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加害者処罰と怨霊供養

 3回に渡って「加害者と被害者の問題」、そして「ジャッジメントの重要性」について考察してきたが、今回もその続き。

 ジャッジメントとは何か、ということと、中古中世の「怨霊」との比較について考えてみたい。


 まず、第一の記事では、加害者はいつも野放しで、適正なジャッジメントが日本社会では行われていないのではないか、という問題提起を行った。


 次に、第二の記事では、そもそも日本には『人権』が存在しておらず、人権を守るためのジャッジメントも存在していないことが明らかになってきた。むしろ「なだめる」行為しか存在していないのである。

https://note.com/mukogawa_sanpo/n/n61e19159e23d

 そして、第三の記事では、日本人は「自分より下の者しか見ていない」ので、下剋上が起きておらず、「強いものに対して、本能的に怖がっている」という構造を明らかにしたのである。


 これらの3つの記事の内容は互いに深く関係しており、どの面が表層に現れてくるかの違いだけで、本質的にはかなり一体化しているように思う。

 したがって、これからお話する第四の記事も、実は「おなじ本質」の別形態に過ぎないが、ぜひ一読してみてほしい。

■ 強いもの、強力なもの、力をぶつけてくるものには本能的に恐怖を感じる。

■ そのために適正なジャッジメントが機能していない。

■ ジャッジメントがないので、加害者(強者)は常に野放しであり、被害者(弱者)を「なだめる」しかない。

 これが日本社会の構造なのだが、今回はこれを「怨霊」と比較してみたいのである。


 なぜ唐突に怨霊が登場するかと言うと、たとえば平安時代などには「菅原道真が左遷されて怨霊となり、その後名誉が回復されて天神として信仰されるようになった」といった「怨霊とその供養」についての思考パターンが散見されるからである。

 道真以外でも、歴史的敗者を供養して祀る、ということは日本では一般的に行われており、崇徳上皇を祀った白峰神宮など、枚挙にいとまがない。

 さて、中古中世においては、ジャッジメントの機能は人間にはあまり存在せず、究極的には神仏の領域であった。

 そのため人間はいったんなんらかの裁定を行うが、最終的には神仏がどう取り扱うかをもって「それが正しかったのか、間違っていたのか」を判断するような、そういうところがあった。

 近現代の西洋式「契約論」と異なり、誓紙や起請文ですら、神仏に対してのそれであるから、「個人間の契約」という視点ではなく、「神仏への崇敬」によって契約がなされているのも、その一例である。


熊野誓紙(神仏に誓いを立てる用紙)


 したがって、その誓いを破った結果についても神仏のジャッジメントに委ねられている、という考え方が一般的であることがわかる。

 しかし、厳密にはこの「神仏のパワー」が信じられるのは中世以降で、第三者的な「お天道さま」が見ているから、それによってジャッジされる個人が、神仏の下位にいる、というのは実に中世的な発想であるとも言えよう。


 すこし話と時代を遡るが、菅原道真と崇徳上皇は、「神仏の世界」がそこにあって、そこに仲間入りして「どうも、今日から私もおじゃまさせてもらいます」と言ったわけではなさそうなのである。

 というよりかは、「個人がダイレクトに怨霊となり、神仏になれる」という時代で、第三者的な神が天上界にいて、そこに加わるというより、単独でいきなりパワーのある「神」として存在することができたようなのである。

 この「個人が、すなわち神となる」というスタイルのほうが、本来的な神仏のありようと近い。すなわち「お天道様が見てる」は第三者的な唯一信仰に近いイメージで、それに対しての道真や崇徳上皇は、古代神話の「なんとかのミコト=記紀の神々」のイメージに近いのである。


 そうすると何が違うかと言うと、「個人から成った神は、ジャッジメントをしない」のである。つまり善行をなす神もいれば悪行をなす神もいるので、「これはいいことですよ、これは悪いですよ」という裁定をしないのだ。

 裁定をしないから「悪さばっかりする」「害悪しかもたらさない」神ももちろん登場する。(スサノオなどもその典型であろう)

 平将門なんかは、いまでも社を動かそうとすると事故をもたらそうとするらしいので、「下々の人々のジャッジメントをしてくれる」どころか、「悪さしかしない」のである。(将門様、ごめんなさいね)


 さて、話がすこし横道へ逸れたが、「個人が被害者になると、怨霊となり、それをなだめるために供養が行われ、神として祀られる」というのが中古のスタイルであった。

 あくまでも個人の話で、そこにはお天道さまのようなジャッジする神々は登場しないのが特徴であり、道真や崇徳上皇は「あくまで個人として被害者だったので、その恨みが怨霊となり、災いをもたらし、鎮められた」のである。

 この中古の世界は、繰り返しになるが、ジャッジメントが存在していない。

 神の目線から見て「道真や崇徳は実は無罪だったから神として祀られた」わけではなく、「怨霊が強いパワーをもっていて、これじゃあかなわん!と鎮められた」のである。

 なので、実は道真が正義だったか、崇徳が正義だったかは後付の理由に過ぎず、当事者感覚では「怨霊(悪)を鎮めるのが先」だったわけである。

 ジャッジメントが存在しない世界では、善悪を判定できないから、「とりあえず仇なすもの、災害を起こすものを鎮めることしかできない」ということになる。


 実はこの中古的な感覚は、現代もまったく同じである。

 宗教二世問題の発端となった山上容疑者は、怨霊であって、「被害者が生きたまま怨霊となり、仇なすものとして害悪を実行した」から社会全体が慌てて「鎮める」ために、統一教会問題を洗い直しはじめたわけである。

