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フロ読 vol.25 大澤真幸 『虚構の時代の果て』 ちくま新書

我々の世代が知る1999年という数字は思ったよりもそれぞれの心の中に食い込んでいたかも知れない。本書の冒頭で語られる二つの戦争は1995年に起きた二大事件だ。
 
一つは阪神大震災(兵庫県南部地震)。この未曽有の自然災害は、実に6308人もの人命を一気に奪った。

この大量の突然死は、われわれの生が、常に根本的な偶有性に隣接している、ということを教える。

忘れていた戦争の比喩として、あくまでも〈他者〉からの攻撃(一方的な悪意といってもいい)に慣れていなかった私たちの、反省を超えた恐怖であった。
 
もう一つがオウム真理教による地下鉄サリン事件。確かにあれは衝撃だった。本書はこの新新宗教が「平和」な時代を背景とする「平和」しか知らない世代の心にいかに食い込んでいくかを克明に記していく。
 
平和の定義も難しい。「内的な葛藤をもたないこと」という定義はそのまま「精神の好ましからざる弛緩」とも取れる。「どれも認め合う世界」か「どれも認めない世界」か。
 
終わりなきぬるま湯のような平和が、終わるかもしれない恐怖と背中合わせに、それでもワンチャン終わらないでいられる選民思想や千年王国を「予定説」的な妄想として湧出させる。
 
同じパラダイムを生きる者として分からんでもないが、日本古典大好き人間としては、そのしっかり染みついた「無常観」から、「よう考えますな」と冷笑する余裕が生まれる。う~ん、古典大事。ホントは生の意味なんて、その都度その刹那にしかないもんね。年の瀬に欠伸しながら寝ころんでいる猫でも見るがよろしい。
 
なんて微笑みながら読んでいたらp203、

現実には必ず〈虚構〉が張り付いている。

という言葉にこちらの表情も凍りつく。

現実は〈虚構〉として受け取られることにおいてまさに現実として分節され、現実たる身分を獲得することができるのだ。

重要なことは、〈虚構〉が現実から乖離し、現実を裏切っているということが、現実そのものに対して破壊的に作用するのではなく、逆に構成的に働くということである。日常的な感性にほとんど満たされていない空虚な言葉は、〈虚構〉へと照準する言語のこのような本源的な性質を純粋状態において保持している。

現今の「私人逮捕系YouTuber」など、既に本書において予言されていたものと思われる。
 
思い出す1999年7月、ノストラダムスの予言は当たらなかった。いや、当たっていたのかもね。「僕たちの理想の時代の終焉」は確かにあそこで訪れていた、そのことに気づかないまま生きて来ただけかも知れない…。

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