなく、そうすると、「問題のある弱者」と「その支援者」は、問題をジャッジメントしないまま生きてゆくわけだから、究極的には支援者も闇落ちしてしまうということになる。弱者はもともと問題を抱えているのだから、彼はそのままでもOKなのだが、支援者が引っ張られるだけである。



 なぜこんな悲劇が繰り返されるのかと言うと、それは簡単に言えば、

「弱者はふつうの人がもらっていた(はずの)ものを、そもそももらっていないから、等価交換的に問題を抱えるのだ」

ということになる。

 仮に、ここで「弱者は感謝の心を持たない」と仮定しよう。そうするとその裏には、

「親や周囲に虐待されたり、そもそも愛情をもらったり、援助されたことがないのに、感謝の心という概念が芽生えるはずがない」

なんて事情があったりするわけである。

 感謝がそもそも芽生えていないのは、親や環境のせいである、ということだ。

 弱者支援者はそれをわかっているので、「この人にはそもそも感謝という文字が脳みその辞書にないのだ」ということを受け止めるわけである。

 そのこと自体は、それでいいと思う。

 弱者支援者はそういう全体構造を見ることで、「そこでなんとか客観視して、こういう理由だから仕方がないと公平に考えることで心を保つ」ことがギリギリできるのである。

 そうでないと、弱者が「生まれついての鬼畜でクズです」ということが本性だったら、支援なんかできないのだから。


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 ところが、ここからが問題なのだ。

 実は今の世界の弱者支援というのは、ここで止まっていて、そこから先がまだどうしたらいいのかよくわかっていない。これは日本だけでなく、おそらく世界でもそういう傾向があるだろう。

 ここで「止まって」いて、ここから先とは何か。

 それは、

「それでも社会に出ると、公平で客観的な関わりで物事は動いているのだから、弱者はかならず、社会においてジャッジメントされる時がくる」

という未来である。

 もうすこし丁寧に話そう。

■ 弱者が「感謝」を持っておらず、それは親や環境のせいである

→ ここまではOK。

■ だから弱者支援者は、それを補うべく、そういう問題があっても接してゆく

→ ここもOKだ。

■ しかし弱者が普通の人になったり、弱者を卒業して社会生活を送る上では、「感謝」ということばを辞書に持たなくてはならない。

→ このあたりから、話が怪しくなってゆく。

■ ということは、弱者支援者は、「感謝」を持てるように支援(再教育・再入手)して、ふつうの状態にして社会に送り出さないといけない。

■ そうしないと、弱者は「感謝を持たない奴」として再び社会からはじき出されてしまい、弱者に戻ってしまう

→ ほら、怪しくなってきただろう?


 このように筋道を立てて考えると、なぜ弱者が弱者であることからなかなか抜け出せないのか、その理由が見えてくる。親や環境のせいで何がしかの欠損が起きたとして、それは不幸で悲しいことだが、最終的にはその欠損が埋めらなければ、結局弱者からは抜け出せないのである。

 それは社会が、(なにを持って普通というかは別にしても)普通の、欠損がないコミュニケーションを是としているからである。

 少なくとも「感謝」がない人間を受け入れるほど、社会はやさしくはないだろう。


 ここから先は、かなり難しい。人類の英知をもってしても、「環境によって欠損したなにかを、弱者支援の方法で補う」ということはたぶん、まだできておらず、その段階に社会は到達していないからだ。

 これは犯罪の更生しかり、福祉しかり、「問題が過去の原因で生じている」ことまではわかっているが、「それを補完する」方法がまだまだ未完成であることを意味している。

 実は経済的弱者も、災害弱者もまったく同じ構造で、たとえば職を失って収入や立場が欠損した場合、「元の金額と立場」を補うことは難しい。だから必然的に「元よりは少ない金額とか、元とは異なる立場」で我慢するしかないし、そこから再度復活してゆかないと、元の生活には戻れないのである。ましてや支援者は「職を紹介する」ぐらいしかできない。

 災害で家が流された場合、その家を補完することはできず、せいぜい一時的に支援者は「復興住宅」を準備することができるくらいである。弱者が元の住宅生活を手に入れるには、「住宅を再び建てる」(再入手)する以外にないのだ。

 そしてそれができないと、「復興住宅暮らしのままで、先に寿命が来てしまう」ということになる。それが現実である。


 「弱者支援とは何か」は、いよいよ次のステージが求められているのである。そこを見据えておかないと、ただ「原因」に振り回されて支援者も闇落ちしてしまう。

 これを肝に銘じながら、私も弱者とは何かについてまだまだ考察を深めたい。



<補足>

https://www.tachibana-akira.com/2021/03/13010

 橘玲さんの論考では、

■ 優位に立つ支援者から「こうしたらいいよ」という支援を受けると、弱者は強いストレスを感じる

■ 自分も弱者である支援者から、「自分の体験はこうだ」「自分はこうする」という支援を受けるとストレスが一番低い

ということになっている。

 つまり、弱者は「持てる者・強者からの支援は苦痛」であるということだ。逆に、「下を見て生きるとまだマシ」だということだ。

 これだと、弱者は弱者と傷を舐め合う意外には救われる方法がないことになる。

 ・・・ある種の地獄である。さらに深い闇が口をあけて待っているのだろうか。










 

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