海中の栗を拾う/揺れる娘/渡り鳥の休息。
土曜日の花水川河口、丘サーファーの溢るる中で、遠目に見ても小学校三~四年の男児、波に乗る様が群を抜き、粋でいなせで見目麗しく、見蕩れたり、波打ち際の三人娘、三人三様重量級な肥満体、肉も揺れろと勇ましく、はしゃぐ姿を呆ッと見たり。大磯まで防波堤沿い、歩いて端まで行き着いて、波打ち際で呆として。湿気を含んだ砂の上、踏みしめ踏みしめ平塚へ。戻りまた、防波堤に座って音楽止めて、銀河鉄道の夜を読んで胸沁み込ませ、読了後また音楽聴いて呆として。
そんな事をしていたら、いつの間にやら七時間近く経っていた。
台風が近寄った翌日なので、さぞ愉し気な物が波打ち際に寄せられているであろうと期待したが、特になく、何故か鯉の死骸が打ち上げられていてそれを鴎と烏が1対10の割合で奪い合いの喧嘩をしていたり、何故かインド人カップルがおり「わざわざ日本まで来て西湘の海見なくとも、しかも台風後の」と注意先導したかったのですが異国の言葉は一つとして解らないので黙って前を通り過ぎたら、ムービー撮影をしていたらしいインド人女性にすごいカメラワークで写された。きっと国に帰ったら「ジャパニーズガールエクセレント」とか云って、近所の人に見せるんだ。そうでもないぜ?
所々に栗が落ちているのでその一つの前で立ち止まり「何故海辺に栗が?」と考え「あ!ウニか」と気付き、流石「海」の「栗」と書いてウニと読むだけのこつある、と一人納得していたが、否ウニは確か「くもたん」と書いたはず、中学の時寿司屋か何処かでそう読んだこと思い出し、じゃあ「うみ」の「りす」と書いてなんだっけ?あ、「栗鼠」でリスなんだからじゃあ「海」の「鼠」と書いたらなんと読むのだったかしらん、と、アタマノワルイ思考を繰り広げていたら(もう今何も考えられないの)、ぱっくり開いた問題のブツと遭遇、どうれおぢさんにとっくり見せてごらんと覗き込んだらやっぱり栗だった。どうしたの、ハロー君たち何処から来たの。
もしかしたら太平洋の海底には人知れず栗の木が生えていて、それはきっと海中にある間は碧とか蒼い色に近くって、秋が来ると地上のそれのように実を生しそれが成熟して開け海の中を漂えば、海中のあらゆる生物のごちそうになったり糧になったり楽しみになったりしていて。昨夜のような強風波浪注意報の折、海のご馳走になれなかった彼らは流れ流れて荒らされて、こうやって陸に姿を現されてしまったのかもしれない。きっと空気に触れると栗色になるんだな、人間にバレないように。なんて楽しい想像をして。もうちょっと姪っ子が大きくなったら教え込もうと心に決めた。わたしは吉田戦車先生の漫画『伝染るんです』に都度登場する「みっちゃんの母」を目指しているのだ。害にならない程度に嘘を教え込めればこれ幸い。
帰り道、電線の上に鳥の群れ。遠くから見てもどうにもその大きさが鳩には見えず、しかし烏にしては姿勢が良くて首細く「さてなんぞ?」と上を見上げ見上げて歩いていたら、電柱に激突しそうになったのですが(水たまりに足も突っ込んだ)、どうもどうやら渡り鳥。調べた限りはササゴイっぽく、ちょうど二十匹。長旅前の休息なんだね。どうかゆっくり休めると良い。ああそして。キミたち、これから何処に行くのかい?どうかボクも連れて行ってはくれやしないかい?ニールのように。わたしの景色が戻るように。
仮令半身が千切れても、生きて生き抜いて行けるように。
※十ウン年前の、恋人を失った際の日記ですねこれは。
※野坂昭如先生の著書をよく拝読していた時期でもあったので前半は若干野坂節ですね。
※昔の失恋記を果敢に披露して行くスタイル