マルクト・小アルカナの10 生命の樹を体感する


生命の樹でのマルクトは『王国』という名前がついている。これはそのまま王国であり、地球だ。目に見えるもの、触れられるもの、形になって実感できるものがマルクトにはある。空気は見えないと言われるかもしれないが、たとえば冷える朝に息を吐けば白いものが見えるので、きちんとそこにあると認識できるため、マルクトに存在している。身体、物質、現実的に起こる問題の数々。意志などの精神性はイェソドまでで、マルクトにまで至ると、すっかり生命の樹は様相を変えてしまう。
 
基本的に生命の樹の流れは上から下、具体的にはケテル、コクマー、ビナー、ケセド、ゲブラー、テファレト、ネツァク、ホド、イェソド、マルクトの順で降りてくる。同じ高さのセフィラなら同時に降りてくることもある。じんわりと侵食する場合もあるし、激流が押し寄せるかのような勢いの場合もある。3つある柱のいずれかが強い場合、そちらから先に降りてくる場合もある。それらは人それぞれ、事象によってさまざまだ。ただしいったん開かれたなら、二度と閉じることはない。閉じたと思っていても、それは単に「忘れている」だけであり、必要に応じて開かれる。これは自分から意識して開かねばならない。はじめてセフィラを開くなら誰かの力を借りるとしても、二度目以降は自ら開いていく。そのやり方はとうに知っているはずだ。なぜなら一度でも開いたことがあるからだ。
 
ではセフィラをつなぐパスはどうなのかというと、こちらはそうやって開かれたセフィラを強化し細分化し、使いやすいようにしている。そもそもマルクトの側から上のセフィラを開く、あるいは意識する場合、まずはパスを通そうとするほうが自然だと思う。
たとえば、身体以外の気配に気付くならイェソド。知識を得ようとするならホド。楽しみを見つけようとするならネツァク。マルクトに接しているパスはこの3本しかないので、ここから生命の樹を意識できるきっかけが与えられるのであるが、基本的にマルクト、イェソド、ホド、ネツァクの4つだけで人生を回していくことは可能だ。ただし可能なだけで、満足するかどうかは人による。
 
生命の樹は三角の連なりと言われる。それはケテル・コクマー・ビナーの三角、ケセド、ゲブラー、テファレトの三角、それからネツァク、ホド、イェソドの三角だ。マルクトはその下にあり、すべてを具現化していくものになる。ダートはこの三角の向きを区分し、通っていいのかどうかを上下の両面から検討する。
生命の樹の図を考えると、ケテルの三角は上向きであり、他のふたつの三角は下向きだ。これは下降か上昇か、というところを物語っていて、ケテルは例えるならひとつのアンテナであり、テファレトとイェソドは下方に流す働きをしていることがわかる。ケテルは二分化しコクマーとビナーに流す。しかしテファレトとイェソドは、それぞれ上位のセフィラを統合し、下の世界に流すのだ。しかしケテルを二分化したところでケテルが消滅するわけではない。むしろケテルの一部分を二分化しているに過ぎないので、そして二分化させようとコクマーとビナーに流したとて、空いたところでさらに新しいものをケテルはキャッチし創造するため、まったく消滅などにはならない。もしケテルが死ねば一瞬でマルクトまでのセフィラが死ぬだろう。
同じようにマルクトから上位へ意識を飛ばすなら、これの反対が発生する。イェソドを二分化しなければならないのだ。マルクトを二分するわけではない。もしマルクトから分割するなら、イェソド、ホド、ネツァクという、3つのセフィラへ伸ばさねばならない。ホドの喪失は容易だが、ひとつでも欠ければ生命の樹ではない。まるで欲張りなほどに3つであり、それ以上でも以下でもいけない。
順番はどこからでもいいと思うが、それぞれのパスに対応するタロットが参考になるだろう。つまりイェソドへは世界、ホドへは審判、ネツァクへは月である。正位置あるいは逆位置の区別はない。それぞれすべてを味わいつくすかのような入念で丹念な経験と体感が必要だ。必死で生命に向き合うなら世界のカードで生み出し、または生み出され、そこには完璧と完全、そして不完全がもたらされる。知識を得るなら天からラッパの音が響くかのような成功体験が現れ、また同時に失敗や失望、挫折も経験する。楽しみや快楽を得るなら果てしない貪欲さ、夢を描く能力、さらには個体差に関連する落差に痛むことになる。これらを味わうと、たいていそこで折れかねない。しかし忘れてならないのは、まだそこにテファレトはないということだ。
テファレトは意志である。その人が生きるための指針である。マルクトを離れたところにある意志は。言葉を借りれば宿命めいたものだと感じられるかもしれない。人生において、どうしても諦めきれないというものは、このテファレトに存在する。マルクトからイェソド、ホド、ネツァクでの段階がとことんまで意識化できたなら、その瞬間ようやくテファレトに迎えられるだろう。それはイェソドからテファレトへのパスが通じた合図だ。そしてここで節制のカードが手に入るのである。テファレトまで手を伸ばせたら、同じ三角に存在するゲブラーとケセドまで手が届くだろう。
 
