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幻想を写す人

 今を遡ること約5年前、2027年11月に月光百貨店(兵庫県芦屋市)にて初めての展示となる 箱の中の月:久保田昭宏作品展 を開催した。

当時のご案内状

 写真家/コラージュ作家:久保田昭宏氏は、コラージュの技法を活かした写真作品を手掛けておられ、それは有りそうなようであまり無い作風のように思われた。即ち、切り抜いたコラージュ素材たちを接着剤やワイヤーを使って固定し、まるで劇場の舞台装置の如く夫々に配置をしたうえでそれを撮影し、写真として表現する。そこに平面のコラージュ作品とはまた違った風合いが生まれる。
 空想世界がより実態を帯びてくるような…取りも直さず、例え撮影する少しの間でも紛れもなく現実に存在した風景に違い無いのだ。

月を空に戻す/久保田昭宏

 氏との最初の出会いとなるそもそもの切っ掛けは何だったろう。その成り行き自体は失念してしまったが、何かの折にインターネットで氏の作品と出合い、醸し出される独特の雰囲気に惹かれたその時の感覚を今でも鮮明に覚えている。

 2017年夏頃、月光百貨店で新雑誌創刊の企画を進めており、氏に作品の掲載依頼をメールにて申し入れたのが最初のやり取りだった。
 当時の自分は今よりも何のツテも無く、コネクションも無く、作家の知り合いも無く、また世間知らずでもあり、それから(もういいか…)とにかくそんな状態だったので、今にして思えばよくこんな不躾な申し入れをしたものと自分で自分が怖いほどでゾッとしないが、暫くして氏から返事があり、ご興味を持って頂けたとの事。いやはや寛大な方である。
 また、店舗も見たいので直接こちらに来られるとの由。その連絡を受けた際、同メールにて氏が難病(PD)を抱えておられる事を知る。それを知った時、作品の根底にあるものの一端を垣間見たような思いがした。何かが腑に落ちた。

 芸術は、現実の世界に於ける満たされない想いや、欠乏感、或いはプロパガンダ的な主張等…そういった何らかの内面の鬱積が作品として発露し、その昇華が作家の人間としての生きる術となる事がある。
 作家は何かのminorityである事も少なくないように思われる。氏の作品には、自身が理想とする美しい世界を求めて止まない――そんな想いが凝縮しているように感じられた。何処か切なく、哀しく…でも同時にとても無邪気で、童心に帰ったようなワクワク感や愉しさが底流に存在する。
 人は実に様々な事を抱えて生きている。良い事も、またそうでない事も。状況は違えど結局はそれらをどう捉えるのか?それがその人物の個性となる訳で。
 作品として画面に映し出された風景は前述のように実際に設定されたものだが、そうであるが故に観る側と画面との間に立ち上がる気配(作品は大抵オーラのようなものを纏う)に、幻想の正体をより強く実感できるのではないかと思うのである。
 いつか自分の躰が全く動かなくなってしまっても、写真として残していれば見たい風景をいつでも見られる
 屈託無くそう仰る氏の言葉に、自分の審美眼が間違っていなかった事を確信した。

 新雑誌創刊の流れで 箱の中の月:久保田昭宏作品展 開催の運びとなった訳であるが、誠に光栄であり、今思い出してみても月光百貨店を象徴するような展示であったように思う。

2017年開催 久保田昭宏作品展:箱の中の月 展示風景

 青を基調とした店内に、幻想世界をそのまま映し取ったような作品たちがズラリと並んだ同展は、とても仕合わせな空間であった。
 せっかくなので自分も何か1点購入しようと決めていたのだが、最終日の展示終了後、非常に迷った末に自身の内面にピッタリ来るものをと、写真作品 星を拾う少年 をお迎えする事にした。風化したようなフレームも、氏が覚束ない手で施されたのかと思うと、そこにも特別な価値があるように自分には思われた。

星を拾う少年/久保田昭宏

 同作は現在でもアトリエで共に暮らしているが、良質な作品が日常生活に存在するというのは、何となくそれだけで心が満たされるように感じられる。生活に役立つというものでは無いけれど、そもそも芸術とはそういうものである。少なくとも自分にとっては。

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