見出し画像

「無敵のテロル」が善良な市民を虐殺する時代

 大阪のビル火災で24人もの人が亡くなり、どうもこの火事は61歳の男が放火したものである疑いが濃厚となってきたという。

 放火による火災と聞いて思い出すのは、「京都アニメーション」での放火事件であるが、よく考えてみると先日も地下鉄で意図的な火災があったり、それ以前に新幹線内で殺傷事件があったり、

「公共の場で、大量殺人が起きる」

度合いが甚だ増えていることに気付かされる。


 これまで、日本の社会というのは比較的安全で治安が良いとされており、失火による火災で多くの人が亡くなったり、結果的に多くの人が巻き込まれた交通事故や航空機事故などはあったものの、

「意図的に大量の殺人が行われる」

ことは、それほど多くなかったように思う。

 そのため、僕たち私たちは、こうした事件を見聞きしてまず最初に重大な勘違いを犯してしまう。

 それは

「なんらかの弱者や、追い詰められたり、おかしくなった人がいて、彼らが逆上して事件を起こすのだろう」

という見立てである。

 実際、この思考の流れは、「無敵の人」というワードでよく説明される。失うものが何もない(弱者)が、いろいろな不満を晴らすために、無関係な人を巻き添えにするという行動パターンである。

 無敵なので、どんどん他者を殺傷することができ、なおかつそれを止める手段がない、ということだ。


 ところが、こうした事件について「なんらかの弱者や追い詰められた人」という前提を勝手に抱いているから、僕たち私たちは、

「ああ、怖い、関わり合いにならねばいいな。弱者が少ない社会であればいいな」

と思って、それでおしまいになるが、実はこの部分、相当に僕らの側の闇が深いのではないだろうか。


 そこで、ちょっとだけこの大量殺人の動機を改変してみよう。

「(司法に)追い詰められて、虐げられていると思い込んでいる(宗教を信仰している)人が、無関係な人たちに対して大量殺人を実行した」

 この些細な違いがわかるだろうか。追い詰められている、自分は弱者であると思いこんでいる主体が、善良な第三者を攻撃する、という事件である。

 言わずもがな、改変した方には誰もが思い当たることがあるに違いない。そう、オウム真理教が起こした「地下鉄サリン事件」のことだ。

 行動としては、液体サリンをまこうが、液体ガソリンをまこうが同じである。たまたま「わざわざ科学的に生成した」か、「簡単に購入した」かの違いだけで、得られる結果(大量殺人)もあまり変わらない。


 地下鉄サリン事件はテロである。テロルである。

 国家としては、それが組織的に行われ、結果として国家反逆まで意図した大々的なものであったため、公安警察まで出てきて壮大な捕物となったが、「組織的テロ」であっても「個人的テロ」であっても、結果的にまったく善良なる市民が大量に殺されることには、全然違いがない。

 なので、無敵の人による無差別殺人は、テロである!

と断言しても、まったく問題がないと思われる。

 ところが、日本人は「テロル」にあまりにも馴染みがないものだから、歴史を追いかけても

「2・2・6事件?」

とか

「あさま山荘?」

とか、

「桜田門外の変?」

とかそんなのしか思い出せない。無意識に「無敵の人によるテロル」を除外してしまっているのだ。(西鉄バスジャック、を思い出せた人は優秀なほうだろう)


 しかし、何度も言うし、何度も書くが、「自分が死んでもいいので、周囲を巻き添えにしながらこの社会に対して怨恨を晴らす」というのは、自爆テロ以外の何ものでもない。そもそも宗教過激派によるテロも、その社会を変革したり、社会にダメージを与えるために行うわけで、それは個人的な恨みであってもまったく同じだ。


 とすると、僕たち私たちは、今日を境に考え方を改めなくてはならない。

 今から電車に乗ってどこかへ出かけたり、明日も出勤したり、横断歩道を歩いて渡ったりするだろうが、そこには「無敵のテロル」が待ち構えている可能性がある、ということだ。


