自由主義の 新しい「対義語」 を考える
前回までの記事で、現代における「自由と平等」つまりリベラリズムに何が起きているのかを見てゆきました。
(参考記事)
世界はこれまで「自由と平等」に向かって進んできたわけですが、ここにきてブレーキがかかったり反動のようなものが起きている、とも捉えることができるでしょう。
特に西欧文明諸国と、それに従属する日本などにとっては、自由主義は「大きな枠組みではそうあるべきもの」「そうなるべきもの」として発展してきたのですが、はてさて、ここで立ち止まらざるを得ないわけですね。
となると、「自由主義ではないもの」について、再考する必要が生じます。
そこで、これまでの考え方における「自由主義の対義語」でこと足りるのか?検証してみましょう。
https://worddrow.net/searchReverse?keyword=%E8%87%AA%E7%94%B1%E4%B8%BB%E7%BE%A9
上記辞典などを参考にすると
「自由主義」VS「全体主義」
「自由主義」VS「専制主義」
などがまず考えられます。
あるいは文脈によっては
「自由主義」VS「共産主義」 (正確な対義語は「資本主義」)
「自由主義」VS「保守主義」 (正確な対義語は「革新(主義)」)
というニュアンスで用いられる場合もあるでしょう。
根源的な話をすると、「自由主義」というのは、「国家という全体に従属せず、自由である」とか「君主などの小集団に属さず、自由である」という政治的な意味での「自由」であって、
人間、万人がフリーダムだぜ!
という意味合いとはちょっとズレたところからスタートしているのですが、もはや今となっては、
「人類みな自由」
というのは、先進国の共通理解になっているので、「安楽死も自由」「大麻も自由」であり、ひるがえって「人生は自己責任」という方向へまっしぐらであることは否めません。
しかし、今回の新型コロナのような「自由主義が通用しない」事象が起きると、自由にうろちょろすると感染が爆発する等の、どエラいことになってしまい、
これはちょっとマズいのではないか?
ということも囁かれるようになりました。
共産主義中国が、全国民に縛りを入れて感染を抑制したとか、ヨーロッパでは都市を封鎖し、いろんなものをロックして戦っているなどの事実を考えると
「自由は制限されたほうが、良い場合がある」
のではないか?という疑念を抱かざるを得ないわけです。
そうすると、もともとの意味である政治的な「専制」や「全体」「帝国」主義などは別としても、よりシンプルな意味での
「自由主義」
とは別の対義語が必要になってくることが判明したということです。
仮にここでは、新しい造語として2つほど提案してみましょう。
◆ 「制限主義」
◆ 「制御主義」
というのはいかがでしょうか?
自由とリベラルというのは「自由主義」に向かって飽くなき進歩をしてきたわけですが、そうじゃない!そこには「制御」「制限」が必要なのではないか?なんらかの「調整」「コントロール」があってもよいのではないか?
という主義主張を表現してみました。
もちろん、ここには政治的な意味合いを外していますから、実際に
「制限をかけるのは誰か」
「制御するのは誰か」
という問題が次に出てきます。
実際の事例として、私たちは「国家や行政による制限」を目の当たりにしていますし、「自粛警察」「マスク警察」のような「相互による制御」も体験しています。
別にこれらのすべてが国家政府によってなされるわけではなく、人々の集団レベルでも「制御制限」は発生することがわかります。
(村のしきたり、因習や習俗、学校の校則なども、実はこれに当てはまります)
こうして考えると、実は欧米人に比べて日本人は、はるかに
「制限主義的国民」「制御主義的国民」
であると思われます。
コロナ問題の当初に、感染した人たちが村八分にされるなどの事例が相次ぎましたが、私たち日本人の心の内部に、そもそも”制限・制御主義的志向”が根を張っていることの証ではないでしょうか。
そうすると、私たちの多くは「全体主義者」ではないし「共産主義者」でもない、けれど「自由主義社会」において、かなりの「制限主義的志向」を持っていることに気づきます。
新型コロナによって、自由社会の破壊が進めば、もしかするとどんどんとこうした「制御主義」「制限主義」が膨れ上がってくるかもしれません。
マスクをしていない人を蔑視したり、他府県ナンバーの車を苦々しく思うことが続けば、私たちはもうすぐ
「制限主義者」「制御主義者」
へと変貌するのです。
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