デカン高原の夕焼け

 デカン高原の空も砂漠も壮大な薔薇色に染まっていた。太古そのままに広がってゆく夕焼けの色。石窟寺院を出たとたん、その薔薇色に私も染まった。生きているからには負う悲しみの色に染まったのだ。
 人影もまばらになった石窟寺院のなかほどに、人声のする一画があった。アメリカ人の若い女性が戦地に居るらしい恋人の名を何度も呼んでいた。古い岩壁が音に微妙に反応するらしく、恋人の名が洞窟一杯に美しくリフレインする。ガイドが、
「何でもいいから、歌ってごらんなさい。この窟に住んでおられる神々の声が聞こえますよ」
「ブッダン、サラナン、ガチャーミーー」
その頃、仏教に心惹かれていた私は思わず、三帰依の章句を唱えていた。やがて、深い地中から厳かな神たちの声が聞こえてきた。
「ブッダン、サラナン、ガチャーミー」
私が仏教に帰依したのは、あの瞬間ではなかったろうか?原始インドの地中の神々との盟約。
数年後、コモ湖にある古城でのこと。
私は心地よい夕風に吹かれながら、デイナーの前のカクテルを楽しんでいた。
「紹介させてね。彼はニューヨークで今、一番人気のある眼科医なんですよ。ほとんど分単位で手術をこなしているのよ。」
ニューヨーク的激務を肩のあたりに漂わせたインド人の紳士だった。どことなく、ヨーロッパ風のその場の雰囲気にはなじんでなかった。
「早く、部屋に戻って、読みかけのミステリーでも読みたいや。」という風情でもあった。
私はデカン高原の夕焼けの色のことを話した。深い地中から届いた神々の声のことも話した。
「それ以来、私の眼はあの夕焼け色に染まってしまったのです。」
何気なく懐かしの詩句を口ずさんでみた。
「ブッダン、サラナン、ガチャーミー」
深々とした声で眼科医が唱和する。メゾソプラノとバスのサンスクリット語の歌声に周りの話し声が一瞬,やんだ。
私たちは微笑をかわしながら、互いのカクテル・グラスを合わせた。
デカン高原の夕焼けの色のカクテル。

わたくしの軸のよぢれをたしかむるアジアとふあはれやはらかき密室
神々が美しき指など組みたるかアルプスは昏み夜に入りたり
足裏をふとのぞきたく御仏のくれなゐ深くにじみてあらむ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?