2023.12.02

飲み明かした。Kさんとふたりで家を出る。薄い青空のもと志木駅までの住宅街を歩いていくことがなんだかとても素晴らしいことに感じられ、街並みを見る眼が生まれてきたのは滝口悠生を読んだからかもしれない。帰るのも面倒なので和光市で降りておふろの王様で時間を潰した。控えめに10分2セット。それから初台。職場の屋上からはドコモタワーがよく見える。ドコモタワーってエロいよね、と昔付き合っていた人が言っていてそれから僕はドコモタワーをそういう目でしか見られなくなった。夜中、第三京浜を東京方面に走ると多摩川を渡るあたりで高層ビルの丘の奥に青紫色の四角錐が見えてくるのが特に好きだ。屋上の端から身を乗り出すとビル群の向こうに東京タワーも見え、新宿と芝公園というのは神宮外苑を挟んでけっこう距離があるのではないか、それとも外苑を挟んでいるから間に高いビルが少ないのだろうか。不意に二階堂奥歯のことを思い出す。ここは5階建てだ。

今日はなんだか他人の日記を読みたい気分で、持ち歩いていたPINFUさんの『波打ち際で砂いじり』を開く。このあいだ町田で飲んだときに本人から頂いたもので、そういえば彼は帰りの電車に乗ったところ寝てしまい、終点で折り返してふたたび町田に戻って来てしまったらしくどうやって夜を明かしたのだろうか。PINFUさんは(と打ち込むための、左手の小指でシフトキーを押さえたままP,I,N,F,Uと一つずつ打ったあと仮名で「さんは」と付け加える指の動きが可笑しい)、僕が5月の文フリで売った『日記 「比興」』という名前の雑なコピー本を、ペンを片手にしっかりと読んでくれたようで、持ってきてくれたものには線やら丸やらで印がつけてあった。僕はどうしても、本のページの端を折ったり、文中にペンで書きこんだりすることには抵抗があって未だにできないでいる。その割には自分の持っている本をぞんざいに扱ってしまうことが多く、鞄の中に適当に突っ込んでは表紙を不本意に折ったり、水筒のお茶を零して「あちゃー」であったり、だからそこまで物体としての本を神聖化しているわけではない、むしろ「常に持ち歩くこと」に意義を見出しているふしがある。

『未明の闘争』の、いい一文だな、と思ったところにはシャーペンで印をつけていて、この日記に引用したいと思ったところは付箋を貼っておいて、さっき引用した「首が痛え、首が痛え」も付箋を貼っておいた場所だけれど、ほかに六枚付箋は貼ってあるんだけど、そのうち書きたかった内容が思い出されるのは半分の三枚で、あとの三枚はいい一文だな、とは思うけれど、それを日記に抜き書きしてどうしたかったのか覚えていない。単純に抜き書きしたかっただけなのか。

PINFU『波打ち際で砂いじり』P34

僕はこうして自分の日記に他人の本の一節を引用するときも「この辺にこんなようなことが書いてあっただろう」と、国語辞典でことばを調べるときみたいに本をぱっと開いて、ここでもないそこでもないとページを捲りながら「この辺にこんなようなことが書いてあっただろう」箇所を探し当てるしかないのだ。だから時間がかかって仕方ないけれど、その度に全体をザッピングすることになるので、結果的に薄く薄くもういちどその本を読み返すことになって良いな、と思っている。とはいえ、その本を読んでいる時の感情や関連して頭に浮かんだことや「ここいいな」を僕はそっくりそのまま無駄にしているのではないか。そういえば国語や英語の問題を解くときは、問題文の上から記号とか矢印とか「わからん」「は?」とか思い切り書き殴って小さい子供の落書きみたいにしていた。PINFUさんはだから先の日記の中で、保坂和志の『未明の闘争』を幹にして「ここいいな」の実感を伴ったままの様々な本からの引用があって、それはもちろん『プルーストを読む生活』のオマージュなのだけれど、PINFUさんの考えや思いつきが引用と一緒にコラージュされてひとつの流れを成しているようで、読んでいて心地よかった。


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