 無敵のテロルはやっかいである。人を殺傷し、攻撃する手段としては

「もっとも優れた戦術」

であると言っても過言ではない。

 あの世界最強のアメリカ軍を、ベトナムから撤退させたのは、ベトコンと呼ばれたゲリラ戦術である。いつ、なんどき、どこから現れて攻撃されるかわからない。

 だから枯葉剤をまいてジャングルを丸裸にしようとしたが、それでもうまくいかなかった。

 アフガンからアメリカ軍が撤退したのも同じである。アフガンゲリラは、一般民と変わらぬ姿で攻撃をしかけてくる。その攻撃を防ごうと思えば、全員を先に倒さなくてはならないわけだ。

 そんなことは不可能なので、さすがのアメリカ軍も音を上げた。


 「無敵のテロル」は、かならず一般民のフリをする。一般の乗客に化け、一般のドライバーに化け、一般の顧客に紛れてやってくる。そこには明確な殺意があるのに、こちらからは気づくことができない。

 そしてその殺意は、特定の誰かに対してではなく、「すべての善良なる人間を殺す」ということを目的にしているわけだ。

「誰でもよかった」なんて表現でごまかされてはいけない、彼らが狙っているのは、

「無慈悲に、無差別に、誰であっても殺す」

ということなのだから。


==========


 この「無敵のテロル」を止めるには、方法はひとつしかない。それは理由のいかんを問わず、「無敵のテロル」を行った者は極刑に処す、ということだ。

 これは法解釈を変えてでも、そうすべきな大事なポイントであろう。

 本来的には、リベラルな現代社会にはそぐわないが、「家族係累・親族に至るまで、犯人以外にも咎が及ぶ」くらいでないと、釣り合わないだろう。

 だって、相手はこちらを無差別大量に狙っているのだから、こちらも犯人の親類縁者くらいまでは巻き込まないと、どう考えても命の重みと罪の重みは釣り合わない。

 無敵の人もそれをわかっているから、無差別殺人は「自分の命1つに対して、奪える命が多いのであれば実にコスパがいい」ということになるわけだ。


 命の重みとコスパを天秤にかければ、無敵のテロルに対しての処遇が「極刑以外ない」ということはすぐにわかるだろう。

 仮に、とてもかわいそうな境遇の犯人がいて、今回のように30人近くを焼き殺したとしよう。犯人がかわいそうなので、刑罰を幾分マイナス割引しようと考えた場合、被害者に対してどうすれば釣り合いが取れるのだろうか。

 そもそも、かわいそうな犯人の過去と、殺された善良なる30人の過去にはなんの関係もないし、そこを差し引きする必要はまったくない話である。

 殺されたほうの一方的な損失が「あまりにもむごい」ことを勘案すれば、そもそも「犯人がかわいそうだから、そこを差し引く」ということが、まったく人の命の重みを無視した処遇であることがわかるだろう。30人分の重みは、どこへ行ったのだ、ということになる。

 なので、AさんとBさんが争って、どちらにもそれぞれ言い分があって結果的にBさんが殺された、というのと訳が違うのである。そりゃあ、AさんとBさんの間に「何がしかの過去」があった場合には、その経緯の重さは釣り合いが取れるので差し引きがあっても構わないが、

「とにかく、動機はどうあれ、無敵のテロルは許さない」

という司法の姿勢が大事なのである。


 ただし

 ”無敵のテロルを許すな!”

という言葉は、実は司法だけに責任があるのではない。これは僕たち私たち自身の問題でもある。なぜなら、あなたの隣に無敵のテロルは潜んでいるからだ。

「誰でもよかった」

の隣に

「まさかこんなことが起こるなんて」

というそもそも無関心な人たちが座っているのである。そりゃあ、テロルのやりたい放題のはずだ。

 ゲリラの巣窟の村に、「まさかゲリラがいるなんて」と無関心で乗り込むアメリカ兵はいるだろうか?そりゃあ、そいつから殺されても仕方ないのはアホにだってわかる。

 だから、

 「無敵のテロルは許さない!」

は、すべての善良なる市民の合言葉でなくてはならない。そうでなければ、圧倒的にコスパがいいこの犯罪がおいしいことに、無敵の人たちは気づいてしまうからである。


 テロは、断じて許してはならない。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?