「エヴァンゲリオン」と「進撃の巨人」は、ほぼおなじ話である。
「鬼滅の刃」が完結し、「エヴァンゲリオン」が完結して、いよいよ「進撃の巨人」も完結しました。
世は「完結」ブームですから、そのうち「自民党」とか「年功序列」とか「日本社会」も完結しちゃうかもしれません。
あるいはウイルスのせいで「人類、完結」なんてハメにもなりそうですが、冗談を言っている場合ではなさそうです。
ところで、大ヒット人気漫画となった「進撃の巨人」が完結し、その物語の全体構造が明らかになったところで、結局
「エヴァンゲリオン」も「進撃の巨人」も同じ話
だったんだなあ、という感想を持ちました。
それは単純に「でっかい人間(のようなもの)が戦う」という話だけではなく、その総枠というか、本質的なテーマまで、結局は同じところに行き着くのだなあ、ということでもあります。
ざっくりと、この2つの作品に共通する要素を抜き出してみました。
まず、基本的にどちらも「巨人」の話で、エヴァもアダムかリリスかわかりませんが巨大な原始生命からできた「大きなお友達」です。
(のちに庵野監督が「エヴァは”ロボット”アニメだ」と公式見解を述べてざわつきましたがww)
進撃の巨人も、当然はなっから「巨人」なわけですが、これもエヴァ同様
”そもそも巨人と人は別の存在なのではなく、おなじ存在である”
ということになっています。
それは、聖書神話を元にした「エヴァ」/北欧神話を元にした「進撃」という違いはあるにせよ、
”世界の創世と再構築に、神話時代の巨人が関わる”
という意味で同じなわけです。
なおかつ、両者とも、子供たちと兵力組織を舞台にした物語で、これは漫画やアニメーションとしては、「王道」ということにもなるわけですが、組織論として「大人の論理」に振り回されながら、子供たちが成長してゆくという意味でも共通しています。
おもしろいのは、どちらも「壁」というものをアイテムとして設定しているところで、「進撃」では、外界と自分たちの内側を阻み分けるものとして機能し、「エヴァ」では、人と人との心の壁を隔てるものとして機能していました。
この壁の象徴性は、深読みすればいくらでも意味づけが可能なので、いろいろ考察を巡らせてみるのもよいと思います。
「進撃」では、壁を乗り越えること、壁の向こう側の世界を知ることで、まったく異なる「世界」のありようが見えてきます。
「エヴァ」では、壁があるほうがいいのか、壁がなくすべてが一つになったほうがいいのか、が最後まで問われます。
これを「進撃」の世界観に当てはめると「国と国」の壁があったほうがいいのか、ないほうがいいのか、みたいな話につながってきます。
最終的にはどちらの話でも「壁を破壊して、どのような形で人類の世界は再構築されるべきか」がテーマになりますので、壁の象徴性はとても重要だ、と言えるでしょう。
「エヴァ」にしても「進撃」にしても、今現在、主人公たち(そして、間接的に僕たち私たち)が生存しているこの世界に対して、
「どのような世界であれば、理想的に再構築されるであろうか」
ということを問うています。
それには当然、
「では、今の世界はどのように始まったか」
という創世論との関わりが外せません。
聖書神話では、「神とアダムとイブ」のところから世界がはじまり、エヴァでは彼らを巨人で表現しました。聖書には、その他巨人が多数登場します。
北欧神話ではユミルという原初の巨人が存在しますが、「進撃」はそこから世界観を引っ張ってきています。ユミルからは、多数の巨人が生まれます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%9F%E3%83%AB
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さて、両方の物語の全体像が把握できたところで、では人類はどのように救われるべきか、という究極のテーマの答え合わせに入りましょう。
「エヴァ」では、いったん「すべての生命が一つになり、争いや災いがなくなる世界が成就しかける」のだけれど、最終的にはそれを否定する、というオチになりました。