こうやって繰り返しマルクトからの働きかけをしていくと、次の段階へと続けざまにセフィラを意識化できる状態になっていく。それぞれ人によって得意なパスがあり、開発されていないセフィラがあるが、それらを丹念に察知しながら耕すと、次の段階に入ってくる。いままでの人生になかった展開が現われてくるし、まったく考えも及ばない状況や感情を自覚する。驚くかもしれないが、それらは存在しなかったわけではない。あくまでも存在していたにもかかわらず、気付かなかったのは自分自身であり、無意識のうちにスルーしていただけにすぎないのだ。
むしろ下降するエネルギー、つまりケテルから流出しているものたちは、ダートまたはテファレト、あるいはネツァクあたりで手をこまねいて、マルクトからの信号をいまかいまかと待っている。下降するエネルギーをどこで受け止めるか。それは段階であり意識の違いであり、それぞれの問題や自覚によって変わってくる。そのため、画一的に判断はできない。しかしひとつのサインとして、どこかのセフィラに接続できたなら、それぞれの区切りの一歩になるだろう。
 
これらの意識化の段階に時間がどれくらい必要かという問題は、これも人によって違う。きっかけひとつで瞬く間に飛び越える場合もあるし、いくら叩いても開かれない、という場合もある。おそらく時間がかかる場合は方法ではなく、意志の強さと客観的な自覚に起因すると思う。
たとえば外面的体裁などを取り繕うのはネツァクであり、ここにこだわるとホドあるいはイェソド、テファレトを見失う。ネツァクは生命の樹の左側の柱にある。ネツァクは左の柱の下位のセフィラなので、かなり雑多な意見に惑わされる。耳に心地よい甘言などはこのネツァクに存在する。ここに留まると対向にあるホドの存在を意識できない。どちらか一方に偏ってしまうと生命の樹は重くなる。重くなっても構わないが、ホドも重くしなければ生命の樹そのものが傾いてしまい、それを嫌うならホドそのもの、そしてホドに通じるパスが滞る。重かろうが傾いてしまおうが気にしないなら、そのままの形で広がっていくし、むしろその方が自然だと思える節もある。
 
ただし、もうひとつの方法として、イェソドからホドとネツァクを同時に開くのではなく、迂回する方法もある。一方のセフィラを強化したら、同じ高さにあるセフィラを開く方法だ。ネツァクに留まらない意志があるなら、ホドに刺激を与えれば良い。ネツァクを重くして、そのまますべてをホドにぶつけるのだ。しかしここで忘れてはいけないのは、このネツァクとホドのパスは、タロットでの『16・塔』であるということである。つまり一般的にはショックな出来事が起こる、あるいは猛烈な気付きがあって、既存の考えや感情、状況などは破綻もしくは瓦解されかねない。20・審判の天啓のように、どこか平和的で予定調和的な福音ではなく、避けようのない変化として現れ、かなり派手でわかりやすい、ドカンと手応えのある刺激になるだろう。
 
こうやって、大アルカナのカードを用いながら、次々にパスを意識化する方法は、生命の樹を理解するための最大の体感を与えてくる。すると日常のすべての出来事は、おおげさではなく、大アルカナあるいはセフィラで分別できると気付くだろう。
この一連の作業は、かなり遠回りに思えるかもしれない。しかし実際のところ、ケテルから流れてくるこのエネルギーを、マルクトで存在する自らが手に入れるには、その方法が近道かつわかりやすい。
 
