タロット。17・星

生命の樹ではネツァクとホドのパス
 
ひとつ前の16・塔のカードで徹底的に築き上げた物質を破壊された。そのためなんのこだわりがない状態になるとどうなるか、というカードが、この17・星のカードだ。
塔がなくなった地面には人口建造物がない。たとえば東京のビル群が破壊されつくしたらどうなるだろう。ビルに遮られた空は広々と広がり、夜になれば星は輝きを取り戻すだろう。
17という数字は素数であり、いきなり現れる流れである。この場合は下一桁の数字と、合計された筋の両方で意味を吟味するが、下一桁は7であり戦車のカード、合計すると8であり正義(あるいは力)のカードだ。どちらにしても切り崩す勢いと身を守る強固さがあるので、この17という数字の、たとえば一般的に解釈される『願い』や『希望』などとは似つかわしくないと思われるかもしれない。しかしよくよく吟味すれば、この勢いや強固さというのは、なるほど17・星のカードにも明確に表れている。
そもそも生命の樹で考えるタロットは、源流のケテルから地球のマルクトに至るまでの工程があるが、この中心に走っているカードは2・女教皇、14・節制、21・世界の3枚しかない。ケテルからテファレトに通じる女教皇、テファレトからイェソドへ通じる節制、イェソドからマルクトへの世界、である。そしてそのカードを上から順番に並べてから、この17・星のカードを節制の斜め右下に置くと、非常に面白いことがわかる。
ウェイト版での女教皇のドレスは足元が波のように波うち、あたかも水のようだ。足元に転がる月はイェソド。節制の天使は手にしたカップで女教皇のドレスの水をこねくり回し、足元への水たまりには一滴も落とさず、しかし同じ水を足元にたたえる。世界のカードは生まれ出ずる存在が水色の空間の中で祝福されていて、生命の樹のパスがすべて完了したことを意味しているのだが、節制のカードの水が星のカードでの聖なる流れであったらどうなるだろう。もし節制の天使が姿を変え、この星のカードの女性にだったらどうなるだろう。節制の天使が身に着けていたものは塔の雷で破壊されていたと考えたらどうなるだろう。
この天使が姿を変えて女性になったのか、という考察は横に置き、節制の段階では両手で移し替えていたカップが離れ、水たまりと地面それぞれに注がれている、ということは大きな変化だ。かなりストレートに、思想や意志や、いってみれば社会的な枠組みなどが塔で破壊され、星のカードになったということにも通じてくる。
0・愚者では波へ進む人物が描かれているが、実はウェイト版での大アルカナにおいて、1・魔術師から13・死神に至るまで、水の描写があるのは2・女教皇と3・女帝、4・皇帝、7・戦車だけだ。1から12まで水の描写は少ないのだが、13・死神から一気に増えてきて、14、17、18、20となる。つまり2で生み出された水は3と4を通過し、7の背後を流れ、それからはまるで伏流水のように13までお預けになっている。だからこそ大アルカナ前半と後半の水に関する描かれ方を追うだけでも有意義だとは思う。しかも、その水に直接的に触れている人型の像は節制の天使と星の女性だけで、月のカードはサソリだけが水に触れている。20のカードでさえ人型の像は石の船に乗っているので水には触っていないのだ。
これだけでも星のカードの異端性、くわえて素数であることも考えると、やや読み方に工夫が必要なことがわかるだろう。
 