 そして、2024年10月の現在であっても、「加害者側のジャッジメント」は一部は行われているが、完遂していない。

 統一教会は裁かれようとはしているものの、それに加わった加害者側の一味(議員など)がジャッジされたとはいい難く、おそらく最後まで一定部分は、うやむやのままになるだろう。

 つまり、現代でもジャッジメントは機能していないのである。

 面白いことに「被害者かつ弱者」であった山上容疑者は、『弱者を上から目線でケアしようとする動き』においてはたしかに供養されつつあるが、『強者として仇なすもの』としては取り扱いに苦労しているので、ちっとも裁判が進まない。

 今回の一連の記事でも説明してみせたとおり、日本社会は「強者に対してジャッジメントする」ということは非常に苦手であり、「弱者に対してケアしようとする」のは好きなのである。

 それが同一人物に対してなされる時、かなりへんてこなことが生じるのは、以上のように説明できるのだ。


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 中古の時代はジャッジメントが機能せず、最終的には「個人を鎮め、供養する」ということしかできなかった。

 現代はこの中古の時代に似ていると言えるかもしれないが、その原因は「ジャッジメントが機能していない」からである。

(構造的には因果関係なのではなく、同一構造の表裏なのだ。だからジャッジメントが先か、後かについてはあまり議論しても意味がない)


 ちなみに中世はどうだったかというと、「ジャッジメントは、お天道様的神仏に委ねられていた」のだが、実際にはそれだといつまでたっても結論がでないから「自力救済」と混じりながら、運用がなされることになる。

 つまり、戦国時代であり、自ら強者が弱者をぶっ殺すのである。ぶっ殺し合いながら「戦勝祈願を神仏に行う」というのは矛盾しない。

 要するに「勝った方は、神がジャッジしたから勝ったのだと思う。負けた方は神がジャッジしたから負けたのだと思う」というそれだけであり、実際には単なる弱肉強食でもよいのである(笑)


 その意味では、日本社会でジャッジメントが機能していたのは近世だ、ということになる。なにせすべて徳川幕府が裁定できるので、基本的にお上は

「不届きにつき、市中引き回しの上、打首獄門同好会!」

と言えたからだ。

 この「不届き」という文言が徳川式ジャッジメントの本質を言い表していて「とにかく、なんでも基本は徳川のOKがないと、やってはいけないのだから、届けを出して許可をもらっていないことをした時点で、どうであろうと悪である」という明確なジャッジメントが行われるのである。

 この言い方はとてもよく出来ていて、「これは善ですか?悪ですか?」ということに議論の余地がないのだ。なにせ「まずお伺いをたてて徳川様がどう判断するかを事前に裁定をもらわないと、なにごとも確定しない」わけだから、とかく徳川の預かり知らぬところで(不届き)起きたことは、全部まず「アウト!」なのである。

 これだと善悪のニュアンスがバラけることはまったくないから、国内を統制するのはとてもやりやすいことになる。

 実によく出来ていると言えよう。


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 それでは、いよいよ結論である。

 日本社会が混迷を極めているのは、「ジャッジメントが機能していない」からで「強いもの(暴力や権力や、悪行)に対して怖がっている」からである。

 これは現代リベラル思想のもっとも弱点に近い部分で、「実力を伴う権力」を嫌うことや、「下剋上」を嫌うこととも関係してくる。

 私個人の考え方は

■ たとえ力を持っている相手であっても、その上の権力を持って適正に裁くことが国内の安定に寄与する

と思っているし、それができないのであれば

■ 被害者は即時復讐をなして、その時点でチョンにしておけ

とも思っている。 

 しかし実際には、弱者である被害者が即時復讐を成すのは難しいので、やっぱり最初の「国家政府が適正にそれを代行せよ(ジャッジメントせよ)」に立ち戻ってくるのだが、これは無限ループのような命題なので、困ったものである。


 しかし、「即時復讐を成す」というのは、いわば中古における「怨霊となれ」ということなので、「怨霊とならないと社会は動かない」ということを暗に示している。

 つまり、社会を「ジャッジメントが機能する状態にいざなう」には、「怨霊がつぎつぎ現れる必要がある」のだ。

(*実際には加藤死刑囚なり、青葉被告なり、怨霊はつぎつぎ現れているのだが、日本はそれでも適正なジャッジメントをしていないのだろう)

*注 この場合、加藤や青葉を死刑にすることをジャッジメントと呼んでいるのではなく、彼らの生育環境を引き起こした虐待親などがジャッジされていないことを意味する。


 理想的なのは怨霊が現れた時、その原点に遡って怨霊を生じさせた原因のほうまでジャッジすることである。怨霊だけジャッジしたり(加藤・青葉)、怨霊を供養したり(山上)するだけなのは、非常に中古的発想であり、現代にはふさわしくない。

 日本社会の成熟は、このジャッジメントの成熟と連動していることを、ぜひ読者諸氏にも考えてみてほしいものである。


(おしまい)



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