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傷の舐め合いジャンキーたちの黄昏どき。

実のところ、傷の舐め合いで、傷は治らない。しかしながら舐め合いは気持ちがよく、ある種の抗えない快感がある。その快感に酔いしれて満足し、傷はパックリと開いたままいつまでも治る事はない。互いにその快感に浸り続け、夜一人になった時にその傷がシクシクと痛み出す。他人と居ると気づかなかったのに、一人になって改めて見ると、傷は変色し膿を吐き出している。

傷の舐め合いは一見、とても魅力的に映る。それは、同じく苦しんだ同志を見つけられるし、孤独感が消えるから。辛さを共感してもらえるし、優しくしてもらえる場合もあるし、心強さを感じるから。そしてそんな相手に優しく舐められると、耐え難い快感がある。確かに傷ができた直後、血が流れている時ならば、そういった人が居ることで治りが早くなる事もある。

しかし治りかけの傷を舐めても、もう傷は癒えない。傷を癒すには、血を拭き、消毒して清潔にし、かさぶたが出来て剥がれるのを待つだけ。舐めている間は、傷が開いたままでかさぶたができる事がない。だから傷の舐め合いで傷は永遠に癒えることがない。

しかしここで思うのは、実は傷の舐め合いにも隠れたメリットがあるからやめられないということだ。自分の辛さを共感し理解してもらう。そこには自分の非はなく、相手を加害者にできる都合の良い世界だけが存在する。そして、舐める方にも下心があったりする。よく思われたい、必要とされたい、認められたい、ってやましい気持ちがあったりする。その関係性が男女なら尚更だ。

自分は悪くない、こんなに辛い目に遭ったのだと、舐め合う人を通じて気持ちを吐き出せるのは快感だ。しかも傷が治ってしまったら、また現実と向き合わなくてはならない。もう誰も可哀想と言ってくれない。自分がただの人に戻ってしまう。特別さはもう存在しない。ある種の心地よい快感の再現と厳しい現実から逃げたい気持ちが、傷を傷として残しておくのだ。

そうやって傷を治さないでいると、傷は開いたまま、生々しいしい傷跡がくっきりと残り続ける。そうなると人は、その傷を晒すことが常套手段になる。常に被害者、常に正しい、常に不幸な自分を正当化する。段々と傷を治すことは関係なくなり、舐められる快感が目的になったジャンキーが誕生する。その快感を継続するために、傷を治すのは逆に不都合になっていく。当初は傷を治す事が目的だったはずなのに。

そんな大人を何人も見てきた。前職で顔を合わせれば不平不満と悪口と噂話ばかりの先輩がいた。ポジティプな意見に戻そうとしても、「だけどさ・・・」「でも俺は・・・」と自分だけが辛く被害者の立場を頑なに曲げなかった。そして僕もそうなりそうな時がよくある。特に不安や不満が溜まって、先が見えなくなる時。気をつけなくては、と自らに言い聞かせている。そんな僕もかつてはよく傷を舐め合っていた。でも今は大人になったという事なのだろうか、傷を舐めてもしょっぱいだけで美味しくないって学んでしまったのだ。

実のところ、負った傷を治すのは単純だ。それは、自分と向き合うこと。他人を認め、許すこと。自分を自分で癒すこと。単純だけどそれが簡単でないことは分かっている。だから上手くいかない事もある。時間も掛かるし、いつ治るかも分からない。そのもどかしさに、再びあの快感に手を伸ばしてしまいそうになる誘惑もある。

僕も夜一人になると見えてくる、そういった開いたままの傷がいくつもある。でも僕はもう、それらの傷を晒し、誰かと舐め合おうとはしない。傷は傷として、ただ残しておくだけにしている。それらは一生治らないかもしれない。けれど、自分を自分で労わって大切にしていれば、ずいぶん後になれば、傷跡も少しは薄くなっているかもしれない。そしてもし、誰か傷を負った人がいたら、舐め合うのではなく、僕の傷が治った経験や方法を伝えたいと思っている。

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