ネツァクは惑星で考えると金星になり、セフィラの数字は7に対応する。7は落差の数であり、私とあなた、あれとこれ、というものを認識し把握する。交わらないもの、あるいは今後もしかしたら交わるかもしれないが今の状態では交わっていないもの。そもそもネツァクの勝利という意味は、戦う相手がいてからこそ成し得るものであり、自分と戦うという言葉を借りたとしても、自分の内面に徹底して交戦する存在がなければならない。なにか克服するような対象を見つけるのは、この落差の問題である。
金星は占星術でいうとベネフィック、つまり吉星になるのだが、これはネツァクに対応させられる勝利という言葉ひとつで済む。現実世界での勝利という意味で考えると狭義になるので付け加えるが、基本的には他者の存在あるいは内面の克服したい自分自身を認識すると、抗いながらも挑むことになる。誰か、あるいはみんなと仲良くしましょう、というのは8の数字を待たねばならない。8の中には現実世界で存在感を発揮するが、これは自分と他者の境目を失くしてしまう数字であり、すべてを吹き飛ばして固め、成功する数である。7は意識をしているが、あくまでも一対一の関係で、その違いを埋めるべく進む数だ。ネツァクは慈悲の柱側にあり、こちらは受け入れる側、つまり他者からの影響を受ける柱になる。なにか対象者のような存在からの働きかけによって形作られる。コクマーから続くこの慈悲の柱は、混沌とした海のようなものであり、どろどろに溶けた状態と思ってもいい。ひとつ上のセフィラであるケセドは木星に該当しているが、それはそのまま他者を受け入れ包み込み拡大する。コクマーは飲み込み溶かす。ネツァクはそれよりもうひとつ現実的で、甘く優しく触れ、その溝を認識する。
たとえば女性が結婚願望を持った場合『なんとなく結婚したいな』と思うのがコクマー。それがケセドに向かうと『どういう男性と結婚したい』という方向性が見えてくる。そのうちケセドが熟成されると、今度はネツァクで『あの人と結婚したい』という具合になる。これらの段階は他の状況でもある。たとえば『仕事をしたいと思った場合』それはコクマーであり、そのうちケセドで『どのような業種あるいは形態がいいか』と模索し始める。遅かれ早かれ『この仕事がしたい』あるいは『あの会社に入りたい』という状況になる。生命の樹の高さのセフィラには、このくらいの細分化、あるいは具体性を持った違いがあるのだ。もちろん峻厳の柱の側、つまりビナーからゲブラーさらにはホド、という流れでも同じように細分化され具体的になっていくし、それは中央の均衡の柱へも影響を与える。どの柱も他の2柱にパスでつながれているため、それぞれのパスが塞がれていない限り、順調な経過を辿ってマルクトに降りていくのである。
 
ネツァクがイェソドとつながると、このネツァクの働きを延々がイェソドに注ぎ続けられる。イェソドには占星術の月が割り当てられていて、そのまま読めば感情や生活になるのだが、またこちらもベネフィックであるので吉星だ。つまり吉星と吉星の組み合わせになる。
占星術で金星と月のアスペクトがあるなら、存在するハウスの意味での幸運と読む。なにか楽しいことが多く起こるし、そのアスペクトをネイタルに持つなら、かなりポジティブな感情を持つ人物ということになる。かなり大変なことが起こっても、なんとなく過ごしているうちにうまくいくようになりました、という状態だ。基本的には月が関わっているために、たとえハウスを読み込まなくとも、いろんな局面でポジティブなので、苦労をしても苦労とは思わないような明るさがある。また、もしネイタルを持つ本人がかなり苦しく悲しい思いをしていても、実際のところは深刻にならずとも大丈夫という意味もある。そのうちうまくいきますよ、という言葉がそのまま当てはまってしまうのだ。しかし金星でもあるので、この金星が他の天体から傷をつけられている場合ならその限りではない。
しかしこの星のカードは他のセフィラの影響を受けないため、単独での金星と月のアスペクトになり、かなり好ましい状態と言える。
落差があっても楽しくその差を埋め続けるのだ。
ここで7・戦車や8.正義(あるいは力)の様相が読み取れるだろう。
 
イェソドは基礎と訳されるように、月に当てはめるなら地球から見ればとても身近な天体だ。つまり宇宙的ななにかを感じさせるものであり、それは太陽と並んで宇宙の一端を見せてくれる。とても眩しいために太陽は直接的に裸眼で見られないので、地球にいるままに宇宙を感じたいなら月か恒星が代表的なものになる。きちんと天に昇り満ち欠けをするリズム性があるため暦にもなるが、この繰り返す姿勢はイェソドにも通じている。
そのためネツァクは繰り返しイェソドに働きかける。ただし実際のところは極端ではあるが、イェソドがネツァクから呼び込む、と言った方が適切だろう。ネツァクから注ぎ込まれる水は大きな川やうねりとなってイェソドに流れ込むが、これはイェソドに受け入れるだけのものがあり、その空虚さを埋めるため、または流れに沿うだけの通路があって、水を呼び込んでいるのである。繰り返し、絶え間なく動く地球から眺める天空の星のように、それは途切れることがない。
 
ここでウェイト版の星のカードに描かれたものを解釈すると、いろいろ重要な記載はあるが、女性が星を見ていない、ということに注意せねばならない。女性は下を向きながら一心不乱にイェソドに向かい水を注ぎこんでいる。つまり女性は星の輝きに気が付いておらず、注いだ先がどうなるかまで考えていないのだ。言ってみれば他に目が移らない姿勢である。他のことに気を取られないので、ひたすら目の前の水たまりと大地に水を注ぎ入れている。
そこでこの姿勢に注目すると、実は水たまりの向かう先はイェソドなのだが、大地へも水が注がれている。これはもう一方のマルクトにも水が注がれていて、それは乾いた大地のマルクトを動かすことになる。つまり18・月のカードの原動力というか、走りになる。
マルセイユ版での星のカードも『川へと大地への注ぎ込み』という絵柄なので、これは塔のカードで傷ついたものへの癒しや手当てなどを意味している。
 