繰り返すが、とても時間はかかる。ケセドだと思っていたものがネツァクだった、というのは往々にしてある。また、上昇するならかならずダートを越えなければならず、それは危険が伴うものだ。危険にさらされる状況は人によって違うばかりか、ショック度さえ計り知れず、耐えられないと感じることがほとんどだろう。基本的には、上昇するならダート、下降させるならイェソドで留まろうとするのが自然だと思う。
マルクトでの過ごし方、あるいは考え方や意志の持ち方。それらのひとつひとつがイェソドを突破し、マルクトへと流し込むきっかけを作るだろう。そうすればすぐに反転し、マルクトから上昇へ転じるような働きかけは、より容易になる。
 
では小アルカナで、マルクトにおける4つの各スートの解釈をしていこう。
 
ワンドの10
生命力や元気さ、活力があるワンドがマルクトに降りると、敵は存在しなくなる。これはつまり『生命力の落としどころがわかる』という意味である。ウェイト版でパメラ氏は、10本のワンドを抱えて、とある地点を目指して歩いている絵を描いた。このある地点とは自らの領地であるかもしれないし、敵の領地かもしれない。しかしながらこの瞬間、戦っているのは自らである。思いワンドを持ち上げて運ぶのだから、自らの身体と戦っているのだ。身体は土の元素に分類されるので、落としどころという意味に沿う。パメラ氏はワンドのテーマを戦いに据えた。そのためマルクトにおける戦いを描かねばならず、いままでいわば浮足立っていた高い位置での、常時アドレナリンを外へ放出させるような戦いではなく、自らに向けて放出する状況を作り出した。自らへ生命力を向けることで、マルクトにおけるワンドの意義を伝えている。一般的にワンドの10は負担だとか、重荷を背負うという意味になるが、引いては落ち着く、怒りの矛先を抑える、新しい目的を見つける、とも解釈できる。負担かどうかは質問者の状況によって異なるが、状況から脱したいという意志を持つのであれば、負担などとは感じないだろう。なにかを成さねばならないが、自らがすべてのきっかけになる。もし逆位置でこのカードが出た場合、目を逸らさずに自分と向き合う必要があることがわかる。重荷を背負わず外へと放出するのではなく、自らのなかに着地点を見つける必要があるだろう。
 
カップの10
情感としてのカップがマルクトに達すると、精神的な調和、人とのつながりのなかの幸福、充実感を味わう、ということになる。思いやりや優しさを手に入れるので、常識的で満ち足りた精神状態になる。これは情感のやり取りも成されるため、ほぼ間違いなく他者が存在し、嬉しいとか楽しいなどという感情を持つだろう。円満や円滑、思い通りになること。もし逆位置でカードが出た場合、要求が高すぎる可能性がある。こうなりたいという状況があまりにも高望みすぎて、状況が伴っていないからだ。しかしカップの10が出たには違わないため、本当に満たされていないのか、ある程度の要求で抑えれば満足しないのか、というところを探る必要があるだろう。身の丈に合った幸せとはなんなのか、本当にそれが必要なのか、質問者に投げかけてみるといい。ただし他のカードの兼ね合いで、かなりの困難という状況が見て取れるなら、他の方向性を読み取ると有意義な材料になる。そればかりには目を向けず、ちょっと違う感じで考えてみませんか、という働きかけだ。ただし恋愛や家族関係でこのカードが逆位置であるなら、かなりシビアだろう。その場合も他のカードから解決法を読み解くと良い。
 
