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#5 給料どろぼうも案外しんどかった…

怒られそうなタイトルで、すみません。恥ずかしながら最近まで、給料どろぼうのような位置におりまして。もちろん、諸事情につきです(苦笑)100%望んで、そのポジションに居た訳じゃない。ただ、いろんな想いを成仏させる意味でも、そこから見えてきた景色を記しておこうと思います。

働く=社会と接点をもつことだった

多くは語れませんが、簡潔にいうと「これまで負担をかけ過ぎたので、業務軽減です」とのことで、手元から仕事がどんどん消えていきました。こうして、私の給料どろぼう状態は始まりました。最初はね、ヨッシャー!って感じでした。もう胃を痛めるようなことをしなくても良いんだって。

ただ段々とね、「甲斐」も無くなっちゃったんです。

働くことの、手応えの薄い日々が続くと、自分の手掛けていることが「誰の何に繋がっているのか」が、わかり難くなりました。置いてけぼりをくらっている感覚というか。誰かと一緒にピンチを乗り越えて労い合う。誰かの吉報を同じように喜ぶ。そういう機会が、ドシャッと無くなりました。そう、給料どろぼうも案外しんどかったんです。

今となっては、壮大な社会見学だったなーと眺めなおす次第です。時間は掛かりましたが、ふり返るなかで、働く=社会(誰か/どこか)と接点をもつことなんじゃないかって、腑落ちしました。

自分のやっていることが、辿っていくと「どこかの誰かの何か」に繋がっていることに気づく。それって、結構ほっとします。

こんな風に考えると、社会と繋がりをつくっていくことを「働く」って呼んでも差し支えないのかもしれない。善くも悪くも、仕事が剥がれていくなかで気づいた視点でした。

もちろん、望むような繋がり方のためにも、それを持続するためにも、時にその選択を広げるためにも、何かしら力をつける必要がある気配です。その意味で、今回の私は力不足だったのだろうとも省みています。

仕事にも「賞味期限」がある

先述のように、自分の携わる眼前の何かを大切にすることは、誰かを想うことでもあって。しかも、そういうものを大事にしたいように大事にするためには、実力がいる。

最後に、目利きのような能力ってあるよなーというお話。もう少しだけ、お付き合いください。

働くってことにも「賞味期限」みたいなものがある気がしています。旬というか。無理なく最適なパフォーマンスが発揮できる、自分のもっている鮮度がそのまま通じるシーズンみたいなやつ。その時期を過ぎてもなお…と動きまわると、やっぱりどこか強引になっちゃう。

(これを何でもかんでも「頑張る」と名付けて、奨励する傾向がある気がしますが、それはまた別に機会に。)

このとき、適度に身を引けるって重要な気がしていて。引き際のタイミングを見極めること、潔く後に任せること。それって、自分にも周囲にも誠実な動きなんじゃないかなと思うんです。

おそらく私はココで無理をして、足掻いちゃった。自分が踏ん張れば何とかなる気がしていたし、周囲にも何とかして欲しかった。その辺りのバランス感覚もまた、社会(誰か/どこか)と接点をもつ上での力なんだろうなって気がします。

当時はほんと、お騒がせしました。
ではでは。

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