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何者かになる、ということ。


 わたくし、武庫川サンポは解脱者です。

 解脱者、という自称他称を問わない肩書きを勝手に名乗ることは、とても楽です。これが、「学者です」とか「選手です」とか「俳優です」とかであれば、そう認めてくれる場所が必要ですが、なんといってもすべてを放棄した(あるいは見放されたとも言う)「解脱者」だと主張するわけですから、まずたいていのまともな人は近寄らずスルーしてくれます。

 ごくたまーに、仏教かなんかに詳しい人がいて、「仏教における解脱者」についてあれこれ言いながら、「お前はそれに当てはまるのか」なんてことを突っかかってくる人がいるかもしれませんが、そういうときは

「わたしは毎朝、寝ている間にパンツが解脱しているのです」

と言えば、たいていはそれ以上何も言いません。パンツが解脱しているのは事実ですから。


 noteや、はてなぶろぐなんかを見ていると、「何者かになる」とか「何者かという問い」なんてテーマがちらほら散見されて、承認欲求バリバリのこの俗世においては、

「何者かになる」

ということは、とても重要なテーマなんだな、と感じます。

 ちなみにまったくの余談ですが、今回の表紙の絵は「曲者(くせもの)」をチョイスしました。くせものになりたいものです。


 何者かになる、というのは呪いの言葉だ。なんて言われ方もしますが、瞬間的に何者かになることは簡単ですが、それを維持することはとても難しいので、今の日本で「何者か」になれている人というのはもしかすると「タモリ」さんとかぐらいかもしれません。

 「タモリ」さんは、司会者の時期もありましたが、今はお昼の番組は終了しています。ああ、音楽番組はまだやっていますね。

 単発で俳優をしたりしますが、彼は「俳優になった」わけではありません。タモリさんは何者か?と問われれば、「タモリはタモリである」という悟りのような結論にたどりつきます。似たような存在に「所ジョージ」さんという方もおられます。


 まあそうした「名前=何者か」というものすごい方、ある意味何者かを超越した方というのは、ほんのわずかおられるにせよ、しがない庶貧民である私達はせいぜい「課長」とか役職をもらってありがたがるか、自称他称を問わない「ライター」とか「カメラマン」とか「声優」なんかになるしかないのかもしれません。

 私は昔、教員をしていて、今は会社役員をしています。しかし、それらは実は「一過性」のものであって、すごろくの「上がり」のような、上り詰めて「何者かになる、なりあがる」ものではありません。

 退職すればただのおっさんですし、実際、私の前任者であった方は独居老人としてゴミ屋敷で暮らしているそうです。かつて何者かであったとしても、いずれは床の染みになるぐらいしかありません。所行無常の響きあり。


 ムコガワの場合、このnoteなどで使っている筆名とは他に、いくつものビジネスネームを使い分けています。さすがにこの「解脱者アカウント」で有名になってしまったら、日本もおしまいだな、と思いますが、別の筆名では、新聞にも雑誌にもテレビにも出たことがあります。

 新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、ネット、それぞれ全然別の活動ですが、制覇したので、わたしは果たして「何者か」になったのでしょうか?

 いえいえ、たとえ一瞬メディアに取り上げられたとしても、わたしはただの解脱者に過ぎず、誰も知らない知られちゃいけないデビルマンのような日陰者です。

 毎日メディアに出続けて、「あの人はいま」にならないようにできれば、有名人としては「何者かになった」と言えるでしょう。たとえ数年間女優だったとしても、今はただの専業主婦だったり、なぜかど田舎で菜園をやっている日焼けしたおばちゃんになっている人はいくらでもいます。

 まだ「何者かになっていない」人は「何者かになることを切望」しますが、一度でも「何者か」になったり、片足つっこんだりした人は、それが途絶えた瞬間に、ただのおっさんとおばはんに戻ることを知ります。


 ここで中間まとめです。

<今日のポイント1>

何者か、になっても、何者かであり続けなくては、ただのおっさんおばはんに戻る



 今の私にとっては「解脱者ムコガワ」というあり方は、「勇者ヨシヒコ」とはまったく関係ないものの気楽で気軽です。すべてを捨て去った爽快感があります。

 別アカウントでは、「ミュージシャン(のはしくれ、きれはし)」だったり「なんとか研究家(のはしくれ、きれはし)」だったり、「作家(もどき)」だったりするわけですが、いくら作品を出したり、それが数千部売れたり、大きなメディアで取り上げられたりしても、日常は何にも変わらず、満足感もそれほどありません。

 だって、もっとすごい音楽家はいるし、研究者はいるし、大学の先生だっているし、ほんまもんの作家の方がアホみたいにいるわけで、私などはしょせん、はしくれどころか糸くずのような存在です。何者か、というにはまだまだおこがましい。

 しかし、よく考えてみると「何者か」になっているだろう、と誰もが認める方でも、実は当人にとってみれば、「自分よりすごい人はいるし、自分は何者になれたとは到底思えない」と感じることと思います。

 もしタモリさんに「あなたは何者かになれたと思いますか?」と尋ねても、「自分などは何も大成しておらず、よくわからないことを飄々となんとかやってこれただけだ」とおっしゃるでしょう。所ジョージさんとてそうです。

 つまり、「何者かになる」ことに、ゴールのような答えはないのです。ひとつめのポイントで説明したように「女優を今月も続けている」とか「今月も雑誌の連載がある」とか、「次回も契約がある」ということだけが「何者か」の正体なのかもしれません。

 今回の新型コロナで明らかになったことがあります。それは、世間の「俳優さん」とか「ミュージシャン」とか呼ばれる人たち、それもテレビやメディアやCDが販売されたりしているような「いちおうひとかどの何者かになっている人たち」ですら、本業がストップしていることはともかくとしても、「生活の糧を支えているアルバイトやパートすら止まってしまって、すべてが崩壊している」というのです。

 つまり、作家であれ音楽家であれタレントであれ、「何者か」にようやくなったかな、と思われる人でも、大半がアルバイトをしなくては食っていけず、副業(なのか本業なのかわからないけれど)でなんとか日々の糧を補充できているからこそ「何者か」のフリができていたのだ、ということが判明したのですね。

 ということは、何者かになるとはつまり、「それだけで食えること」というもう一つの大命題が突きつけられたわけです。


<今日のポイント2>

何者かになるとは、実はそれ単体でご飯が食べられること



 そうすると、ほとんどの庶貧民にとって「何者かになる」とは、別に有名になったり、何かの分野で秀でることよりも、

「正社員になる」

とか

「公務員になる」

とかのほうが、ほんとうは大事だ、ということなのかもしれません。苦笑せざるを得ませんが。

 となると、逆に言えば、日々の仕事や労働の糧があるのであれば、「何者かになる」なんて壮大な結果は、あとでついてくるかどうか知らないけれど、音楽にしても文芸にしても、あるいは研究にしてもスポーツでも、

「好きなように、好きな範囲で、自分が満たされるように」

やれたらそれで万々歳だということなのです。

 それを人は「趣味だ」と言うかもしれないし、あるいはいつか「大家だ、専門家だ」と認められるかもしれませんが、それはまたその時のお話である、ということです。

 もちろん、仕事に打ち込んでその分野で企業人・産業人として成功するのも、当然アリです。


 もし、そういうのに疲れたら、わたしは「解脱者」になることをオススメします。生活に余裕があっても、貧乏で仕方なくても、才能があってもなくても「私は解脱者です」という立ち位置は自由で、ありのままにいられます。

 では、まずはいっしょにパンツを脱ぎおろしましょうか。


 

 


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