なぜ星のカードの女性は水を注ぎ続けているのだろう。ネツァクが金星に対応するとは述べたが、金星は若い女性、あるいは喜びや楽しさだ。このネツァクは前述したとおりイェソドから呼ばれているのだが、とにかく楽しんでいる。たとえば夢中になって手芸や料理をしている女性を想像してみると良いだろう。手芸や料理は女性ばかりのものではないという論調が重要なのではなく、目の前のことに一心不乱に楽しめる状態、という意味である。あまりにも集中しているために周囲が見えていない。手先ばかりに意識が向かい、大きな音がしても、まわりが暗くなっても気が付かないことがある。この状態が星のカードに描かれた女性である。そのため星のカードの女性は、大きな星が頭上で輝いていることすら気が付かないのだ。それは希望の星なのかもしれないし、運命を司る星なのかもしれない。星は8つ輝いていて、社会的な問題を解決する事象になる。しかし女性は相変わらず裸のまま水を注ぎ続けるだけで、一向に気が付かないばかりだ。
星のカードで注意すべき点は、心地よいためにその場から離れない、という問題がある。夢中になりすぎるあまり他に気が向かない。
これが7の数字と8の数字の合致した姿と言っても過言ではないだろう。
 
人によってはこの状態から次へ早く移行しようとするのだが、長く居続ける利点はある。このカードで大きなビジョンを描くことは、イェソドとマルクトを肥大化させるのだ。このカードで目標を設定できる、塔のカードで破壊された状態で、素のままの状態になれて、開放された本来の道筋が見えてくる。たとえ頭上の星に気が付かなくとも、この水の注ぎ込みは無駄にはならない。反対に言うならば、このカードで大きなビジョンを描かなければ、実現できる成功も達成感も、それなりのものにしかならないのだ。つまりここで大きなものにしておかないと、小さな成功や達成にしかならない。そのため繰り返し続けていく側面もある。さらには、このイェソドとマルクトの肥大化を無意識のうちに実行していくと、いきおい他のセフィラもつられて肥大化することになるが、なんらかの原因で他のセフィラが肥大化できない場合、その生命の樹はバランスを崩してしまうだろう。つまりバランスを崩さないようにしながらイェソドとマルクトを肥大化させるので、時間がかかっても仕方がないところはある。
 
しかし楽しい状態であるからこそ結果など気にせず、目標にばかり目をむけてしまい、期待するだけで形にはならない。それでも楽しいあまりに、このカードにとどまってしまう。それが星のカードの問題となるべき点だろう。肥大化したイェソドとマルクトにとって、他の小型のままのセフィラは大問題になる。そのため形にすべき峻厳の柱、さらには均衡の柱を大きくするのだが、それらの柱の力なくしては形にはなりえない。星のカードをうまく形にするためには、さらには世界のカードで安全に着地するためには、ホドとマルクトの力を使わねばならない。ただし肥大化したマルクトをネツァクが受け止めると、次の月のカードになるので、月のカードでの不安定性や不安感なども大きくなるため、無意識のうちに星のカードに留まることもあるので、そのあたりは他のセフィラの状態を考えなければならず、そしてきちんと形にしなければならないという課題が見えてくる。
 
愚者の旅は壊された塔の残骸を取り除いた女性が希望を胸にして水を注ぐ光景を目にする。愚者には背後の木にとまる鳥も見えているので、いつかは時が来ることを知ってはいるものの、女性には伝わらない。時を告げる鳥が大きく鳴く、あるいは羽ばたいて女性のまわりを飛ぶなどして、意識を向けさせなければならないことを、愚者は知るだろう。しかし強い星に照らされた青色のこの場所で、塔の衝撃は少しずつ癒され、そのうち女性は希望の星を具体的に目の当たりにすることになる。
 
 
以上、星のカードでした。
基本的に占いの場で出ると、私などは「良かったねえ」とつい言ってしまうカードなのですが、忘れてはならないのは、塔のカードを経ているということです。でも希望の星だし、可能性は大きいので、良かったねえと言います。
素のあなたってどういう人なの?という問いにきちんと答えられる方々は奇特かもしれません。でも素のあなたを取り戻すなら、そして希望を見つけるなら、この星のカードはずいぶん役に立ってくれるし、かなり思い通りのものを運んできてくれます。
続けないといけないので、楽めるとはいえ、しんどいと思える瞬間もあるでしょう。でも頑張ると見えてくるものはありますから、辛抱強く自分に向き合ったり、なにかをのんびり突き詰めたりすると良いのです。
やるべきことが具体的に見つかるカードなのですから。

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