まあ、いろいろあるけど、傷つけあいながらも、人は人でいいよね、ということです。
「進撃」では、いったん「エレンがすべての人類を滅亡させて、そもそも争いや災いが生じないようする世界が成就しかける」のだけれど、「エレンの本心」もアルミンもミカサも、最終的にはそれを否定する、というオチになったわけです。
まあ、これからも国々のあいだでいろいろあるけど、傷つけあいながらも対話しながら、新しい世界で生きようね、ということです。
漫画やアニメというのは虚構の世界ですが、現実の僕たち私たちの世界がここにある以上、どうしても「私たちの世界を肯定せざるをえない」オチになるのは否めません。
『人類はみな溶け合いましたとさ、めでたしめでたし』
とか
『すべて踏み潰されましたとさ、めでたしめでたし』
とならないのは、虚構が現実の私たちに引っ張られているからです。これは、人類の創作の限界かもしれない、とも感じます。
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しかし、そうはいっても、この2作品のオチには、おもしろい特徴が現れています。考察を重ねれば重ねるほど、興味深いことが浮かび上がるのです。
実は、エヴァにおいても「シンジが人類の責任をすべてひっかぶって死ぬ」というオチを作っていれば、それは万人が納得する「王道」のエンディングだった可能性がありました。
逆に言えば、進撃におけるエレンの死に方は、「王道中の王道」です。
イエスキリストが人類の罪をかぶって死んで神格化されたように、鉄腕アトムが太陽の中に飛び込んでいって人類を救うように、
ベタ、っちゃあ、ベタ
なのですね。
(個人的には、「コードギアス 反逆のルルーシュ」のオチが好きです。進撃もおなじ構造で、似ています)
本来、このパターンのオチが定番で王道であるということは
でも書いています。
では「進撃」では”定番王道エンド”が採用され、エヴァではそれが否定されているのはどうしてか?
これは、答えはひとつしかありません。
庵野秀明という人間が、
普通ではない!
ということの証です(苦笑)
その意味では諫山さんは、たぶん普通の人なのでしょう。
エヴァンゲリオン、という世界観は、ロボットアニメではあるものの、庵野秀明の私小説でもある、という解釈がなされています。ということは、諫山先生は「エレン」を他者として認識して、他者として描いているから殺せるのですが、庵野監督は「シンジ」は自分なので、
殺せない
のかもしれません。
その意味では、庵野秀明は
「僕は犠牲になんか、ならない!」
と主張しているわけですね。
だからシンジは、絶対に死にません。アニメ版、旧劇、新劇のどのパターンでも、しっかり生きているし、あくまでも自己主張をしつづけるのです。
(意外と、しぶといというか、自己中でもある)
シンジは死なない。
みんなに「おめでとう」と言ってほしい。
「女の子とイチャイチャしたい」でも「気持ち悪い」と言われちゃう
「おっぱいの大きな可愛い子と生きてゆきたい」
ということをズババババーン!と最大限主張するのです。
だから名作なのです。
人は人類のために死んだりせず、自分のために生きてゆくのだ!という主張が激しいから、だからこそ名作になるわけです。
しかし、もちろん諫山先生の選択が「名作でない」というわけではありません。
これは実は、あなたに人生の生き方を問うているだけです。
あなたは「自分のために、一生懸命生きる」という生き方を貫くのか、それとも「誰かのために、一生懸命生きる」という生き方を貫くのか、という違いだけです。
けして、どちらが「良い悪い」の話ではありません。人はみな、それぞれ一生懸命、両方の側面を持ちながら、時にそれを選択して生きるのだ、ということです。
それが、あなたという「世界」のはじまりから終わり、あるいは、生き方を問い直すという「再構築」の物語なのだ、ということなのですね。
私は、庵野監督の潔さも好きですし、諫山先生の深慮にも敬意を払います。
さて、おっぱいのおおきな女の子でも探そうかしら。
(おしまい)
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