エヴァ的「セカイ系」としての”光る君へ”
いやあ!面白い。
今年、2024年の大河ドラマ、「光る君へ」がめちゃくちゃ面白いのである。
もともと、ここ何年かは欠かさず大河ドラマを見ていて、歴史好きな家族とともに、ヤンヤヤンヤ!言いながら楽しんでいるのだが、今年は前評判的には
「平安時代〜、地味やなあ」
という先入観を拭えなかったものの、いざ始まったら
「ん?これはちょっと面白いぞ!」
と絶賛引き込まれ中である。
いちおう関西に住んでいることもあり、平安絵巻の物語は身近にあるので、どこぞの博物館の「源氏物語絵巻」が公開されれば見に行ったり、花山天皇が登場すれば「花山院」という菩提寺を訪ねてみたり、リアルタイムで世界観を楽しみながら毎週テレビに釘付けなのだ。
もちろん、大河ドラマたるものについて、毎年賛否両論あることは知っている。歴史に忠実なのか、あるいは「脚色が多い」のか。歴史を捻じ曲げているのか、独自解釈が過ぎるのか。
まあ、そのあたりについてはSNSなどでも毎回話題になるので、読者のみなさんもそれぞれにご意見があろう。
その話で言えば、「麒麟がくる」(2020)なんかだと、そもそも光秀の前半生が全くといっていいほどわかっておらず、わからないからこそ「好き勝手に大河ドラマで描いてしまっても、誰も文句が言えない」なんて部分もあり、今年の「光る君へ」も事実は踏襲しながらも
「好き勝手やってるなあ!」
という感触は否めない。いやいや、これは褒めているのだが!(笑)
前評判で考えれば、武士が活躍し戦乱のシーンなんかもある戦国時代等に比べれば、「平安時代」というのは地味である。
権力闘争や権謀術数などが渦巻く朝廷界隈や貴族社会は、たしかに面白いが、見栄えがしなかろう、さて光る君へは当たるのか?という心配の声も聞かれたほどである。
現に、いまでも衣装こそステキで華やかだが、絵柄は毎回地味っちゃあ地味なので、脱落し始めた人も、もしかしたらいるかもしれない。
しかし、しかしである!!
光る君へは面白いのだ!
めちゃくちゃ面白いから、ぜひハマってみてほしい。こんな大河ドラマは、二度とないかもしれない!
で、なんでそこまで面白い!と絶賛するのか。その理由は至極シンプルで、
「光る君へ はエヴァンゲリオンであり セカイ系だからである!」
という一言につきる。 笑
奇しくも本家のエヴァンゲリオンが終わってしまって、僕らは久しくその感覚を忘れていたのだが、先日の日曜日の3月10日放送分を見て、
「ああ!これはエヴァだ!」
と身震いしたのである!そうして振り返ってみると、光る君への物語が、そのまんまエヴァっぽいことに、どんどん気づき始めた(爆)
3月10日放送分の光る君へ(第10回)、では、これまで好いたもの同士であった「まひろと三郎道長」がついに結ばれる。まあ、この週までは、それっぽいありがちなラブドラマでもあったのだが、今回のテーマで、この物語がエヴァであることを確信した。
道長はすぐにでも都や立場を捨てて、まひろに一緒になって逃げたいんだが、まひろは「あなたには相応の立場や、やるべきことがある」と励ます。
そして「私はそばで一生あなたを見守る」と宣言するのである。
この演出を見て、ビビビと鬼太郎である。
「あなたは死なないわ、私が守るもの」
という綾波の声が聞こえてきたら、もうあとは全部が「エヴァ」にしか見えてこないだろう。
そもそも「やめてよ父さん!」な父、兼家が宮中というゼーレの中で暗躍しているわけで、(まあ、父さんが道長にエヴァに乗れ、と思っているかどうかは、現時点ではちょっとわからないのだが、お兄ちゃんたちについてはエヴァに乗せる気まんまんなのはわかる)息子は朝廷という巨大な権力装置に巻き込まれつつあるのが、今までのお話。
父さんも碇ゲンドウばりに、こと権力の掌握にかけては無茶苦茶するので、翻弄されるチルドレンたちの様子は「既視感しかない」大苦笑である。
道長の姉である、詮子はさしずめミサトさん的役回りで、まだまだこどもである道長をヤングケアラーの道へと引きずり込んでいるのかもしれない。
伊達に本家ミサトさん(三石琴乃)が第一回に登場したわけではない。つまりはあれは、視聴者たるシンジくんを迎えに来て、「エヴァーに乗りなさい」といざなっていたのだ笑。
あまつさえ、つい先日はトウジが死んだ。
もうちょっと引っ張ってもよかったキャラだと思っていたのだが、直秀はトウジだったのだから、途中で巻き込まれて死なねばならなかったとすれば合点がいく。
そうしないと、シンジくんは次へ進めないのである!!
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さて、なぜ「光る君へ」にエヴァみが宿るのか。それはこの物語のテーマが、結果的に「セカイ系」であり「エヴァと共通」になってしまうことに由来する。
セカイ系というのは、ただの少年少女が出会ってしまい、それが単なるボーイミーツガールの青春譚で終わらず、セカイの成り立ちや未来のありように深く関わる作品群を意味する。
「エヴァンゲリオン」では、なんの因果か選ばれし少年少女たちが、地球と宇宙の未来に関わってしまうという物語だし、古くは高橋しん、の「最終兵器彼女」や、最近では新海誠の映画群も同じ構造を持っている。
もちろん、「光る君へ」にはロボットも出てこず、地球の創生にもまったく関係はないのだが、
「道長の目の前にある国家権力とは、まさに当時の青年道長とまひろにとってはセカイを動かすことそのもの」
に相違ない。
いくら末端末っ子で、「本来なら権力が回ってこなかったはずの道長」であったとしても、結果的に彼は「エヴァに乗らざるを得なかった」のである。正史としてもまさにそうで、彼は平安セカイそのものを操縦したことに相違ない。
その意味では、「光る君へ」はリアルな、リアル過ぎる「セカイ系」だと言えるのだ。
摂政零号機、関白一号機と呼び変えれば、その凶暴性が理解できよう。
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もうひとつ、光る君へが「エヴァ」である2つめのテーマが隠れている。
それは現段階ではまだ明らかになっていないが、本家エヴァで言うところの
「イマジナリー&リアリティ」
である。
エヴァの2つめのテーマは、セカイ系であることと以外に、「現実性と虚構性」の間を行き来することであった。
エヴァ最終章では、現実と虚構が入り混じったシーンが交錯し、それはあたかもひとつのものであるかのように描かれたし、実際にゲンドウくんが目指したのは、自分の虚構のセカイを現実に投影することだった。
これが、まさに!まひろの第二楽章なのである。
セカイ最古の物語をしたためる。その物語によって、現実が動き、翻弄される。現実を動かすのではなく、虚構を動かしてもリアルなセカイが追従してくる。
そんな話が、「光る君へ」の後半に繰り広げられるはずだ。
これこそまさにエヴァンゲリオンイマジナリーではないか!!!
とまあ、こんなふうに考えるとワクワクしかないのが「光る君へ」の世界観。大石静センセイ、もし狙って作ってるのだとすれば、ヤバ過ぎです。
あとはそうねえ、きっとアスカ役のウイカちゃんが、どこかで
「あんたバカぁ」
的なセリフを吐いてくれたら、もうキュン死します(笑)
おしまい。
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