ソードの10
ウェイト版にて、ソードの絵柄に関しては辛辣なものがあるパメラ氏が、これぞというばかりに力を入れたようなカードではあるが、実際のところここまで暗い意味はない。たしかにソードという知性の観点から考えると、この世はすべて劣悪かつ遅れていて、この地上に楽園など存在しないと知るだろう。賢きものは絶望し、自らを傷つけかねない刃で、後ろから誰かによって刺されるのだ。これは理想を追い求め、知性に溺れた者の図だと思われるが、知性がマルクトにまで到達すると、これに近い状況は起こり得る。ただしさらに踏み込むなら、どうすれば良いのかを悟るため、きちんと使い分けられる状態になってくる。『活かし方を知る』のだ。これにはソードを確実にケテルから持ち込む必要があり、こちらもシビアに判別されるだろう。つまり、この絵柄のような状況になっているなら、いまの段階ではソードにおけるなんらかの要素が足りないし、自分はこの状況であるという客観的な知性があるのなら、これほどまでに悲惨なカードにはならない。まわりから見れば悲惨であっても、この人物にとっては満足だと思える状況などいくらでもある。ソードにおいてのマルクトでは、この知性をすべて活かしきる必要があるだろう。このソードで誰かから刺されるのであれば、その誰かとは人物ではない。人物の姿を借りた別物で、それは知そのものだ。こうなると感情はなんの意味も持たず、目標に向かって邁進するとか、犠牲を払ってでも突き進むなにかを見つける、という意味になる。もし逆位置でソードの10が出たのなら、やるべきことが多いという意味だ。多すぎて混乱しているのかもしれないし、それらから目を背けているのかもしれない。知性を活かしきれていない状況でも逆位置で出るが、知を必要としないなら、このカードが現れるはずもない。つまり必要であるから出現する。そうなるなら地上における知を質問者に仕向けるといいだろう。やるべきこと、または知識を身につけることは、質問者にとって必須だ。
 
コインの10
マルクトとコインは非常に親和性がある。目に見えるものすべてに満たされるコインの10は、マルクトでは物質面あるいは身体性において最大の幸福だ。すべてを手に入れ満たされ、これ以上ないほどのしっかりした実感を得る。これを至上の幸福とみる人が多いだろう。小アルカナにおいてはワンド、カップ、ソード、コインの順で進んでおり、さらにはそのなかでもエースたる1から始まり10で終わる。つまりコインの10はすべての終わり、完結だ。生命の樹のセフィラの性質を骨の髄まで味わったため、これ以上なにもない。そこにあるのは満足と達成感だ。なんでもある、なんでも手に入れる。ところが逆位置になれば、どうしようもない不足感がある。これは質問者の感覚的な捉え方に起因するので、まわりがいくら幸せだろうと考えていても、またどれだけそう言い聞かせても、質問者本人はまったくそう思っていない。これはコイン10の受け止めを拒絶した姿だ。ただしその不足感は、質問者を次の世界へ進ませたり、いまの世界を逆回転させてどこかに戻っていったりするので、無意味ではない。足るを知る心がけさえあればコイン10の逆位置はひっくり返る可能性がある。それでもこれのカードは静止や停滞を望まない人間にとっては脅威で、わざとこのカードを避ける場合がある場合があることを忘れてはならない。ちょっと不便、あるいは不都合、そして不足こそが生きる糧となり抜け道になるだろう。こうなるとガチガチに固められたコインの10は不均衡になり、正位置のコインの10に落ち着くか、それともそれから逃れるか、そのどちらかの方向性しかない。
 
以上、マルクトについてでした。
実際に占いをしていると、このマルクトの状態は非常に大切で、マルクトを違えれば言葉が通じない状態に陥りやすくなります。これは占いを始めてすぐ感じるものですが、伝える側の方法論として、どう伝えたらいいのかわからない、という感じです。出ているカードそのものを言葉にしてもいまいち手応えがないとか、反応が芳しくないのなら、質問者のマルクトに合わせる必要があるでしょう。具体的に言うと質問者が精神性を重視しているか、それとも物質界を前面に出しているのか、という問題になりますが、これはカードを展開する解釈者が上手に調整し、意識して変えていかねばなりません。ハイブリッドな精神状態である方々はたくさんいらっしゃいますし、むしろその方が自然です。しかしどちら側が強いのか、という点は考慮しなければなりません。無理矢理にでもこちら側のマルクトに合わせて上手くいくこともありますが、それは質問者を煙に巻くような感じになります。だからこそしっかりと、展開されたカードをどう換言すれば伝わるのか、というところを探りましょう。相手のマルクトの置かれた地点に寄り添うのです。これはひとり占いでも同じことです。パッと浮かんだなにかを強く意識して言葉にするのは一種の労力が必要になります。この労力を感じないなら、それは自然にできているのですが、自然にできているという自覚あるいは感覚を持つと、惑わされずに話せると思います。
いずれにせよマルクトを複数の面で考えるといいと思います。いってみれば、いろんな考え方や立場を理解する、という地点までつながり、それが占う側にとって大きな武器となるはずだからです。

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